163_アイデンティティ
「聖女、か」
カーバンクルの問いかけに、田中はその言葉を反芻した。
ハイネ。
異端審問官であるはずの彼の行動の真意を、田中は知らない。
だが彼が誰を守ろうとしているかは、流石にわかる。
聖女戦線での戦いでの、最後の一幕にて彼は言った。
妹なんだ、と。
そのために、異端審問官として、敵として彼は立ち回り、彼女──クリスを守ってきたのだろう。
何故そのような真似をする必要があったのか。
そして当のクリスからはああも憎まれているのか。
“僕のことを、彼女は忘れていた。会っても、僕が兄だと、お兄ちゃんだと認めてくれなかった。
だから──こうして守るしか、なかったんだ!”
脳裏に浮かぶ、戦場での彼の叫び。
あの時はとっさに意味がわからなかった。
だが、今ならば田中にもあの慟哭の理解できた。
己の中で決して崩すことのできない芯。
自分が自分であるために、常に優先するべきこと。
それがハイネにとって、クリスを守るという、その意志なのだ。
だとすれば──
「……やっぱり俺は、聖女を殺すよ」
続けて言った。
「そしてまた会うんだ。
この“現実”に確かにいたはずのあの人と」
桜見弥生。
その存在は“現実”にはないものとされていた。
しかし聖女はいる。
聖女という“虚構”の存在が、確かに彼女がここにいたという証になる。
彼女とまた会うこと。
“ロイ田中”ではない、自分という個として、そこだけは譲れない。
「……なるほど、ね」
カーバンクルはそう言って、小さく息を吐いた。
どこか疲れたような──あるいは懐かしいものをみたような、そんなものを滲ませる所作だった。
「了解。ま、正直聖女と合流するのはそれなりにリスクがあるしね。
私としても、もう少し考えておきたいところだった。
ハイネは、とにかく何が何でも元の世界に戻りたいようだが……」
「そのことだが、報告がある」
田中はそこで迷った末、ハイネと──そしてクリスのことを伝えた。
聖女戦線での顛末、そして彼がクリスを守って見せたこと。
加えてクリスが既にこちら側に来ていて、一度戦ったことも。
「……ふうん、妹のためにね」
色々と伝えたが、さしてカーバンクルは驚く様子もなかった。
もしかするとハイネの真意については、カーバンクルは既に知っていたのかもしれなかった。
「でも珍しいね」
「何がだ」
「いや、君、殺さなかったんだろう?」
「え?」
「他はなんとか理性で抑えているんだろうけどさ、戦闘で襲い掛かってきた敵兵とか、いつもの君ならズバッとうっかりやってそうなもんだけど」
「いや、ダメだろう、それは」
「ハイネは、いろいろ粗っぽい真似をしてたみたいだけどね。どっかからか物を調達してたし」
「それは──」
その場で歩き回る人々が視界に入った。
そこでは平穏を謳歌する雑多な人々が、クリスマスの明かりに照らされている。
彼らは、人だ。
その重みを──重み?
「いや、今までさんざんやってきたことを考えると、珍しいと思っただけだよ。
下手に殺ってた方が面倒だったから、行動は正解だ。
手元においておけば何かしらのカードにはなるだろう。
あの不殺剣士がちょっと邪魔になるが」
「あ、ああ……」
田中は胸に芽生えた違和感を抑えながら思う。
8《アハト》。
ここにいるのがかつての彼であるのならば、“虚構”であろうとこの“現実”であろうと、手を赤く染めることを厭いはしなかっただろう。
だが──ここにいるのは。
「しかし、それともう一つの、偽剣が不完全ながら出てきたという話の方が問題だ」
「それも、理由はわからない。あのあともう一度試したが、やっぱり出なかった」
カーバンクルは「ふむ」と言って口元を抑えた。
そして考えを整理するようにぶつぶつと言葉を漏らし始める。
「クリスをはじめ、続々とこちら側に見知った人間が出てくるのは良い。
そうでないと寧ろ不自然だ。そして増えていけば何かしらの変化が起こることは見えていた。
そしてすでに聖女ニケアはこちら側に来ている。
つられて幻想もまた出てきている。そうか、つまりこれからこの“現実”は──」
彼女は何か合点がいったような呟きを漏らした、その時だった。
悲鳴が街を貫いていた。
きらびやかなイルミネーション。電子音で紡がれる聖歌。
「ksn@boiwhj[]qwpoembpy0nkns@
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ipmnmnmnmnmn」
それら平穏を突き破る刻まれる不快な、言葉ではない音。
人々が数多く往来する交差点。その中心に手ぬっぺりとしたつやのない黒い何かが立っていた。
異形。
かつて神話時代の残滓であるという、その異様な敵は、“現実”の往来にて姿を見せていた。
それはその曲で自動車をぺしゃんこに押しつぶし、煙と炎をまき散らしている。