177_聖女の翅
……その時、ニケアは新宿の空を飛んでいた。
碧に輝く光の翅を存分に広げ、眼下に広がる灰色の摩天楼を見下ろしていた。
今やこの空の中心は彼女にある。
幾多もの船を侍らせ、行軍する様はその力の強大さを示していた。
「しかし、よくわかりませんな。ここは一体どこなのです?」
隣を飛ぶ言語船『イシュメイル』。の甲板にて、猫のメロン将軍が首を捻っているのが見えた。
彼としては、聖女戦線から突然変な場所に迷い込んだ形になる。
困惑するのも無理ないだろうが、それでもニケアが近くにいるだけで迷いはないのか、指揮そのものに乱れはなかった。
「ふふふ、将軍。安心してくれ。すぐに帰れるさ」
「まぁ聖女様がそういうのならば、そうなのでしょうが」
「うん、まぁ、そういうことだ!」
メロン将軍の様子に、ニケアは微笑を浮かべた。
そう、すぐに終わる。すべては予定通りに進んでいる。
翅の光は時と共にどんどん強くなる。
幻想が雪と共に舞い上がり、碧の色彩が空を侵食していく。
この調子で幻想濃度が高まり続ければ、この“現実”をぶち抜くに足る力は得られるに違いない。
そうすれば、たとえ父上がいなくとも、元のあの“虚構”の想念層に戻れるのだという。
「ニケア。準備はよくて?」
「うん? ああ、貴方か。問題ないよ」
『イシュメイル』の甲板には、メロン将軍のほかにもう一人の影があった。
太母は、またあの竜の仮面を被った呪術師の姿をしていた。
「何も問題ないさ」
「ふふふ……ならいいけど、困ったら何時でも頼ってね?」
ニケアはどの聖女よりも彼女と長い付き合いである。
だから、太母が仮面の向こうで微笑んだのがわかった。
その声音は何時だって柔らかく、穏やかで、優しいものだった。
吹き続ける中、風が頬にあたる。
冷たい風に髪がばさばさと舞う中、ニケアは太母から視線を外した。
そして眼下に広がる新宿の街を見下ろし──
「──うん、始めようか」
そう言い放つと同時に、ニケアはその美しい翅を目いっぱい広げるのだった。
◇
……倒れ伏した少女と対称的に、残された少年は、ただ立ち尽くしていた。
「────」
ずっと握っていた剣は既にその手から落ち、前を見続けてきた瞳ここに来て下に向いていた。
田中には、その背中がずっと小さいものに見えた。
いや、元々小柄な少年だったのだ。
田中よりも年下で、それなのにその小ささをずっと感じさせなかった。
それだけ彼は強くあり続けていた。
「……ハイネ」
「何も、言葉は必要ありません」
田中の言葉に対し、彼はすぐさま言葉を返した。
「今の僕には、もう何も要らないんです」
その言葉は震えてはいなかった。
嗚咽など混じっていないし、可能な限り何時もの口調を意識しているようだった。
だが、同時に彼が必死に想いを押さえつけていることもわかるような、そんな、苦しい言葉だった。
そうして、その場に一瞬の静寂が舞い降りた。
ハイネは口を噤み、クリスは倒れ伏した。
田中とキョウもまた、彼らにかけるべき言葉を持たなかった。
周りの人間たちはみんな声を上げて逃げ出していた。
混乱の中心たる新宿から、一目散に逃げようとするばかりだった。
そんな中だから、かつん、かつん、とゆっくりと歩いてくる靴音が、やけに耳に残った。
「やっ、元気?
ここが最前線ってことでいい?
