16_雨音
私の身体が、私のものでなくなったかのような気持ちの悪い感じがした。
いいから私の言うことを聞きなさい。
わがまま言ってないで、私の身体として動かないとだめなの。
あなたは私なんだから。
などと、冗談のようなことを考えていると、ふと別の声が聞こえてきた。
それは私の内なる声だった。私の“おしかり”に対し、それはこう返してきたのだ。
いきなりやってきて、身体になった癖に、よく言うよ。
と。
なるほど、身体の方が正しく、私の方が間違っている。
そういう、考えもあるのか。
盲点だったな。
そんな寝ぼけた考えを経て、私の意識は覚醒する。
そうして気が付く。自分の身体が、雨に濡れてずぶ濡れなことに。
降り注ぐ雨に沈み込むように、私は眠っていたのだ。
雨はもう止んでいた。でも空は相変わらず泣きそうなほどの曇天だ。
きっとまたすぐに降り出すだろう……
(■■■)
◇
ざざざ──
そこは石でできた、灰色の街だった。
街全体をぐるりと囲う外壁には傷一つついておらず、傍から見ると円柱が突っ立ているようにも見えるだろう。
門をくぐれば、飾り気のない素朴な様式の建物が立ち並んでおり、街のすべてが石で造られていることに気づかされる。
けれど、その街は石の街とは呼ばれてはいなかった。
人はみな揃って街のことをこう呼ぶ。
……“雨の街”と。
分厚い雲の下で、雨が猛然とこぼれ落ちていた。
石畳に落ちた大粒の雨が弾け飛び、灰色の街を派手に濡らしていく。
大量の雨水は、なだらかな坂に従って落ちていき、道沿いの溝を通って外へと吐き出されていった。
「なんだかよくわからない言語が発動しちゃって、
もうずうっと、何年もの間、この街では雨が止まないんだそうです。
ある日突然降り出した雨に、人々はもう大混乱。街を守るべく必死に知恵を振り絞りました」
道を歩きながら、キョウが揚々と語っていた。
「そうした苦労もあって排水機構が発達したわけですね。
街が雨との付き合い方を覚えて生きている訳です。なるほど!
……って、私は聞きました」
近くに街を知っている、と彼女が言うので、田中とカーバンクルは一緒に彼女に案内されるままについてきた形になる。
朽ちた城から半日ほどの行軍だったが、田中は自分が肉体的な疲れをほぼ感じていないことに気づいた。
これもあの男による“転生”の影響だろう。
ありがたいことだ。田中はひどく醒めた心地だった。
「たぶんそれは嘘だな」
「ええっ!? 知ってるんですか? カーバンクルさん」
「排水溝を街全体に走らせるなんて真似、数年かかってもこの規模の街でやるのは難しいわ」
「えー、でも現にもうできているじゃないですか」
不満そうにキョウは口を尖らせる。
三人は街の入り口で買った防水コートを羽織っている。
そのコートは水を弾く言語を刻まれており、道行く人もまた一応に同じコートを羽織っていた。
色はすべて灰色であり、この街の人々はまるで街と一体化しているようだった。
全体的に小柄な人間が多いのもあり、揺れ動く人影たちは茫洋とした影のようにも見える。
「だから多分順番が逆なんだ」
「え?」
「街があって、そこに雨が降ったんじゃないの。
雨が降っている場所に、街を造る必要ができた。だからこんな緻密に設計された街をわざわざこしらえた、というところね」
前を行く二人は思ったよりも和やかに会話を続けている。
霊鳥のリューは今キョウのコートの下に隠れている筈だった。
そんな彼らの背中を見ながら、田中は一人顔を俯かせた。濡れた前髪からぽたりぽたりと雫が垂れ、不快だった。
「ふつうはこんな住みにくい場所に街なんか造らない。
だから街よりも、雨の方が大事だったのかしらね」
カチャ、と音がした。
腰に挿した偽剣に、意識せずとも田中の手が伸びていた。
「時にロイ田中君」
不意にカーバンクルが語り掛けてきた。
はっ、としてロイは顔をあげる。だが彼女は振り返りもせずに、背中を向けたまま、
「私をここで殺すのはオススメしないよ。さすがに抵抗できる」
「ロイ君そんなことやろうとしてたんですかっ!」
驚いたようにキョウが声を上げ、それに対しロイは慌てて首を振る。
剣の柄から手を離し「違う」と声を絞り出す。
「大丈夫です。私がいる限り、貴方の殺人は必ず邪魔しますから!
