164_ひび割れ
それは丸い球に真っ黒な布をかぶせただけの、非常に単純な造形をしていた。
子供が作ったてるてる坊主、それも出来損ないのようでもある。
生物的にも見えず、かといって機械的にも見えないオモチャのような、チャチな代物だった。
「魏ws@:んちょいzbxm@oin oistnhjn」
そんなものが、どういう訳かこの“現実”に立っていた。
“現実”にはあり得ない存在が、しかし、当たり前のようにその存在を主張している。
「異形……夜にしか出ない筈では」
あまりの事態に田中は反応が一拍遅れていた。
これまで深夜、東京の隅に現れるものは、ひどくその輪郭があいまいで、人目にさらされるだけで溶けてしまうほどだった。
だが、こうして飛び出てきた異形は違う。
見上げるほどの巨躯を多くの一目やカメラに晒しながらも、当然のように存在を保っている。
「sv96s@0bi8wy0jim^^0ytj」
異形は不快な音を立てつつ、動いていった。
緩慢に、滑るように突き進んでいくそれは、“現実”に類する多くのものを押しのけながらも突き進んでいく。
車が押しつぶされ、アスファルトはひしゃげていく。
多くの人々がそれを見て声を上げ、目を見開いていた。
皮肉にも街に蔓延する電子音の聖歌は止まらなかった。
「ふむ、なるほどねえ」
衝撃を受ける田中をよそに、カーバンクルはむしろひどく落ち着いた様子で、腕を組んでうんうんと頷いていた。
「田中くん、鞘、巻いてるかい?」
「え、ああ……それは」
「たぶん、偽剣出るようになってるよ」
その言葉と同時に、カーバンクルが、ふっ、と何かをつかみ上げた。
一切の艶のない漆黒の刀身『リヘリオン』が顕現した。
「ほら、ね」
「……何故」
そう問いかけて田中は「いや」と声を出した。
「とにかく戦えるなら、やるしかないか。あれはスマホじゃ倒せない」
「うん、まぁ、そうだろうね」
カーバンクルはぽりぽりと頬をかく。
いきなり剣を出した彼女であったが、周りの人々は逃げ惑うか、カメラで異形を抑えようと必死で、彼女のことは見ようともしていない。
そんな流れに逆らうように立ち尽くす田中は、鞘より『エリス』を引き抜いていた。
「確かに、出た。これでアイツを──」
「え? 戦うのかい?」
意外そうにカーバンクルが言った。
「ぶっちゃけ、これ、私らが戦う意味なくない? とっとと離脱しちゃった方がいいと私は判断するね」
「何を言って──」
田中は食って掛かるように言った。
舞い散る炎、甲高い悲鳴、狂乱の中で出ていくなど、
「戦えるだろうが、私らが下手に目立ってもマイナスしかない」
「だが、俺たちは今戦えるし、目の前にこれだけ人が死んでる」
「おいおいそりゃないぜ。
そんなヒロイックな義憤で闘うつもりかい?」
カーバンクルは突き放すように言った。
その言葉に田中は思わず「それは……」と詰まる。
“教会”の異端審問官として戦っていた中で、人のために戦ったことなどない。
聖女を殺すため、自分のエゴのためだけに戦ってきた。
今しがたもそう決意したばかりだった。
そうだ、だから、この場でいまさら、目の前の人間を助けるために戦うなんて──
「それに、大丈夫だ。
私らが出張らなくても奇蹟はやってくるさ──最悪のね」
カーバンクルがそう口にすると同時に、空から閃光が走った。
ぼう、と夜空に光が浮かんだかと思うと、雷のように彼女は駆け抜けた。
光の奔流がクリスマスのイルミネーションを吹き飛ばし、碧の光が視界を席巻した。
「うん、うん、ようやく調子が出てきた」
蝶の翅を背負う少女が、光の中にいた。
異形に偽剣『パルスマイン改・3rd』を突き立てている。
風に吹かれ、その長い髪が待っている。刃を突き立てられた異形は、ゆっくりとその姿を溶かしていく。
「……聖女、ニケア」
田中は呆然とその名をを呼んだ。
すると、まさかそのつぶやきが聞こえたのか彼女は、ちら、とこちらを一瞥して、
「待っているよ、タナカクン」
口元はそう動いたように見えた。
同時に彼女は、翅を大きく広げ、碧の光を残して空へと飛びあがっていった。
その軌跡はまるで流星のようでもあった。
そして──その場には静寂が降り立った。
破壊が起こり、人が消え、そして異形は聖女に討たれた。
一瞬の出来事であったが、しかしこの光景はあまりも鮮烈だった。
今まで盤石だった“現実”など、一瞬で吹き飛ばすほどに。
と、そこでポケットから振動が伝わってきた。
懐かしくも感じられるスマホのバイブレーションだった。
呆然としつつ、そこに表示された「雪乃」の文字を確認しつつ通話を開始した。
「大変なんです! ロイ君」
だが実際に出たのは雪乃ではなかった。
「なんか異形が、この時間に街に出て人を襲っているとか」
「知っている、それも解決した」
慌てて喋るキョウに、田中は淡々と答えた。
グズグズとしている間に、聖女がすべてを薙ぎ払っていった。
そう、それだけのことだ。
一度壊れたとはいえ“現実”はまたすぐに戻って──
「え? そんな訳ないです。全然解決なんてしてないですよう」
「何を言って、目の前で異形が倒される様が」
「一体だけじゃないんです! 異形」
キョウは言った。
「ニュースで言ってしまった。なんか、東京中に出てるんです!」