175_誰でもいいから私だけの ⑥
──それは、まさしく奇蹟だった。
異端審問官と化したハイネは、かすかな過去の残滓を求めて戦場に赴いた。
聖女戦線。
時がゆがみ、過去がおかしな形で浮かびあがる場所。
そこでは“神隠し”と呼ばれる現象や、かつての“春”の巫女たちの記憶が踊り続けている。
過去を求めてやってきたハイネにしてみれば、それらの要素は奇妙なほど符号していた。
“でも、こんな場所だから、僕はつい探してしまうんですよ。自分の知ってる過去が、どこかに転がってるんじゃないかって。
例えば、もう消えてしまったあの村の人たちとか──また、会えたらいいなって”
それは、心からの想いだった。
おかしくなった因果が過去を呼ぶというのならば、視界のどこか片隅に彼らがいてもいいではないか。
ハイネのほんとうの名前を知る、家族たちが。
それを求めて、彼は聖女戦線にやってきたのだった。
しかし、実際のところハイネは既に諦めてもいた。
きっとそこには誰も残っていない。
あの炎の中、誰か一人でも生き残れたはずがない。
自分がやっているのはただの感傷的な行いに過ぎない。
そんな想いに取り憑かれながら、ハイネは黙々と偽剣をふるっていた。
……そんな彼が、彼女を見つけることができたことを、奇蹟と言わずしてなんという。
闘いの中、ハイネは見つけた。
見つけてしまった。
異端審問官として諜報活動に動いていた時だった。
聖女軍の一員として同伴していた、一人の姿を見た。
姿は当然変わっていた。
かつての彼女はまだ剣など握ってはいなかった。
まだまだ小柄ではあるが、ハイネの記憶の中よりはずっと大きくなっていた。
それでも一目見た瞬間にわかった。
何度も何度も、擦り切れるほど記憶の中で反芻した、大切な人。
その時、仮面で遮られていたが、ハイネは一人涙をしていた。
見つけることができたこと、そして、生きていてくれたこと。
そんなことに比べれば、彼女が聖女軍の制服を着ていたことなど、どうでもいいことだった。
■■■■■。
彼はだから、その名を呼んだのだ。
雪降り続ける戦場で、その魂に刻まれた名を呼んだ。
しかし──
「……許さないから」
駆け寄ったハイネを、彼女は憎悪のまなざしと共に見返してきた。
そんな表情をする■■■■■は、ハイネの知らない誰かだった。
◇
新宿の街を襲う混乱は、徐々に物理的な破壊へと近づいていった。
展開された言語船たちは、しばし戸惑うようにそこに浮かんでいた。
だが──彼らはまだ戦場にいるのだ。
転移した言語船は聖女軍のものが多かったが、しかし“教会”の戦力だって零ではなかった。
そこが聖女戦線であろうが、この東京であろうが、もはや関係ない。
共に空にある以上、引き金を引く意味があるのだった。
だから、空には眩い閃光が走っていた。
空より降り注ぐ光は炎となり、地上に張り付いた灰色のビルに降り注ぐ。
そこに至って、人々は初めて事態の重大さを把握したのかもしれない。
多くの人々は叫びを上げ、空に渦巻く碧の光から逃げようとしていた。
碧の光がみるみるうちに光を強めていく。
きっとあれは──聖女ニケアの光だ。
崩れ行く東京にあって、ハイネとクリスの闘いは、あまりにもちっぽけなものだった。
みんな空を見るのに手いっぱいで、誰も彼らの闘いには目を向けていない。
見ているのは、田中だけだった。
「その人は──貴方の本当の家族なんです!」
二人の間に割り込んだキョウは、クリスに向かって言う。
それはきっと──正しい。
田中は知っている。
聖女戦線から転移する直前の、ハイネの悲痛な言葉を。
“──再会、だったんです”
“この戦場で、ようやく会えたのに。
妹に、たった一人の肉親にです!”
“僕のことを、彼女は忘れていた。会っても、僕が兄だと、お兄ちゃんだと認めてくれなかった。
だから──こうして守るしか、なかったんだ!”
あの時のハイネの声は、いつものよく通る穏やかなそれとはまったく異なっていた。
心の奥から絞り出した、震える声だった。
「……この人は、クリスさんのために、ずっと戦っていたんです。
見たでしょう? 敵である貴方を何度も、何度も救ってきたところを」
剣を交わしながら、キョウがクリスへと告げる。
田中の剣を止め、瓦礫から彼女を守った。
そしてクリスのために、元の世界に戻ることを躊躇わなかった。
あらゆる力を使って、彼はクリスを守ろうとしていた。
「なんで──まだ気づかないんですか?
忘れてしまったんですか? この人のこと、本当に……」
クリスはキョウをキッと睨みつけた。
その感情の昂ぶりに釣られたか、瞳に一瞬だけ碧の色彩が灯る。
その色を見たとき、田中ははっとした。
聖別。
クリスがその小柄な身体で力を発揮できるのは、聖別という特殊な処置を受けたからだ。
それは弥生の小説で読んだことのある設定だった。
聖女の言語構成を模倣した特殊な言語を書き込む特異な技術。
聖女軍の兵士たちの多くは、この聖別によって戦力を増強していた。
だが聖別も万能ではない。
特に初期の聖別実験においては、寿命の減少や記憶の欠損、果てには拒絶反応による異形化まで見られたのだという。
──記憶の、欠損。
田中はその可能性に行きついた。
もしかすると、クリスの意固地なまでの拒絶は、聖別が原因なのではないかと。
だとすれば、あるいは──
「……気づいていない訳、ないでしょ」
──しかし、クリスははっきりとした口調で言った。
「その人が! その人が本当の兄だってことくらい! 気づいてるわよ!
ええ! 覚えているもの! おぼろげでも、全部忘れるなんてこと、ある訳ないじゃない。
忘れたくても……忘れられないくらいなのに!」
クリスの叫びにキョウは目を見開いていた。
「でも、いや、だからこそ──許せないの! みんなを殺したこいつが!」