169_ハイネとクリス
「クリスさんがっ……! 出ていってしまったんです。目を離した隙に!」
電話越しに切羽詰まったように聞こえてくるキョウの声。
その内容に、田中は思わず目の前のハイネを窺った。
彼は柔和であり、同時に疲れをにじませた微笑みを浮かべている。
「何故、今、このタイミングでそんなこと」
「何故ってそんなの、あの空の言語船ですよ!
空を埋め尽くすほどのアレを見て、クリスさんは戦場に行ってしまったんです!」
空では今、無数の言語船が展開されている。
幻想の光と共に続々とその数を増やしている。
そのうえで──どういう偶然か、新宿では雪が降り始めていた。
ぱらぱらとした細かい雪。
儚いその色は、荒れ狂う聖女戦線の吹雪とは全く違う。
しかし、この空が猛烈な勢いで、東京から聖女戦線へと近づいているように感じられていた。
ああ、そうか。
田中は少し納得していた。
クリスは、結局まだ理解できないないのだろう。
あの少女はまだ、この“現実”のことを知らない。
昨日田中と交戦したきり、ロクにこちらのことを知る時間はなかったはずだ。
どこかどう違うのか、“現実”と“虚構”の間にある大きな壁を何一つ知らない。
そういう意味で彼女はまだ“虚構”の世界にいるのだ。
だから聖女軍の兵士として行動することを選んだのだ。
聖女軍の言語船が表れたことで、田中やカーバンクルといった異端審問官に頼ることをよしとしなかった。
不思議と田中は彼女の考えがわかる気がしていた。
ハイネとは全く逆だが、クリスの立場もまたかつての田中と重なる。
“さかしまの城”で何も知らずに“現実”の尺度で行動していた、あの時期の自分だ。
「……わかった。とりあえず追いかけてくれ。どうにもこいつはヤバイ局面だ」
「わかってます。雪乃さんはとりあえずカーバンクルさんに任せますが──この街、この世界どうなっちゃうんです?」
答えは出なかった。
そんなこと誰にも──きっと聖女ニケアにだってわからないだろう。
そのことはキョウも察しているのか、答えより早く短く別れの挨拶が来た。
「……とにかく、ロイ君。死なないで。
死ななければ、終わらなければ、きっと見えてくるものがあるはずですから」
その言葉と共にブツ、と通話が切れた。
その様子を見たハイネがあくまで穏やかな口調で、
「ふふ、そちらの協力者も慌てているようですね、この自体。
それとも1《アイン》さんでしたか? 今の電話」
「お前は、落ち着いているんだな」
「いえ、落ち着いてはいません。
少し、興奮しているだけですよ。
ようやくあちらの“現実”に戻れそうなんですから」
「──あの世界は」
田中は言葉を選ぶように、
「あの世界に、“現実”にそんなに帰りたいのか?
あんなどうしようもない、悪も正義も法もない。
誰もかれもが人を傷つける、あんな場所に」
彼は、自分で自分の言葉に白々しさを覚えつつも、台本を読むのようにその問いかけを発した。
新宿の街は、突如として現れた言語船によって混乱の渦に叩き込まれていた。
人通りの少ない早朝であることが幸いしたか、パニックとまではいかないが、空を見た人間は見た叫びを上げ恐れるように建物の中に逃げ込んでいく。
逃げ行く彼らにしてみれば、こんな闘いなど縁遠いものだ。
少なくともここには秩序があった。法があり、弱者が弱者として生きていくことが許される社会がある。
だからこそ、カーバンクルやキョウは冗談交じりに言ったのだ。
こちらの世界で生きていく方がいいのかもしれない、なんてことを。
しかし──
「僕は帰りますよ。あの“現実”に帰らなければならないんだ」
ハイネはそんな“現実”を、迷わず帰還することを選んでいた。
「それは何故?」
「僕には、会わないといけない人がいるから。
守らないといけない人がいるから。
彼女を──残されたたった一人の妹を守るために、僕は今まで生きてきた」
人々の流れの中、ハイネと田中だけは立ち止り、静かに言葉を交わしている。
迷いなくそう言う彼の瞳はまっすぐで、迷いはない。
だが──田中は思う。
きっとその迷いのなさは、それ以外に何も残されていないからゆえの、ともすれば脆弱な強さであろうと。
そう確信を持ったうえで、田中は告げた。
「クリスは、この世界に来ているよ。
そして、彼女と俺は昨日交戦し、行動を共にしていた」
ハイネはその瞬間、剣を抜いていた。
破壊された“現実”に、偽剣はいとも簡単に像を結んだ。
『ピュアーネイル』。
かつて田中が振るった『イヴィーネイル』の後継にあたる騎種。
ハイネは片刃の鋭い剣身を田中へと向け、
「場所を言え。傷をつけでもしたら、僕は自分を抑えられる自信がない」
田中は、自らの鏡像を見る心地だった。