心を強く持ってください。私がついています」
近づいてきたキョウはロイの手を強く握りながらまくしたてる。
「……ごめん。ありがとう、キョウさん」
「ん、ロイ君はできる子です。がんばってがんばって」
そう言ってキョウは満足げに微笑んだ。
そのとぼけた所作に、ロイも釣られて少し笑ってしまった。
カーバンクルが呆れたようにこちらを見ているのがわかった。
――その向こうで、ロイは彼女の姿を見た。
肩まで伸びた黒い髪。どこか自信なさげに下を向いて歩く様。
眼の下には寝不足なのか隈ができてしまっている。そしてその瞳の色は碧色。
彼女は、この灰色の街の中、一人でどこかに行こうとしている。
「弥生さん!」
そう叫びをあげ、キョウの手を振り払ってロイはその背中を追う。
後ろで彼女が何やら言っている気がしたが、無視した。
ずぶ濡れの石畳を蹴って、入り組んだ灰色の道を行く……
――追って、×すのか?
耳元で誰かの声がした。
ロイは苛立ちとともにその声を振り払おうとした。
しかし脳裏にエリスの表情が浮かんできて、合わせて強烈な不快感が湧いてくる。
違う。そう大きく言い放ち、彼はただ弥生を追った。
この世界のことを知っているのは自分と彼女だけのはずだった。
だから彼女に会って話を聞かなくてはならない。絶対に――
――けれども、どれだけ走ってもロイは弥生を見つけることができなかった。
またしても、いるはずの場所からいなくなってしまった。
ロイは息を荒げながら汗をぬぐう。
どれだけ歩いても疲れなかったロイの身体は、ここに来て悲鳴を上げていた。
振り付ける雨の中、ロイは一人、彼女を再度見失った事実に震えていた。
「……大丈夫ですか?」
◇
「ロイ君、突然どうしちゃったんでしょう」
キョウは突如として走り出した彼に首を捻った。
そこに、コートの中に仕舞っていたリューが顔を出して、
「……急いで彼を見つけた方が良い。情緒不安定な彼のことだ、何をしでかすか正直わからない」
リューに言われ、すぐに気を取り直す。
そうだ、彼は相当な危険人物であり、自分の目の届かないところで人に刃を向けかねない。
だからすぐに連れ戻さなければ、と思い、隣に立つカーバンクルを見たが、
「この雨、第三か第五か。
第三だとすると、私は相性がすこぶる悪いから、あまり気乗りはしないが……」
彼女は涼しい顔をして、何か別のことを考えているようだった。
降り注ぐ雨の中、頬についた雨粒に触れながら、
「……もっと大きな問題は、こんな近くに二人の聖女が“転生”していたことか」
カーバンクルは言った。
「偶然じゃあ、あるまいよ」
◇
「……大丈夫ですか?」
そう言って、ロイに手を伸ばしたのは、一人の少女だった。
和装によく似た薄い布地の衣装に身を包んだ彼女は、傘もささず雨に濡れることを選んでいた。
雨に濡れる彼女は、その碧色に光る瞳で、ロイを見下ろしているのだった。
「私はアマネ……雨乞いの聖女として、この街に住まわせていただいている者です……」
――彼女はエリスと同じ顔をしていた。
それはつまり、弥生ともよく似ているということだった。