158_六反園雪乃
「私も……誰でもない人間なんです」
隣に座った雪乃は、そう静かに語った。
この街は音で満ちている。
遠くで子どもたちの声がする。車の排気ガスやうつろに響く機械音声。
そんな音の中から、田中は隔絶された心地だった。
“現実”の音が支配する世界と、自らが今いる“虚構”の世界の間には、ガラス一枚の透明な壁が隔たっている。
その境界は強固で決して破れるものではない。
「──同じことを、思っていました。あの時、カーバンクルさんが来る前まで」
そんな中、雪乃の声は同じ世界に響いていた。
彼女は“虚構”の住人ではないはずだった。
カーバンクルと出会ったことで、聖女軍と“教会”の戦争に間接的に巻き込まれはした。
しかしそれにしたって、本当に部分的なもの。
“現実”に居場所を持つ彼女にしてみれば、田中の言葉など、何一つ理解できない、その筈だった。
「私、実はお金持ちです。
お金持ちの家出娘、それが六反園雪乃」
「……なんとなく、そんなところだと思ったよ」
「そうですよね。ロイ……田中さんは、元々こちらの世界の人間です。
それくらいわかりますか」
淡々と語られた雪乃の言葉に、田中は小さくうなずいた。
ロイ田中は元々はこちらの世界、“現実”の人間。
その筈だった。
「……私はあの学園、寮の理事長の娘なんですよ、
そして、家出をしちゃいました。
いろいろなことが厭になって……それで……」
眩しすぎるほどの夕陽に照らされ、深い影が彼女の頬にまとわりつく。
「私は父が好きでした。
母は私が五歳の頃に死んじゃって……でも、それでも優しく父は私のことを育ててくれました」
彼女の言葉は淡々としていた。
何度も己のうちで反芻したのだろう。
決められた台本をなぞるようによどみなく雪乃は、彼女なりの物語を語っている。
「六反園、なんて仰々しい名前の家。
その婿養子だった父は、たぶんつらかったと思います。
妻を喪ったことは当然ですが、後ろ盾がいなくなっちゃったんですから。
そんなのだから、頑張らないといけなかった。
お金を生み出さないと、家に居場所がなくなっちゃいますから。
家族として、認められるためには、実力がいるんです」
ふふ、と雪乃はわずかに笑った。
どこか自虐的な響きが込められていた。
「そう、父は頑張っていました。
寝る間も惜しんで働き、だけどそれを外には決して見せなかった。
見せてしまえば、付け入るすきになってしまいますからね。
周りにいるのは家族ではなく、敵……何なら時には汚いこともやっていたでしょう。
私はその背中をずっと見ていました──いとおしく」
田中は口を挟むことができなかった。
ただ聞くことを選んでいた。
「ふふふ……わかりますか?
家の外ではいつも立派で、雄々しく、まっすぐに立っている父が、家の中、私の前だけでは弱くなるんです。
娘である私にだけは、深いため息と丸まった背中を見せてくてくれる。
私にだけ、です。
家にいるのは私と父だけ……だったんですから」
ほんとうの父。
ほんとうの私。
そう雪乃は口にした。
「私と父は確かにあの時、あそこにいた。
優しくて、情けなくて、弱々しい父を知っているのは私だけだった。
そしてそんな私のことを知っているのも父だけのはずだった。
それが六反園雪乃だった」
でも、と彼女は少しだけ顔を俯かせて言う。
「結局、そんなの、嘘だったんです。
新しいお母さんと父は──」
雪乃は言葉尻を濁した。
しかしそれだけで田中は何かを察することができた。
「新しいお母さんが厭な人だったら良かった。
憎んで、敵だと思って、変わらないままだった。
でも──あの人ね、良い人だったんんです。
元教師とかなんだかで、私みたいな娘のことも、よく考えてくれてさ。
だから、本当に、お父さんは、この人のこと好きなんだって──ほんとうの自分を見せているんだって」
それは結局、理屈ではないのだろう。
ただの我儘で、甘えだということぐらい気づいている。
それでも厭だと叫びたい。
現状を受け入れることを、●●だと言いたがる。
「……それで家出とか言い始めたんです。
その癖、逃げ込む先は親の力の届く範囲。
無茶が効く安全圏。
どこでもない場所で、私は──カーバンクルさんやロイさんに会ったんです」
そこで雪乃の言葉は途切れた。
再び現実の音が、遠くから響いてくる。
「ほんとうの私なんて、どこにもなかった……」
雪乃が語ってくれた言葉に、田中は何も言いはしなかった。
恐らく雪乃だって、田中が返答してくれることを期待していた訳ではないだろう。
理解してほしいという気持ちと、絶対に共感などされたくないというジレンマ。
振り子のような心境の中で、田中と雪乃は隣に座っていた。
互いの視線が絡むことはない。
ただ諦めと倦怠感と、自身の幼稚さへの嫌悪がにじみ出ている。
──そんな夕陽に変化が訪れたのは、不意のことだった。
それは爆発に近かった。
光が、どん、と溢れてきた。
公園の中心、細かい粒子が荒れ狂う嵐となって巻き起こる。
その現象に田中はとっさに立ち上がり、雪乃の前に立つ。
反射的な行動だった。
その身体に根付いた“虚構”での経験が、彼を勝手に動かしていた。
何故ならば、その現象には見覚えがあるのだから。
あの光の粒子の名は──幻想。
「って、ここ、何よ!」
光の嵐の中、見覚えのある敵が吐き出されるように現れていた。
「“教会”の──異端審問官?」
現れた敵、クリスティアーネ・ブランミッシェルは田中を見るなり、威嚇するようにそうつぶやいた。