152_帰るよ
聖女がこの“現実”に来ている。
その事実に何か打ちのめされるような想いを受けながらも、田中は朝を迎えていた。
時計を見れば午前7時27分。それをぼうっと見ること十秒ほど。
雪乃が持ち込んでくれた毛布から出て、キッチンの方へと向かう。
コップに入れた水道水をのどへと流し込み、その物質な感触に田中は酩酊する気分だった。
「おはよう」
そんな田中にカーバンクルが声をかけてきた。
赤い刺繍が施されたえらく可愛らしいパジャマに身を包んだ彼女は、眠そうな目で歯ブラシを口に含んでいた。
「相変わらず生活感がありすぎる」
「生活してんだから当然じゃないの」
口に含みつつ言う彼女に、田中は思わず苦笑してしまう。
まぁ正論ではあった。
そう思いつつ、“現実”に来て二度目の朝がやってきた。
ニケアの動画の件は、ひとまず対処のしようがない。
動画の拡散を止めるような手段を田中たちは持ち合わせていないし、直接会いに行ったところでそもそも東京タワーに留まっているのかもわからない。
なので、今できることと言えば逐次情報をチェックすることくらいだった。
「うーん、聖女様の動画。人気なんですねえ」
テレビの前ではやはりキョウが陣取っていて、早朝からかじりつくように情報を見ていた。
彼女の朝は異様なほど早いが、よく考えてみると外に出れず体力も有り余っているうえに、異世界に来た彼女がゆっくりと眠れる方がおかしいだろう。
ある意味、情報に食いつくのも、そうした不安が理由なのかもしれなかった。
ネット動画のランキングの見方などはもう把握してしまったらしい。
と、そのタイミングで玄関が開く音がした。
鍵を持って外からやってくる人間など一人しかいない。
「おはようございます」
六反園雪乃は、その日も制服をまとってやってきた。
「おはよう」と田中も短く返した。
夜の東京をあれだけ駆け回ったというのに、彼女の起床時間もやはり早い。
ふと気になった田中は、部屋にあがってきた彼女に問いかけてしまった。
「……学校とか大丈夫なのか」
「冬休み中です」
彼女はあっさりと言うが、であれば何故いつも制服姿なのかという疑問が湧いた。
別に、詮索などする気はないのだが──
「ああ、雪乃か。おはよう」
「カーバンクルさん。昨日の動画ですが、SNSとかでも話題にはなってますね。
勝手に動画を加工してBGMをつけたものとかも出ているみたいです。
あといくつかネットニュースにもなっています」
「ふうん……」
逆に言えばその程度、ともいえるのだろう。
聖女ニケアの存在はまだ多くの人には認知されていない。
と、言ってもそれは現状の話だ。今後ニケアがどう動くかによって、全く状況は変わってくる。
「聖女様をどうする気なんですか?」
キョウが少し声を硬くして聞いてきた。
その視線の先にいるは、田中だ。
聖女をこの“現実”でどうするか。
それは、キョウと田中を明確に分ける問いかけでもあった。
それ故に迷うことなく答える必要があった。
「安心しな。“教会”だって、この状況で不用意に“聖女狩り”とか言い出したりはしないよ」
だが先回りしてカーバンクルがあっさりと答えてしまった。
その合間、一瞬だけが釘を刺すように彼女は田中を見た。
“教会”としてのスタンスとしては間違いない。
それ以上のことは今ここで答えるべきではない、とでもいうように。
「聖女ニケアについては、できれば協力を求めたい気分だね。
仮に帰る方法があるのなら、聞いて置きたいところではある」
「……わかりました。そういうことでしたら、私もこのまま協力します」
「ま、最もアッチの世界に帰る意味があるのかってところでもあるけど」
そう答えると今度はキョウが苦笑する番だった。
「ま、まあちょーと思わなくもなかったですけど」
「戻ったところであんな場所じゃあね!
秩序も何もないひどい現実よりかは、こっちの神話世界の方が楽しそうだよ」
「でも一応、私には会いたい人もいますから!
……もしかしたらこっちに来ちゃってるかも、とは思いますけど」
「あっちに戻っても生きて会えるとは限らないしねぇ……」
カーバンクルは笑いながらそんなことを言っている。
「…………」
そのやり取りに、田中と、そして雪乃は何も言えなかった。
ふと目が合った。その真っ黒な瞳が揺れるのがわかった。
「……帰りたい、か」
その視線に奇妙な共感を覚えつつも、田中はカーバンクルへと口を開いた。
「なぁ、雪乃隊の活動、異形狩りってのは夜行われるんだろう?」
「うん? ああそうだけど」
「じゃあ昼間は何をしているんだ?」
「ネット見て、テレビ見て、読書して、散歩して……」
「高等遊民だな……」
だらだらしているということらしい。
「わかった。じゃあ、自由行動をしてもいいんだな」
「うん、まぁいいけど。情報収集はこのジャージ女がやるから」
「じゃあ、ちょっと今日は外に出てくるよ」
「どこに行くんだい?」
「帰るんだよ」
田中は言った。
今のカーバンクルとキョウのやり取りを聞いて、やはり行くべきだと感じたのだ。
元々新宿からそこを目指していたのだ。
調布にある一室。一人暮らし用に借りたアパート。
「そうか、そうだよね。君は本当は帰りたかったんだものね」
カーバンクルの女性口調の言葉が、どこか遠くに響いた。
──そう、帰るのだ。あの弥生の小説を見つけた部屋に