167_舞台装置
どこまでも見覚えのある病院の前で、やはり見覚えのある彼女が笑っている。
その事実を、どう受け止めるべきか、田中は当惑していた。
──いや、戸惑ってどうする。
田中はぐっとその手を握りしめた。
元より危険は覚悟していた。
だがそれでも何が何でも欲しかった。
この“現実”にはすでに消えていた、桜見弥生の残滓を。
そういう意味で、聖女がここに現れたのは望むべくところですらある。
彼女を討つべく、田中は──
「ふふふ、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔しなくてもいいじゃない」
そこに、鷹揚と語り掛ける声がした。
「一人で来い、とは確かに言ったけど、私も一人だとは別に言ってないわよ」
ふふふ、と笑いながら桜見夕香──太母はやってきた。
レインコートのような、全身を包み込むゆったりとした服装をした彼女は、いつの間にかこの場に現れていた。
「“雨の街”以来ね、どう? 元気にしていた」
その瞬間、今度こそ田中は剣を抜きそうになった。
聖女アマネ。
彼女を討った時の感触がフラッシュバックする。
同時に──昨日であった、もう一人の彼女のこともまた脳裏に浮かんだ。
「……いや、昨日会ったさ、アンタとはな」
「ふふふ……そう、貴方、あれを私だと思うの?」
嬉しいこと言ってくれるじゃない、と太母は口にした。
「やはり、別人という訳か」
「ふふふ、さぁ? 何を思って別人なのか、同じなのかというかは、また難しい問題だと思うけれど。
名前とカタチが一緒なら、同じといえると思う?」
「禅問答をしに来たんじゃない」
田中は太母の言葉を切り捨てた。
そして彼女とニケアの間で視線を揺らし、
「教えてくれ──これは、何なんだ?」
田中は彼女たちにそう問いかけた。
「俺はただこの“現実”で、弥生とアイツと二人で生きてきた。
なのに急に全部消えて、あんな“虚構”に叩き落されて。
そこでアンタに会った。
それからいろんなものを殺して、傷つけて、そうしてここまでやってきた」
でも、と彼は言った。
「そしたらまた、戻ってきた。
こちらの世界に、この“現実”に。
でもやっぱりアイツはいなくて──なのに俺がまだいて」
意味が分からない。そう彼は告げた。
「──この筋書きを書いているのは、アンタなのか?」
「違うよ」
応えたのは、ニケアの方だった。
彼女は、うんうん、と納得するようにうなずいた。
「少なくとも私は、書かれる側の人間さ」
そして彼女は小さく微笑んで、
「そして君の物語はそういうカタチのものなのか。
うん、違う。
安心した。どうやら君は私の敵ではないらしいから」
「な……!」
田中はニケアの所作に、声を喪った。
その言葉に含められた響きが、第四聖女トリエの言葉にひどく似ていたからだ。
“貴方には、貴方なりの物語があったのかもしれない”
“でも、私には、私の物語があって、現実があった。
だから、ここで貴方に殺されるのだけは厭”
あの時、名前も知らなかった彼女は、田中に対してそう言った。
しかし──そんなことを認められるわけがなかった。
聖女を殺して回るだけの者として、田中は生きていくしかなかった。
それが、この歪な物語の筋書きの筈だった。
「タナカクン。
私には君へのうっすらな記憶がある。
でも、それは私の行動を何も替えはしないよ。
きっと他の聖女だって、そうだ。
君という存在なしに、聖女という狂った奇蹟は在る」
エリスの現在を犠牲にした虚構への逃避。
アマネの理想への失望から生まれた苦しみも。
ミオの切望の果てに訪れた堕落も。
それらはすべて──田中という存在なしで産まれたもの。
「君は、そう私たち聖女の物語の敵ではないのだな。
舞台装置。
終わらない奇蹟を終わらせるための機械のようなもの。
やはり君はそういうものらしい。うん、うん」
納得するようにうなずくニケアを、田中は何も理解することはできない。
だがそんな彼に対して、ニケアはすっと手を指し伸ばした。
「そして──それは君にとっても同じだよ、タナカクン」
「え……」
「聖女は、君の敵じゃないだろう。
相対するべきものじゃない。
君が聖女にとっての舞台装置であるように、私たちは君にとっての舞台装置だ。
互いに利用し、し合う関係という訳だ」
私にはね、と彼女は言った。
「そのことが少しだけうれしいよ。
きっと私という個の奥底、根源にあることとしてね。
君と決定的に敵でないという事実が、私は嬉しいんだ」
「い、意味が……」
「わかるさ、いずれ。君ならわかってくれる。
今の君は、そういう意味じゃ過渡期なのだろう。
ちょうど九十年ぐらい前の私のように」
「か、勝手に満足するな! 俺はお前を、お前を殺そうとしているんだぞ」
「知っているよ。そういう存在なんだ、君は」
ニケアはそう言い切ったのち、ぼう、と碧の光を灯した。
薄く輝く蝶の翅を背負った彼女は、ゆっくりと飛び上がっていく。
「では、また!」
「待てよ! まだ何も」
「いや、すぐ会うさ。その時はお互い上手くやろう!」
その言葉と共にみるみる内に彼女は遠くに消えていくのだった。
「あ……」と声が漏れる。
だがすぐに気を取り直して、残されたもう一人の存在、太母をみた。
彼女はまたあの露悪的な言葉をかけてくるか──
「……あの娘、もしかして」
──そう思ったが、しかし太母は田中を見てはいなかった。
「何をしようとしているのかしらね……味方である、私にも何も言ってくれないなんて」
彼女もまた消えていったニケアを眺めていた。
底知れない微笑みは消え去っていた。
代わりに彼女は、今まで見せたことのないどこか弱々しい姿に見えた。
太母は田中の視線に気が付くと、ゆっくりとこちらを見て、
「ふふ……お互い、寂しいわね」
そんなことを言い、そして──消えていた。
はっ、とする。
瞬きすらしていなかった。
にもかかわらず彼女の姿はもうそこにはない。
ただ静かな世界が、“現実”が戻ってきてしまっていた。
田中はしばらくぶるぶると手を震わせていたが、
「──なんだよ、意味が」
わからない。
そう叫びたい気分だった。
世界すべてに取り残された気分だった。
このなかで、でも生きていくしかないというのか。
荒れ狂う感情の中、田中は──異変に気が付いた。
ゆっくりと己のが影が押しつぶされていく。
早朝、陽が上っていくはずの自分で、どういう訳か影が広がっているのだ。
田中は顔を上げた。
そして、見た。
「──言語船」
雲を切り裂くように現れた、その巨躯を。
聖女軍のものと思しき無数の艦船が、東京の空を突き破り、その姿を結んでいた。
12月24日 7時14分
──“現実”と“虚構”の壁が完全に崩れ去った瞬間だった。