161_距離感
「あー戻ってきたんですね。おかえりなさいです」
三軒茶屋、女子寮の一室に戻ってくると、キョウが声をかけてくれた。
ただその視線はテレビのままで、ジャージ姿で、コタツに入り、せんべいをぼりぼりと頬張っている。
「なんかよくわかんないけど物騒ですねえ」
見ているのは夜中のニュース番組で、気の抜けたコメントを彼女は口にしていた。
「相変わらず異世界への順応が早すぎる」
その姿に田中はぼそりと呟いた。
すると「なんですかー」と気の抜けた声が返ってきた。
田中は息を吐き、だらり、と肩に背負っていたものを床に置いた。
鈍い音がしたので、その時点でようやくキョウがこちらを見た。
「何か来たんですか? ええと……」
キョウは目をぱちくりとさせ、
「クリスさん! クリスさんじゃないですか!」
そう声を上げて立ち上がった。
「いったいどうしたんですか? 何でロイ君がクリス君を連れてくるんです?」
「その辺で拾った」
「はぁ……クリスさんも落ちてきたんですね、この“現実”に」
適当な説明だったが、キョウは勝手に納得したようだった。
倒れるクリスの顔を覗き込んでいる。
「……その人、熱が出ているみたいです。
ここに来るまでに意識を失ってしまって」
「それは大変です。寝かせてあげましょう」
キョウは思いのほか冷静に言い、クリスの身体を担ぎあげた。
「意外と重い」そう口にすると同時に、クリスの眉間に皺が寄ったように見えたが、気のせいだろう。
「あの、そんなに乱暴に扱わない方が」
「大丈夫です。このぐらいじゃ死にませんよう。
ここって清潔ですし、変な言語が敷かれてたりしないですし」
キョウは朗らかに言いながら、クリスの身体をベッドに寝かせていた。
実際、大丈夫だろう。
聖女戦線に比べれば、この“東京”は設備的にも環境的にもよほど優れている。
とりあえず休ませればクリスも快復に向かうだろう。
そのタイミングで、また話を聞けばいい。
そう算段していると、不意に田中のポケットに振動が走った。
スマホの着信だった。
この番号を知っている人間などそうはいないので、画面もロクに確認せずに出た。
「やぁ、少年。帰省は終わったかい?」
「……終わったよ、何もかも」
「おや、えらい自暴自棄だね。よくないぜ、若いんだから」
カーバンクルの砕けた口調に田中は息を吐き、
「……なんの用だ?」
「いや夕飯のメニューはビーフにするかポークにするかで迷って。
せっかくだし焼肉にしようと思ったんだが、なんか妙にトントロが食べてくてね。
でもここで牛じゃなくて豚をメインにしたらがっかりするかと」
「俺は豚も結構好きだ。それは良いから本題を言え」
田中が平坦な口調で問う。
疲れてはいたが、苛立ちはなかった。
カーバンクルのこうした喋りには流石にもう慣れていた。
そして彼女は、全く無意味な通信を送ってくるような人間でもない。
「……ハイネに会った」
声のトーンを落として、カーバンクルはそう告げた。
ハイネ。
異端審問官の2《ツヴァイ》。
転移の直前まで、田中は彼と共にいた。
「だが合流はできなかった。少々込み入った事情があるらしい。
一度来れるかい? できれば二人で話したい」
ちら、と田中は奥の部屋を見た。
雪乃やキョウがクリスを寝かせている。
雪乃はともかく、残り二人は敵陣営だが、キョウがこの部屋から勝手に抜け出すとも思えない。
クリスが目覚めても、キョウがいればひとまずは大丈夫だろう。
「軽くなら大丈夫だ。場所は?」
「九段下。異形はまだ出る時間じゃないから戦闘は恐らくない」
「了解。30分かそこらで行けると思う」
そう言って、田中は電話を切った。
◇
「……ふぅ、とりあえずこんなものでしょうか」
クリスはもこもことした分厚い掛布団をかけられている。
額にはねつさまシートが敷かれ、枕元にはペットボトルや洗面器を置いた。
ネットで調べた知識を早速使い、この世界流の看病体制を整えたキョウは、満足げに頷いた。
「あとなんでしったけ。氷枕とかキャベツとか……」
「とりあえず、これくらいで大丈夫だと思いますよ」
「そうですか? うーんでも、こだわりたいですし、ここはグーグル先生にもっと」
何しろキョウはやることがないのだ。
この世界に来てから、ジャージを着てテレビを見る以外に何もできていない。
そこにクリスの看病という使命ができたことで、少し気分が高揚していた。
そうでなくとも、同じYUKINO隊の仲間と再会できたことは、知らないことだらけの異世界において安堵できることだったが。
「クリスさん、とりあえず会えてよかったです。マルガリーテさんや、フュリアさんももしかしたらこっちに来ているんでしょうか」
「でも、その人、ロイさんにいきなり切りかかってきたんですよ」
雪乃が表情を硬くして言った。
そのあたりの事情は、キョウも軽くだが聞いていた。
まぁ敵同士でしたからね、とキョウは驚きはしなかった。
「……大丈夫です。
クリスさんはちょっと血の気が多いですが、押しには意外と弱いんで、話せば大丈夫です。
むしろ──」
「むしろ?」
キョウは少し言葉に詰まった。
田中は既に部屋を出て行ってしまった。
カーバンクルから呼び出しが何やらあったらしい。
それはいいが、今の彼には気になるところがいくつかある。
「むしろ、私はロイ君が不安です。
──よく殺さないでいてくれたものだなって、そっちに驚いてるんです」
それに帰ってきたときの、表情だってどこかおかしかった。
彼の事情は深くは知らない。
だが──
「ロイ君、なんかおかしいですよ、だって……」
「……キョウ、さん」
雪乃は不意に尋ねてきた。
「キョウさんって、ロイさんのこと……好きなんですか?」
瞳を揺らし、頬をわずかに紅潮させながら。