166_病院
どこかで鳥が鳴く声がした。
この“現実”の朝はまたやってきた。
すでに入った無視するには亀裂は大きすぎるが、しかしそれでも何とかまた、この朝日を迎えることができた。
「……なぁんで一応パトロールやった私だけ起きてるんだろうねぇ」
カーバンクルは自分で入れたコーヒーを口に含みながら言った。
視線の先では三人の少女たちが寝転がっている。
クリスはタオルとペットボトルを置いて、雪乃は毛布にくるまり、キョウはコタツにずっぽりと遣って、三者三様の寝方をしている。
まぁまだ早朝、別段何か用がある訳でもないし、このまましばらく寝かしておくか、とカーバンクルはもう一口コーヒーを流し込んだ。
今のうちに体力を温存するというのは間違っていないだろう。
おそらく──今日はまた、大変な一日になる。
だからとりあえず寝ておくのは大切なことだ。
「……まぁ、昨晩もいろいろあったみたいだけど」
同時に彼女はスマートフォンを慣れた手つきでスワイプしていく。
ニュースサイトでは数多くの情報が流れていた。
中でもトピックは、昨晩無数に現れた「害獣」だ。
往来に姿を見せた異形たちは、実際に多くの被害を街にもたらした。
そしてその結果として、命を落とした人間もいた。
警察の出動などで謎の害獣自体は退けた、ということだが、果たしてすべてを退けることができたのか。
「……おそらく異形もまだ完全な状態ではない。
だから、物質に依存した武器でも通じのだろう。
いや、それともあれか、こちらの“現実”にいるためには、どうしても身を想念でなく物質にしないといけないのか。
ならばもう少し希望はあるが──幻想が満ちてくるとまた変わってくる」
考えを整理するように彼女は呟く。
異形の往来への出現によって、急速に事態は進んでいる。
二日前までは、雪乃と組んで夜の片隅で闘っていれば済んだ。
しかし、こうなってくるともう、ダメだ。
一度加速し出した環境を止めることはできない。
そう考えつつ、カーバンクルは情報を眺めていく。
「──害獣を討つ剣を持った少女、か」
流れるニュースの中に、一定の割合でその存在は混じっている。
画像や動画も合わせて、その存在は語られている。
蝶の翅を背負い、碧の光と共に各地に現れる害獣を切り捨てていた少女がいた、と。
「コスプレヒーロー。都市伝説、懐かしい香りのするアニメ……まぁ、まだ冗談半分の記事ばかりか」
ふぅ、とカーバンクルは息を吐く。
その存在の正体が何であるかは、考えずともわかる。
聖女。
何であれその存在は、この“現実”においても徐々に浸透しているようだった。
今はまだ、存在としての信憑性が低い。
とはいえそれも時間の問題だろう。
「異形や偽剣、そして聖女。
そんなものがこの“現実”に確かに存在するという事実。
多くの人はそんなものを信じない。
でも、彼女が実際に戦い、討ち果たし、人を救うという物語があれば──」
あるいはこの流れが続いていけば、この“現実”も最終的には、カーバンクルの知るあの世界──田中の言う“虚構”へと飲み込まれていくかもしれない。
“現実”と“虚構”の間の壁には、既に大きな穴が開いている。
と、そうしてニュースを確認しているが、そうは言っても“現実”はまだ完全に壊れてはいないようで、ほかにも多くの情報が流れてくる。
「こんだけ勧告されてるのに、普通に出社していくリーマンがぞろぞろとねぇ。
まぁ、軍隊と思えばこんなものかもしれないけど」
ぼんやりと眺めながら、そうした事柄を抜きにしても、カーバンクルはどうやら今日が特別な日であることを思い出していた。
「なるほど、クリスマス・イヴねぇ」
クリスマス。
その言葉は、カーバンクルもこの一か月の生活でなんとなしに聞いていた。
どうやら実際の祭りというのは、今日と明日の間、つまり今晩にあるらしい。
その間が特別な時間ということで、宗教的な意味を持っているらしい。
「……夜を尊ぶのはいいけど、果たして明日もまだこの“現実”が残っているのか、いないのか──」
カーバンクルは窓から差し込む陽光を見ながら、すでにこの部屋を後にした少年のことを思った。
昨日受けた電話から何を聞いたのやら、早朝も早い時分にまっすぐと出ていったのだった。
「さて、戻ってくるかな、ロイ田中君」
◇
冷たい風が吹きすさぶ中、田中はゆっくりと歩いて行った。
早朝であり、さらには異形の出現によって往来の人は極端に減っている。
警官が厳しい目で数多く徘徊しており、ぴりぴりとした雰囲気が辺りには漂っていた。
立ち並ぶ摩天楼と、人のいない東京の街並み。
こうしてみると、まるで──
「──あの聖女戦線みたいだ、と。そう思うだろう?」
こちらの思考を読んだかのように、その声は聞こえてきた。
新宿。
この“現実”に転移した際に、初めてやってきたこの街。
昨晩、太母はその中でも、一つの場所を指定してきた。
そこで田中一人で会いたいと、彼女は言ってきたのだった。
「私も、同じことを思った。
あれだけ遠かった、この世界とあの世界が、徐々に同じ方向に向かっている、と」
だがそこにやってきたのは、太母ではなかった。
こつ、こつ、と聖女ニケアが靴音を響かせながら、やってきた。
「昨日はあわただしくて挨拶もできなかったからな。
母上の取り計らいで、こうして会えたことを感謝するよ、タナカクン」
彼女は、桜見弥生そっくりの顔で、しかし全く違う微笑みを浮かべていた。
「しかし私にとっても、この場所、この病院は特別なものを感じる。
ずっとずっと、百年以上前、私が生まれる前のこと、だったりするのだろうか」
そこは新宿にある、それなりの規模の病院の前だった。
そう、そこは──弥生がかつて入院していたはずの、あの小説を書いていたはずの場所だった。