171_誰でもいいから私だけの ②
実のところ、クリスティアーネ・ブランミッシェルは、生まれた頃からクリスティアーネ・ブランミッシェルだった訳ではない。
その前に■■■■■という少女がいた。
でもそれは別の名前をした、別の誰かで、今のクリスとは同じ線の上では結べないような存在だ。
確かに、■■■■■という誰かもどこかにいたんだろうと思う。
だけど、もうそれは喪われてしまったのだ。
あの時、他でもないあの人たちのために、クリスティアーネ・ブランミッシェルを名乗った、あの時から。
そういう風に、クリス自身は考えている。
──十年ほど前。
時代は変わらず12世紀。
人間時代始まって以来の暗黒時代である今、社会らしきものはもはや消えてなくなってしまっている。
そんな中、■■■■■はその生を受けた。
生まれたのは雪降り続ける村だった。
“教会”と聖女軍の闘いの隙間を縫うようように、ひっそりと存在していた村だった。
そこでの暮らしは貧しくて、つらかったはずだが、実のところ彼女はよく覚えていない。
何分幼い時分の頃の話だ。
当然、彼女にも母親がいて、父親がいたのだろう。
他にも家族がいたのかもしれなかった。
友達がいて、好きな人がいて、嫌いな人がいた。
そうは思いはするのだが、しかしその記憶はすべては溶けてしまった。
降り続ける雪の光景だけは、薄らぼんやりと思い出せるのだけど。
──もうすでにすべて、真っ赤な血に沈んでしまった。
雪降り続ける村はもうすでにない。
彼女が気が付いた時には、すべてが焼き尽くされていた。
“教会”の兵士たちがやってきて、全員が全員、殺し尽くしていったのだという。
そんな中で、■■■■■だけは生き残った。
本当に、本当に、■■■■■は幸運だったのだろう。
“教会”たちの侵攻の最中、運よく通りすがってくれた、聖女様に救われたのだから。
駆け付けた聖女ニケアと、その仲間たちが彼女を保護してくれた。
その時のことを、みんなはとても痛ましい過去だと思っている。
事実それは間違いではないだろう。
小さな村だったとはいえ、まるごと一つのコミュニティが消えてしまっているのだから。
だけど、実はクリス個人としては、その時のことは、さほど重大なものと思ってはいない。
思えないのだ。
確かに■■■■■という少女にしてみれば、それはとても痛ましい悲劇だったのだと思う。
でもその時の過去を、クリスはどうしても自分のものだと思えない。
かわいそうだね、と自分自身のことだというのに、他人事のように思っている。
だってもう、曖昧な記憶の底に沈んでしまっている。
ただ一点だけ、記憶に残っているとすれば、
──聖女ニケア様の、奇蹟の輝き。
剣から迸る碧の光。
自分を救ってくれた光だけは、はっきりと思い出すことができる。
そう──クリスティアーネ・ブランミッシェルを形作ったのは、血にまみれた記憶ではない。
寧ろ彼女を救ってくれた聖女様の奇蹟。
そして何もかも喪った彼女を、優しく迎えてくれた聖女軍のみんな。
彼らとの思い出が、今の自分を作ってくれたのだ。
例えば──
猫のメロン将軍は、冗談でもなんでもなく、クリスの父親だ。
雪降る村で倒れていたクリスを、その手で抱いてくれたのは彼で、その時からずっと面倒を見てくれる。
と、いってもメロン将軍は厳しい人だ。
見た目はあんなに可愛いのに、あれよりも厳しい人に、彼女は今まで一度もあったことがない。
闘わない、なんてことは何事にも許してくれない。
保護されたときの状態から、歩けなくなるかも、と子供心に思ったの覚えている。
何しろ足はもうずたずたで、くっついているのかいないか、ぷらぷら、だなんて思ったくらいだから。
でも、治せと言われた。治す、ではない。
まだ年端もいかない少女だったクリスに対して、闘いを強いた。
その意志がない限り、きっとこの時代を生きてはいけないとも。
その時のメロン将軍の言葉の響きは、こうして二つの足で立てるようになった今でもはっきりと思い出せる。
今後も決して忘れることはないだろう。
傷ついた彼女の身体を、医者も兼ねている研究所の人らは手厚く治療してくれた。
中でも主治医だったティムおじさんや“医療白衣”のレイリーは、いつも彼女が再び立ち上がって歩いたときのことを話してくれる。
絶望的だと思っていたから、本当にうれしかったのだと。
だけど歩き出してすぐに転んでしまって、心臓が止まるかと思ったのだと。
最近は気恥ずかしくなって、やめてよ、なんて言ってしまうのだが。
魔術師のリリックは、魔術師の癖に剣が妙にうまかった。
剣を極めようとしたら、何故かこちらの道に来てしまった。
そう自嘲する彼はクリスの師匠の一人だった。
まだまだ身体の経過を心配されていたクリスに、通常の訓練は受けさせてくれなかったのだ。
だけど闘わないといけない。
そう思ってたから昼休みに研究所で剣を振るっていた彼に教えを請うた。
リリックは変人で、少し倫理観がおかしくても、でも優しい人だった。
だから病室を抜け出してきたクリスに対し、おもしろがって丁寧に剣を教えてくれたのだ。
リリックはその後、“医療白衣”のレイリーに空から雷が落ちる勢いで怒られていた。
でもそんな彼が、今ではレイリーと深い愛の絆で結ばれているのだから不思議なものだと思った。
しかめっつらの司令官コルノボーグは、いつも大変そう。
嫌われ役を買って出ているのはわかるけど、何時もあれでは疲れないかな、と思う。
でもクリスは実は、彼のつるつるとした頭が結構すきだった。
──というか、みんなすきだった。
クリスは聖女軍のみんなのことが、本当の本当にすきだった。
彼らは厳しくて、優しくて、おかしくて、悲しくて、愛おしかった。
今のクリスを形作っているのは、雪降る村での血塗られた過去なんかじゃなかった。
彼らとの暖かい日々こそが、今の自分だった。
──私はだから、クリスで、そしてブランミッシェルなの。
メロン将軍、メロン・ブランミッシェル。
彼にはかつて一人の息子がいたらしかった。クリストファ・ブランミッシェル。
ずっと前に戦争で死んでしまった、強く誇り高きブランミッシェルの戦士。
彼の名前を、受け継ぎたいと思った。
だから■■■■■の名前は、もう使わなくなった。
当然というべきか、最初はメロン将軍は嫌がっていた。
理由は一言では表せないだろう。
お前では代わりにはなれない、ということは言われた気がする。
しかし、そこも闘いだった。想いを伝えるための。
別に死んでしまったクリスに取って代わりたい訳じゃなかった。
ただその名前を受け継ぐことで、もう一度生まれることができると思った
そう思ったから、今の彼女はクリスになった。
聖別計画として力をもらい、彼らのために闘おうと決意をしたのだ。