157_私も、誰でもない人間ですから
……それから田中は、部屋を後にしていた。
“ロイ田中”を暴行してから、それ以降の記憶はあいまいだった。
どうやら気絶した彼を放置して、失意のうちに部屋を後にしたらしい。
それから彼はよろよろと知らない街を歩き続けていた。
そこは東京であり、彼がよく知っているはずの街だった。
しかし、ここは彼の知らない“現実”だった。
無節操に群がる人々も、走り続ける車たちも、どこからか鳴り響く電子音も、すべてが遠い彼方のものに感じられた。
ここにいる誰かと、それを見る自分の間には、一枚の分厚い壁があった。
見えない壁であった。
つい先ほどまで、そこにあることに気づかないほどに。
間違っているのは、果たしてこの“現実”なのだろうか。
それとも──この自分こそが間違っているのだろうか。
“現実”のロイ田中の席はどうやらもう埋まっているらしかった。
となれば8《アハト》として血にまみれていたこの身は、ただの“虚構”だとでもいうのだろうか。
笑いたい気分だった。
あまりにもばかげている。おかしな考えだった。
しかしそれを笑い飛ばすことはできなかった。
寧ろ自分がおかしい・狂っていると考えた方が、よほど正しいとさえ思っていた。
それからふらふらと歩き続けた。
どこにも行く当てはなかった。当然、帰るべき場所もなかった。
青かった空は徐々に赤へと染まっていく。
夕暮れ、夜が近づていくる。
真っ暗で、誰もいない、静かな夜。
もしかすると自分はそれを望んでいるのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えていると、いつの間にかベンチに腰かけていた。
疲れていたのだろう。
水も飲まず、ふらふらと歩いていて、自然とここに座っている。
しかし座ったのか、ここはどこなのか、全くわからなかった。
すべてがあいまいで、どうでもよいものにも感じられたのだった。
「…………」
寒々とした風の中、彼はたった一人だった。
木々が植えられた公園では、遊んでいる子供たちやウェアを着て走り込んでいる人々がいる。
しかし彼らは田中のことなど知らない。
知らないまま、すべてが過ぎ去っていく──そのように思えた。
「あの」
だが、不意に呼びかける声がした。
最初はそれが自身に向けられたものだとは気づかなかった。
だからもう一度「あの」と声をかけられて、ようやく田中は顔を上げた。
「すいません、その、先ほどは突然……」
そこにいたのは、雪乃であった。
彼女は白い息を吐きながら、田中を見下ろしている。
「少し、取り乱してしまって。まさかあそこにみっちゃんがいるなんて」
「……いや、別にいいよ」
田中はひどく投げやりな口調で答えた。
「その、電話をかけても出られないので、勝手ですがこちらで探させてもらいました。
カーバンクルさんから、一応、眼を離すなと念押しされていたので……逃げたのは私の方ですけど」
「ああ」
田中は声を漏らした。
先ほどから胸元でなっていたスマホを無視していた。
とはいえこのスマホも元々は雪乃が用意したもの。
アカウントの設定などをしておけば、バッテリーが生きている限り、位置を探知することは容易だろう。
だから見つかった。見つかってしまった。
「……何か、会ったんですか? ロイさん、何か様子が」
雪乃が荒い息を落ちつけながら尋ねてきた。
やはり今の自分は見るからにおかしいらしい。
雪乃の問いかけに、どう答えるべきか迷っていたが「ははっ」とそこでまた乾いた笑い声が響いた。
「どうやらね。俺はロイ田中じゃなかったらしい。勝手に俺がそう思い込んでただけみたいだ」
その時、彼はひどくくだけた口調になっていた。
言葉にすると本当に意味がわからない。
眼の前の雪乃も顔をぽかんとさせている。
「俺は、誰でもなかったんだ。
帰ったら──いたんだよ、“現実”の俺が。
あれはもうあっちの世界で闘っている俺とは、別の俺だった」
あの“ロイ田中”は弥生のことを知らない。
それが自然のことのようだった。
桜見弥生なんて人間はいなくて、ロイ田中は桜見三月とだけ幼馴染。
その母、夕香とも自然と交流がある。
そんな人間関係だったとすれば、今日のことはごくごく自然な形になる。
この“虚構”のロイ田中の居場所は──ここにはいない。
「母さんも、父さんも、嫌いだった俺はもうこの“現実”にいないらしい」
そう告げた時、雪乃の表情に変化が起こった。
昨日までの自分は、なんと牧歌的な考えをしていたのだろう。
帰ることを厭だと思いつつも、仕方がない選択肢だと考えていた。
だが、それは自分に帰る場所が残っていると、無条件に考えているからこその悩みだった。
「笑えることにさ。俺がいない間に、全部の問題が解決してたみたいなんだ。
俺がいないこの“現実”で、俺が悩んでたことは全部終わっていた。
俺が向き合わなかった物語は、何時か来ると思ってたすべては、俺がいないところで、いつの間にか終わってしまっていた」
雪乃には何のことかさっぱりわからないだろう。
説明する気のない言葉、誰でもない壁に喋る、独白のようなものだ。
「……だから、俺は誰でもない人間なんだ。“虚構”の、単なるキャラクターのような──」
「わかりますよ」
しかし雪乃はそう口にした。
「わかります……だって──」
その漆黒の瞳で田中を見据えて、告げるのだった。
「──私も、誰でもない人間ですから」
ちょっと次の投稿まで1~2週間開くかと思います。