153_現実、その続き
思えば、あの部屋から“虚構”の世界に行くことになったのだ。
弥生が“現実”から抜け落ち、必死に探し求めてたどり着いたのが、あの部屋で、そこに置いてあった小説だった。
何故あそこから転移することになったのか、その理由はわからない。
だが一つのはじまりがあの部屋にあったのは間違いなかった。
そういう意味でやはり無視はできない。
「……君は何故ついてきた?」
田中は隣に立つ少女へと問いかけた。
交差点、信号を待つ最中、彼女は一瞬考えたのち、
「ロイさん。貴方たちにしてみれば、私がいないと不安ではないですか?」
六反園雪乃は不思議そうにそう問いかけていた。
行くべき場所がある。
そう告げた田中に対し「では一緒に行きましょう」と手を上げたのは彼女だった。
カーバンクルは面倒くさがり、キョウは外に出たがったが、外出を許されなかった。
故に田中は今、雪乃と二人で調布へと向かうことになった。
パッ、と信号が青に変わる。
そして動き出す人々。スーツ姿の男性や老人、冬休みと思しき小学生まで雑多な人々が昼の街にはいる。
その流れに乗って進んでいた雪乃が振り返って言う。「行かないのですか?」と。
無言で彼は進み出した。
奇妙な居心地の悪さをそこに覚えながら。
田中としては、正直なところ一人で部屋に戻るつもりだった。
ある程度事情を把握しているカーバンクルならともかく、それ以外の者に説明をするのは少々事情が入り組み過ぎている。
ただでさえ異様な出来事が起こっているのだから。
「そして、ここがもう調布ですが、どのあたりを目指しているのですが」
「駅から少し歩いたところだ。流石に忘れてはいない」
「忘れていない……?」
街を歩きながら、雪乃が首を傾げた。
「あの、お聞きしたかったのですが、ロイさん。貴方、何故、こちらの世界のことに詳しいんですか?」
「何故ってそりゃ」
とそこまで言って田中は気が付いた。
もしかすると──勘違いされているのか。
「……そうか、説明してないもんな。“教会”の一員だってこととかは言ったけど、それ以上のことは」
「どういうことです?」
田中はなんと言ったものかと一瞬思案したのち、
「ロイ田中」
「はい?」
「俺の本名だ。芸人みたいだが、本名だ。つまり日本人」
「あちらにもニホンという国があるのですか?」
「違う。俺はもともとこっちの人間なんだ」
え、と雪乃は目を丸くした。
ロイさん、ロイ君、としか言われていないから、勘違いされるのも無理はなかった。
「大体半年ぐらい前までは、この“現実”の人間だったんだ。
それが何故か理由はわからないが、“虚構”の世界に転移した」
「そんなこと……」
「行けるんだから、戻ってくることもあるのは、ある意味では自然だろう?」
本当に戻ってこれたのか、を考えると少し自信がなくなるのは、あえて口にしなかった。
とりあえず伝えた事実に雪乃は困惑したように目を揺らしている。
何と言ったものかわからないのだろうか。
そうして歩いていくと、田中はひどく見覚えのあるアパートの屋根が見えてきた。
もうはるかに遠い日の記憶のように感じられるのに、身体は覚えているもので迷うことはなかった。
三階建て、木造のアパート。条件だけで言うならばカーバンクルの仮住まいである寮の方がずっと良い。
「ちょっと待っていてくれ」
入口まで来て、田中は雪乃を制した。
まずはとにかく、一人で考えたいことだった。
雪乃もこちらの想いを汲んでくれたのか、何も言わずこくりと頷いた。
そうして田中はかつての住まいである204号室へと向かった。
階段が軋むたび、不思議な緊張感が田中に宿る。
「…………」
そして扉の前に立ち、息を吸う。
この向こうに何があるのか。
その答え次第では、この不思議な闘いに終止符が付くかもしれなかった。
そしてドアノブへと手をかけて──止まった。
そういえば、鍵を持っていない。
自分の部屋なので失念していたが、入る方法が今ないのだ。
転移する前の衣服など、当の昔に捨ててしまったし、そもそも持ち歩いていたか怪しい。
こんなことなら、近くに鍵を隠しておくべきだったか、などと思うももはやどうしようもない。
どうするか。
しかるべき場所に鍵をなくしたと連絡すれば開けてもらえるかもしれないが──
「あれ? お出かけするの?」
声が、かけられた。
田中ははっと振り返った。
何故ならばその声は──
「弥生」
「え?」
そこに立っていたのは、田中とはまた違う制服に身を包んだ、桜見弥生であった。
その存在に田中は頭を殴られたかのような衝撃を受けるのも、
「弥生って誰? ロイくんの知り合い?」
当の彼女は不思議そうに、さらりとそんなことを言うのだった。
田中は思考が全く追いついていなかった。
何故彼女がここにいる? この“現実”に、何故立っている。
聖女でない弥生が、ここにいる意味は──
「弥生、さん。お前、なんで……!」
「だから弥生って誰? 久々に会ったのに、変なこと言うんだね」
あは、と弥生──に似た誰かは言った。
「名前、忘れちゃった? 私です、三月です。
桜見三月。むっかし仲良かったのに、ひどいこと言うんだね」
そう言って彼女は茶色がかった瞳を細め、笑ってみせた。
桜見三月。
それは田中の記憶では桜見弥生の妹であるはずだった。
弥生と瓜二つの双子の妹。
弥生より一つ齢下の彼女は、病弱な姉と違って丈夫な身体をしていて、いつも外で走り回っている明るい娘だった。
その筈――だった。