雇い主的には、可能な限り中心に行きたがってるんだけど」
「……アンタか」
田中が顔を上げると、そこには微笑みを浮かべるカーバンクルがいた。
彼女の隣には六反園雪乃が立っていて、熱っぽいまなざしで混乱の新宿と、そして田中を見ている。
頬を紅潮させる雪乃は、明らかにこの状況に興奮しているようだった。
「──ふうん、なるほどね」
そしてカーバンクルは何かを察するようにそう漏らした。
その視線の先にはハイネとクリスがいる。
彼らの関係と、ここで何が起こったのか、すべてでなくとも彼女ならだいたいわかってしまうのだろう。
「……バカだよ、ホント。真面目過ぎるんだから」
それは果たして誰に向けた言葉だったか。
彼女はそう小さく呟いたのち、田中を見据えた。
「さて田中くん。わかってると思うが、色々ヤバ気な空だぜ、アレ」
そうして彼女が示した先を見上げれば──碧の翅が広がっていた。
幾多もの色彩が絡み合いきらめいている。
それは蝶でもようあり、虹のようでもあった。
東京の灰色の街並みを覆い尽くす勢いで、その翅は成長しているのだった。
その核となるのは、碧の色彩だった。
空の一角に、光が渦巻き、球を形成している。
あそこにきっと──聖女ニケアがいる。
「“現実”をぶち破り、“虚構”へと舞い戻る」
「え?」
「聖女の目的だそうだ。聞いてきたよ」
「……ふぅん、なるほどねぇ。そんなことしなくとも、この世界は時期に“虚構”に飲まれちゃいそうだけど。
いや、それを加速させることで戻るのかな?」
ふふふ、とカーバンクルは微笑んで、
「私は喜べばいいのか、悲しめばいいのかわからないな。
帰るべきなのか? 私は」
「帰った方がいいさ、どんな場所であれ、あっちがアンタの“現実”なんだろう」
田中はそう言って大きく息を吐いた。
それはある種、諦めなのかもしれなかった。
「“現実”をぶち破るって……この世界を壊すということなのですか?」
その会話に、雪乃は眉を上げた。
田中はこくりと頷く。それが目的でないとはいえ、結果的にそうなるのだろう。
そして雪乃は、ますます頬を紅潮させるのだった。
「そ、そんなの駄目です!」
次に声を上げたのはキョウだった。
彼女はクリスを介抱しつつも顔を上げ、
「ここにどれだけの人が生きていると思うんですか!」
「でも、私らにしてみれば、おとぎ話の住人みたいなものらしいぜ、ここ。じゃあ、いいんじゃない?」
「何馬鹿なこと言ってんですか! みんな生きてます」
カーバンクルの露悪的な物言いをキョウは切り捨てた。
田中はもまた頷いて、
「どうあれ、俺はそこに行く」
「へぇ、君もそうなんだ。ま、どんな場面であろうとも“聖女狩り”だけは優先するのが君だものな」
「…………」
田中は何も言わなかった。
「でも、どうやって行くんだい? あの空まで行かないとダメだろうし」
「キョウ」
「はい!? 私ですか?」
驚いた口調でキョウは目を見開く。
何をそんな、と思ったが、そういえば彼女のことを名前で呼ぶのはかなり久々だった気がする。
「もうきっと翼も出せるだろ」
「え、あ、本当です!」
言うとキョウの背中に白い翼が広げられた。
キョウ自身は意外そうにそれを見ているが、偽剣が使えて、跳躍も楽々とこなせるのだから、彼女の翼も現れるのは寧ろ自然だろう。
「……連れていってほしい。あそこに」
「厭です!」
即答された。
「このままだと“現実”が砕ける。
その前にあそこに行ってしまいたい」
「ダメですよう、だってロイ君連れていったら、また聖女様を殺す気でしょう?」
キョウは諭すように言う。
彼女と交渉したり、ましてや力づくで強制させるのは無理であることを、田中はもう知っていた。
「……今回は、ちょっと違う」
「え?」
だから、信じてもらうことにした。
「この自分が何者かもわからないまま、勝手に全部終わらせられてたまるか。
そう思ったから、乗り込まないと気が済まない」
舞台装置だと、ニケアは田中のことを言っていた。
敵ではない。相対すべきものではない。
ただ利用されるだけのものだと、彼女に告げられたのだ。
──納得、できるか。
その想いは本心だった。
「俺は、あそこにいる奴にもう一度会わないと気が済まない」