173_誰でもいいから私だけの ④
異端審問官、“十一席”。
2《ツヴァイ》。
ハイネ。
少年。
そのどれもが彼を現す言葉であり、しかしどれもほんとうの名前ではない、とも思っていた。
異端審問官というのは職業のようなもの。
2《ツヴァイ》というのは職務上の番号。
ハイネに至っては“教会”に入る際に適当にでっち上げた名前に過ぎない。
唯一カーバンクルが呼んでくれる、少年、という呼び方だけは、他と少し違うものだと思っているが。
しかしそれにしたって、ほんとうの名前であるはずがない。
彼にあるはずの本当の名前、生まれたときに親からもらった名前は、ここ十年近く誰からも呼んでもらっていない。
そもそもその名を知っている人間が一人しかいないのだ。
その一人が拒絶するのだから、まぁそれも当然だろうと思う。
──十年前。
雪が降り続ける村で、まだ幼かったハイネはすでに剣を握っていた。
村は“教会”と聖女軍の闘いの間に挟まれるような位置にあった。
当然、周りにはありとあらゆる脅威があった。
どちらの陣営から流れ弾が飛んでくるのかはわからない。
どこぞの盗賊ギルドの連中が歩き回っているみたいなこともあった。
そうでなくとも、異形が日常的に現れていた。
そんな村において、ハイネは気づいたころから剣をふるっていた。
教え込まされていた。
父からも、母からも、それ以外の人たちからも、ハイネは──そのときは別の名前だったが──生き抜くための術を教えられていた。
どんな手を使ってでも生き抜け。
母はかつてハイネにそう告げた。
常に優先すべきこととして、言葉よりも早くハイネはその信条を刻み込まれた。
生きる、ということを躊躇ってはいけない。
その覚悟こそが、何よりも強い武器になるのだと、母はお伽話の代わりにハイネに聞かせたものだ。
そしてもう一つ──何のために生きるのかも忘れてはいけない、とも教えられた。
生きること。
それそのことを目的にしてはいけない。
生きるということは、本来当たり前にあってしかるべきことなのだ。
そうともいかない現実は確かにある。
しかし生きるために生きる、というのは、やはり歪んでいる、と母はいつも言っていた。
だから、何のために生きるかを、決めておけ。
もっと言うのならば、それは──何を守るために生きるか、という問いかけだった。
“お前たちを守るために、私も、あの人も闘っている。
だからお前は、この子のために闘ってやりなさい”
母はそう言って柔らかに笑った。
その隣には、ハイネのたった一人の、血を分けた妹がいた。
母も、父も、ハイネを活かすために剣を振るった。
だから同じように、自分もみなを守るために剣を振るいたいと、そう思っていた。
そのためだけに毎日を必死に生きてきた。
あるときは身の丈の数倍ほどもある異形と戦わせられ、ある時は雪や幻想の奔流に飲まれそうにもなった。
村の家族以外のすべてが敵だった。
年端のいかない妹はまだ眠ってばかりで、この現実をまだ知らない。
だがその何も知らない顔を見ると、ハイネは救われた心地になるのだった。
──しかし、ハイネの闘いは唐突に終わりを見せた。
“教会”と聖女軍の戦闘が飛び火をしたのだった。
突如として炎が村を襲ったことを覚えている。
いや正確には村を狙って襲ったわけではない。
同陣営の戦場が、たまたま村にまで広がってきただけだ。
隠れ潜んでいたつもりだった村は、そうなってしまえばもろかった。
父も、母も、ハイネも、必死に戦った。
しかし所詮は吹けば飛ぶような小さな規模の村。
手も足もでず、村は壊滅状態となっていた。
ハイネはその日のことを、未だに鮮明に思い出すことができる。
父の真っ赤に染まった背中を、母の壮絶なる最期の言葉を。
“私たちはお前を愛した。私たちは、お前を守った”
鬼神のごとく剣振るう母は、ハイネを振り返ることなく、すべてを過去形で語った。
“私たちは、生きた”
その言葉に込められた激励を、ハイネは感じ取っていた
だからハイネもまた振り向くことはなかった。
父や母に守られたハイネもまた、残された妹を守るべく生きようとした──
──でも結局、救えなかった。
その日、ハイネの意識は途切れている。
最後に、なにか眩い碧の光を見たような気がするが──それもあいまいだった。
血まみれの村から暗転し、気づけばハイネは“教会”の傷病病院にいた。
ベッドに寝かされた彼を、黒いカソックを着た医者たちが治療していた。
どうやら、ハイネは助かったようだった。
いかにしてそこまで連れてこられたのか、よく覚えていない。
捕虜としてなのか、奴隷としてなのか、と何故自分を保護したのか、と最初はいぶかしんだものだ。
彼のほかに村出身のものは誰一人としていなかった。しかし戦意は衰えてはいなかった。
最悪足さえ動くようになれば、剣を奪い脱出できる。
その想いでハイネは周りを見ていた。
(ちなみに、ハイネ、と言う名前をでっちあげたのもここだった)
だが少なくともそこでの待遇は悪いものではなかった。
他の兵士たちと同様の治療を受け、ある程度の行動の自由さえも認められた。
思うに、聞けば彼の立ち位置を誰かが教えてくれただろう。
だが必要以上に辺りを警戒したハイネは、誰にも何も尋ねることなく、不可思議な心地をずっと抱えたままだった。
「よっ、君が例の美少年?」
そんな折に、彼女とハイネは出会った。
漆黒の髪をした、紅い瞳をした女性だった。
その灰色のカソックは周りから非常に浮いていたことを覚えている。