143_異世界転移
聖女戦線編のポエムパート微妙に変えました
その日、母だけは取り乱していなかった。
百年前、父が出ていくといった日、他のみなが悲嘆にくれている中、母だけは違ったのだ。
困惑することなく、どこか決然と遠いところ見ていたのを覚えている。
その時は、その顔の意味が私にはまったくわからなかった。
母は優しい人だった。
厳しい父と対称的に、母は誰にだって優しく、もちろん娘である私にも優しくしてくれた。
そんな母に私は随分とわがままを言ってしまったように思う。
あれが欲しいとか、あそこに行きたいとか、おいしいものが食べたいとか、王朝崩壊の不安定な時期にあって、とんでもない願いを口にしていたものだ。
優しい優しい母がいたからこそ、私は厳しい父の下でも育つことができたのかもしれない。
それでも、たいてい母は叶えてくれた。
食べ物も、居場所も、娯楽も、母は私のために言えばなんでもくれた。
それを父にとがめられることもあったけど。
そんな母は、父のことを愛しているようだったし、父も同じくらい母を愛しているようだった。
少なくとも私には、そう見えていた。
にもかかわらず、突然出ていった父と、それを受け入れている母。
その光景が、私にはどうにも理解できなかったのだ。
呆然としている私に、母は耳元でこうささやいた。
“安心してね、私は貴方の味方だから、ずっと”
その言葉通り、母はそれから百年もの間、味方でいてくれた。
雨の日も、雪の日も、どれだけ苛烈な敵が前に現れようとも、母は味方だった。
どんなことがあろうとも、母は私の味方であることを選び続けるだろう。
だいたいのことを理解した今だからわかる。
父エルが強大なる敵となったのも、母ユウカが絶対的な味方になったのも、私がいたからだ。
私が抱いたちっぽけな夢と願いこそが“はじまり”だった。
すべては私が、願ったことが。
(虚構都市“東京”)
星一つ見えない暗い夜空の下、灰色のビル群が立ち並んでいた。
降り続ける雪が、アスファルトに降れるたびに瞬く間に溶けていく。
目の前の道路では、やってくる車がかわるがわる乾いた駆動音を立てては消えていく。
「……東京か」
その光景は、田中が今の今まで戦っていた聖女戦線と似てはいる。
あそこも雪は降っていたし、神殿と呼ばれる摩天楼が乱立しているような場所だった。
しかしまったく違う場所だった。
分厚い雪、剣で武装した兵士たち、幻想に満ちたオーロラの空。
聖女戦線を構成していたすべての要素が消えてしまっている。
「夢から」
田中はうめくように言った。
「醒めたとでもいうのかよ!」
うへえ、と吐き気をこらえるように口元を抑えた
訳がわからな過ぎる。
あの聖女との血にまみれた戦いは全部夢で、現実には存在しないものだったのか。
悪い夢を見ていたロイ田中は、あっさりと目を醒ましたとでもいうのか。
思えばあの地で目が覚めたのも唐突で、意味の分からないものだった。
ならば帰ってくるときも、これだけ意味不明で理不尽でもいいのかもしれない。
──ふざけるな。
激昂に似た思いを抱え最中、田中はこぶしを握り締めた。
自分が一体に何に怒っているのかもわからなかった。
ただ、今この状況に対して腹が立っていた。
そして気づく。腕に巻かれた鞘の感触に。
「あ!」
その意味に気づくより前に、田中の背後で聞き覚えのある声がした。
「み、見つけましたよ! ロイ君!」
彼女は振り返った田中を、ぴっと指で指している。
キョウ。
新宿の薄暗い街並みの中、髪をたなびかせる彼女の姿は、記憶の中にあるままだった。
彼女の登場と共に、田中の思考は一気に切り替わる。
「なんだかよくわかりませんが、とりあえず逃がしません!」
そう叫びを上げるキョウに、田中の身体は自然と動いていた。
鞘から偽剣を抜き、即座に跳躍。
可能なら初撃で切り捨てる。空に逃げられれば、こちらからは打つ手がなくなるその前に──
「あれ?」
「え?」
──互いに、気の抜けた言葉が出てしまった。
田中もキョウも動きが止めていた。いな、動くことができなかった。
偽剣は出現せず、当然跳躍も行われなかった。
鞘はただの腕輪のまま、言語が走っている様子も感じれない。
「これは……」
「もしかしてここ、幻想がほとんどない?」
それまで当たり前のようにできたこと、やっていたことが全く機能しなくなっている。
何も起きない。そんな事態に、田中とキョウは互いに目を見合わせてしまった。
キョウの瞳は揺れ、その困惑を示していた。
きっと田中もまたそんな表情を浮かべているのだろう。
街のライトは明滅し、無数の車が行きかっていた。
剣を抜くこともできない二人を、街は置いていくかのように動き続けている。