144_最初の夜
「ええと、その……」
田中とキョウは互いに顔を見合わせていた。
互いに敵同士であるはずの彼らは、しかし、共に剣を抜くことができなかった。
その結果、どこか滑稽な、戸惑いのはらんだ沈黙が舞い降りていた。
と、そこで田中はふと気づいた。
ビル立ち並ぶ夜の新宿には、当然人々が行きかっている。
駅前や歓楽街から離れた場所だけにそう多くないが、人々は遠巻きにこちらを眺めているのだった。
「ねえあの人たち」「うっわ派手な髪色」「あれ外国人」
こぼれ落ちる声を聞いたとき、田中は久しく使ってなかった感情の回路が動くのがわかった。
「行こう」
「え?」
田中は首を振り、キョウの手を掴んだ。
敵同士、いつものキョウならそんな接触は許しはしなかっただろう。
しかしあまりの事態に理解がおらず「え? え?」と声を漏らし引きずられていく。
「ロイ君、ちょっとどこへ」
そう尋ねるキョウに対し、田中は声を荒げた。
「俺が聞きたい!」
なぜいきなり転移したのか。カーバンクルやハイネはどうなったのか。どうして武器が出せないのか。
わからない。
しかしここは新宿だ。
少なくとも剣がない状況でも、死ぬことはそうそうない。
──いやむしろ。
出せた方が危険だったかもしれない。
ここは秩序も何もかもが消えていたあちらの世界とは違うのだ。
今はただ酔っ払いの外国人が暴れている程度に受け止められたが、街の往来で剣を出せばどうなるのか、田中は知っている。
キョウの腕を引きつつ、田中は自然と新宿から離れる方向へと足が動いていた。
記憶の中に染み付いた“我が家”が、そこにはあるはずだった。
道の隅に立つセブンイレブンや、スマホをいじって歩く人々を見ると、ようやくここが東京であることの意味がつかめてきた。
「ロイ君」
“教会”の灰色カソックはそのままだし、懐には“眼”からの言語を解読するバイザーだって入っている。
しかし、当然だが日本円など持ってはいないし、MT加工の装備なんて、この東京で役に立つわけがない。
じゃあいったいどうすればいいのか──
「あの! ロイ君!」
耳元での叫びに、思考はさえぎられた。
はっとして田中は立ち止る。急に止まったことでキョウがつんのめるのが見えた。
「あ、ごめん」
「ごめんじゃないです! わけわかんないです」
キョウが声を荒げるのを見て、田中はあわてて手を離した。
真冬だというのに掌の中はびっしょりと汗ばんでいて、キョウの肌にも痕がついてしまっていた。
「ここ、どこなんですか? 知っているなら教えてください」
「叫ぶな。また悪目立ちする」
迫ってくるキョウを押しとどめるように言った。
ただでさえキョウの外観は目を引く。
一応人通りの少ない住宅街まで来ていたので、往来の人々はそう多くないのが救いだった。
とはいえ昼になれば、キョウはいよいよ街の異物となるだろう。
状況はわかるまで、下手に目立つことは避けたかった。
「で、ロイ君。ここは? 知ってるんですか?」
だからキョウをなだめるためにも、田中は答える必要がありそうだった。
何もかもわからないが、しかしこの街を知っていることは間違いない。
「東京だよ」
うめくように田中は答えた。
「え?」
「だから東京だ。知っているだろう? 神話に出てくる、赤い塔の立つ街だ」
そう答えると、キョウは目をぱちくりとさせたのち、
「そんな非現実的な話じゃなくてですね……」
「現実だよ!」
今度は田中が声を荒げる番であった。
彼は髪をかき乱しながら、
「これが非現実的な話あるもんか。
これが虚構であってたまるもんか。ここは、ここが現実に違いないんだ」
「ロイ君……?」
田中の変節に、キョウは首をかしげている。
理解できてないいのだろう。
田中のことも、この世界のことも、事の重大さも、何もかもが理解できていないに違い。
キョウの心情を想像することはたやすい。
何故なら、かつて田中がそうだったからだ。
あの世界にいきなり言って、エリスに会って“さかしまの城”を見せられた時も、とにかく意味がわからなかった。
だから逆に平静を保っていたな、と田中はかつてのことを思い出す。
「ええとその、ロイ君、そんなに無理をしないで……」
「お人よしだな、本当に」
こちらを慮る声に、田中は苦笑した。
とりあえずキョウは今、ここにいる。
となれば、これまでのことががすべて嘘で、虚構で、本当は存在しなかった、なんてことにはならない。
それが現実だ。
「……悪かった」
そう自分に言い聞かせることで、田中はとりあえず顔を上げた。
「正直俺だって意味がわからない。つれまわしたのは謝るが……」
「ええと、あ、はい。それはどうも」
キョウとの気の抜けるやり取りを経て、田中は息を吐いた。
「あっちの戦場じゃ敵同士だったが、ここじゃどうにも戦えない。休戦だ」
「うーん、そうですね……それはその、またとないお話なんですけど」
キョウはそこで、あはは、と苦笑を浮かべながら、おもむろに田中の方へと手を伸ばした。
「そのですね……私から離れないで欲しいんです。
厚かましいお願いなんですけど、その、私、この街のこと何もわからないんで……あはは」
カソックの袖を強く握りしめ、笑いながら彼女はそう言うのだった。