156_俺は誰だ
そこにいたのは、ロイ田中だった。
その姿をした誰かだった。
間違えるはずもない。
17年にも渡って付き合い続けたこの身だ。
父と母の特徴を引き継いだあの顔を、何度恨めしく鏡の前で見たかわからない。
ああ、だからそう──そこにいたのは、間違いなく自分自身だった。
もう一人の自分は、田中の存在に気づくことなく扉を閉じた。
外の音に何かを打ちのめされる気になったが、
「──クソっ」
胸に湧いた異様な衝動に突き動かされるように、田中は駆け出し、その扉をこじ開けた。
鍵のかかっていなかった扉はあっさりと開いた。
「なっ」とその向こうにいたもう一人のロイ田中の声が漏れた。
突然の侵入者に面を食らっているようだった。
その隙だらけな彼に、田中は襲い掛かった。
その手で当て身を食らわせ、くら、と態勢を崩した勢いのまま相手を組み伏せる。
“虚構”で闘ったどの相手よりも容易い相手だった。
向こうでは子供だってずっとうまく抵抗するだろう。
同じロイ田中であっても、8《アハト》として戦った田中と、ここにいる彼とでは全く動きが違った。
動けば激痛が走るように組み伏せる。この態勢では大声も出せないはずだ。
そして感情を押し殺した声で彼は尋ねる。
「お前は誰だ」
こぼれ出たのはそんな問いかけだった。
お前は誰だ。そうここにいるのは、自分のはずだった。
しかし、ではここにいる、自分と同じ顔をしたこの男は──
「だ、誰だよ。クソ、ご、強盗」
「答えろ。折るぞ」
「あ、う……」
一瞬だけ痛みを加えた。厭な音がして、自分と同じ顔をした誰かが苦悶の表情を浮かべた。
もう一度訪ねる。「お前は誰だ」と。
すると、観念したかのようにその男は答えた。
「ロイ……ロイ田中だ」
と。
思わず腕に力が入った。「ぐうう」とロイ田中を名乗る誰かが声を漏らした。
「う、嘘じゃない。嘘じゃないんだ、親が外国人で、本名で──」
「知っている!」
田中は叫びを上げていた。
知っている。それが本名であることは知っている。
しかしその名は自分のものでなくてはならなかった。
「親が離婚したから! 仲がよかったあの人たちがあんなことになったから! お前はここにいるんだろう!
知っているぞ!
お前が本当はあんな人たちから逃げ出したいことも。
縁を切って、一人で生きていきたいことも。
そのくせ! たった一人で生きていくことを何よりも恐れていることを!」
糾弾の声を漏らすたびに、まさに身が削られる想いだった。
「そして! 何よりそんな自分が大嫌いだったことも!」
田中の視界が歪んだ。
自分は果たして、誰に対して何を言っているのか、理解できない心地だった。
ただ次から次へ、言葉が胸の奥からあふれてくる。
それはきっと、あの“虚構”の世界で今まで忘れていたことで──
「──ち、違う」
その時、もう一人のロイ田中が声を上げた。
相変わらず苦悶に顔を歪めている。
だがその顔にはもっと別の感情の灯、意地のようなものが浮かんでいた。
「俺は、俺はもう逃げてない!」
「何……?」
「お前が何でそんなことを……知っているのかわからない。
でも俺は、あの後──会ったんだ」
母さんと、父さんに。
そう彼は言った。
「俺は……確かに嫌いだった。みんなみんな。
でも、このまま半端に生きていくなんか、できるわけないだろ。
だから会ったんだ。もう一度、あの人たちに、会って、話した」
田中は、この男が何を言っているのかわからなかった。
ただ呆然と、ロイ田中のような誰かの言葉にのめされていた。
「そりゃ厭だった……でも……俺はもう取り戻したんだ。
うまくやっていけないなりに、話して、泣いて、そしてまた会おうって言った。
母さんとも、父さんとも、また会うって、だから──」
「そんなこと!」
「嘘じゃない。嘘なわけないだろ! これは本当のことなんだ」
彼は、それだけは譲れない、という明確な意思を込めて叫びを上げた。
「俺はまたあの人たちと一緒に暮らしたい。だから! こんなところで」
「弥生は!」
田中は声を遮り、問いかけた。
「……何?」
「弥生は? 桜見弥生はどうしたんだ? アイツは? アイツの小説は?」
必死に田中は問いかけた。
蜘蛛の糸に群がる亡者のごとく、彼は懇願するように声を出した。
しかし、目の前にいる男は言った。
「──それは、誰だ?」
瞬間、田中は彼に一撃を食わらせていた。
ぐ、と厭な音が響くと同時に、彼は動かなくなっていた。
田中は息荒くその身を見下ろしていた。
死んではいないはずだった。殺意は湧いたが、それ以上の困惑がその手を鈍らせた。
だが──一つだけ、腑に落ちるものがあった。
「ははは」
田中は笑った。久々に声を出して笑っていた。
ひどく乾いた声が自分の家であったはずの場所で響いた。
三月と会って感じていた違和感。
三月そのものが田中にしてみればおかしな存在だった。
しかし、もっと先に気づくべきだったのだ。
田中が“虚構”に消えてから、おおよそ半年間の時が流れていた。
その間、田中は行方不明になっているはずだった。
だから仮に三月が弥生のことを忘れていても、ああも自然に田中に話しかけること自体おかしかったのだ。
“現実”において、ロイ田中は行方不明になどなっていなかった。
ロイ田中はずっと“現実”にいて、“虚構”になど行っていなかった。
であるならば──
「じゃあ──俺は誰だ?」