155_弥生と三月
「えと……」
三月は戸惑いに声を揺らしながら、答えた。
「弥生って誰? さっきも言ってたけど」
「弥生。桜見弥生、君のお姉さんだ」
「え!? 私お姉さんいたんだ! 知らなかった!」
そう大げさな口調で三月は驚いてみせた。
正確には驚いた体で場を取り繕った。
もちろん田中は笑うことができず、胸の中に空疎なものが溢れてくるのだった。
「……ロイ君? さっきもなんか言ってたけど、大丈夫?」
三月が口調から冗談の色が消え、代わりに心配するようにこちらをのぞき込んできた。
「いや、最近いろいろあったのは聞いてるけどさ。
ちょっと休んだ方がいいんじゃない? ほら最近、学校も結構その辺気にするし……」
だがそれに気を配るほど田中は余裕はなかった。
失望と、そして忘れていた焦燥が胸に湧いていた。
そう──弥生は、忘れ去られていた。
あの時も、“虚構”の世界に転移するときだってそうだった。
ある日突然、“現実”から弥生の存在が抜け落ちた。
入院していたはずの病院から消え、ほかの誰も、彼女の母親さえも彼女のことを覚えてはいなかった。
弥生が“現実”には存在していない、ただの“虚構”の存在であるかのような──
「あ、電話だ。ごめん」
鳴り響いた電子音を受け、三月は手元に置いてあったスマホを取る。
電話らしく、彼女は穏やかな口調で相槌を打っていた。
「うん、今、調布駅の前。あーそうそう、今ロイ君と会ってる! そう、久しぶりでしょ、だから──」
そうして何度か頷いたのち、電話が終わったのか、彼女は端末を置き、
「なんかお母さんもたまたま近くで打ち合わせしてたんだって。
せっかくだから会わないって?」
「お母さん……?」
「そそ、最近会ったでしょ? 私聞いてるんだよ」
あは、と三月は笑って言うが、田中は思考が追いついていなかった。
三月、そして弥生の母といえば、もちろん一人しかない。
“それにしても母親さえ忘れさせる、か。
面白い糾弾の仕方ね……私だって、一応、その娘の母親と言えなくもないのよ?”
“雨の街”での記憶がフラッシュバックする。
あの灰色の街にいた呪術師、タイボ。
そして竜の仮面の奥から現れたのは──弥生の母、桜見夕香だった。
“弥生は、自分を七つの仮面ペルソナにわける形で“転生”を行ったの。
よっぽど今の自分が厭だったのかしらね。わざわざそんなことをしてまで、自分を引き裂くなんて。
そうして弥生は現実から姿を消し、代わりにこの虚構フィクションの世界に降り立った”
太母を名乗る彼女は、揚々と語り上げた。
“虚構”について、弥生の転生について、聖女について。
彼女こそが、ある意味ですべての元凶であり、敵であると田中は信じた。
何故ならば、彼女は言ったからだ。すべての聖女の言語を集めれば、弥生にまた会えると。
だからこそ8《アハト》としてずっと──
「ロイ君?」
猛然と思考が流れる中、三月が再び心配したように呼びかけてくる。
「すまない。ちょっと待ってくれ、夕香さんって」
「あ、来た! 本当にもうそこに来てたんだ」
そう言って三月は立ち上がった。
見れば喫茶店の入り口に変わらずオフィスカジュアルな恰好をした、桜見夕香の姿があった。
彼女は柔和に微笑み、三月へと手を振っている。
その様子には何らおかしな部分は感じられなかった。
竜の仮面もなければ、雨降る街で見せた異様な微笑みもない。
この“現実”においてごくごく自然な様子で、彼女は立っている。
その事実に、田中は何か恐ろしいものに触れてしまった心地になった。
「違う!」
田中は思わず叫びをあげていた。
だっ、と机が音を立てて揺れる。
喫茶店の騒々しさの中にあって、張り上げた声は響いたようで一斉に注目が集まる。
だがそんなことはどうでもよかった。
ただ目の前の“現実”が、本当の“現実”とは思えなった。
「ちょっ、ちょっとロイ君?」
「違う、違うんだ。お前は、あなたはそんなのじゃない」
田中は息荒くまくしたてた。
支離滅裂な意味のわからない言動。客観的に見て、自分は今狂人に見えるだろう。
そのことを理解しつつも、田中は叫ばざるを得なかった。
お前たちは誰だ、と。
弥生のことを知らない三月も、タイボでもない夕香も、どちらも知らない誰かだった。
それ故に耐えられなかった。
田中はその場を駆け出していた
「ロイ君!」「田中君?」三月や夕香の声が聞こえたが、すぐに遠ざかっていった。
理解できなかった。何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか。
肩を次々に当て、周りから異様な目で見られつつも、田中は走り出していた。
一秒たりともそこにはいたくはなかった。
ここが“現実”、“現実”だと認めたくない。
──弥生は、弥生はどこにいる。
“現実”ならばいるはずだ。そうでなくてはおかしい。
聖女も、タイボも、ただの“虚構”だというのならば、彼女の存在がこちらに残っていない道理がない。
その想いに突き動かされるように田中の足は動いていた。
状況としては、転移する直前と同じだった。
弥生の存在が否定され、それを必死で探し求めている。
何も当てがないのに。
結局、田中は自然と家、自分の部屋へと向かっていた。
それも過去の再演と言えるだろう。
かつて自分が弥生の残滓、あの“虚構”が描かれた小説を見つけた場所が、そこなのだから。
そうしてアパートに戻ってきた田中は、焦る想いで階段を駆け上った。
扉があかないのならば、力任せにぶち破ればいい。
8《アハト》としてやってきたことを考えれば、簡単なもののはずだった。
「──え?」
だが、アパートにたどり着いた田中は、奇妙なものを見た。
厭な汗が全身から吹き出た。寒空の中、身体は熱くなり、しかし背筋はぞっとするほど寒い。
帰ってきたはずの、自分の部屋。
そこに誰かが入っていくのが見えた。
当たり前のように鍵を開け、欠伸をしながら部屋に入っていく。
その男は、紛れもなく──
「──俺?」