141_エル・エリオスタ
……空に影ができていた。
その船の姿は、鯨と呼ばれる神話上の生き物に酷似している。
鯨は人間をはるかに凌ぐ巨躯を誇っていたとされるが、あるいは神話のそれよりもその船は大きい。
碧の幻想に乗って移動するそれは、突き出る摩天楼を次々となぎ倒しながら戦場にその姿を見せた。
その船首にて、“希望”の第一聖女ニケアは佇んでいた。
ばさばさと髪をたなびく。戦闘のために拵えた“ドレス”が碧色の燐光をまとっている。
「どうですかな、この『イシュメイル』は」
足元で猫のメロン将軍が尋ねてきたので、ニケアはニッコリと笑って、
「うん、最高だな。とにかくスケールが大きくて良い」
言語船『イシュメイル』。
それは聖女軍が持てる人員・資材すべてを投入して投入した、聖女を乗せること前提に稼働する船である。
いかに幻想の濃い空であっても、これほど巨大な船を、神殿が見えるほどの高度で飛ばすのはリスクが伴う。
しかし、そこはニケアの奇蹟がある。
彼女の身より溢れ出る莫大な量の幻想を基に、内部に同席した数十人規模での魔術師が、その場で最適な言語を生成する。
一秒一秒ごとに違う描写を重ねるという、強引な力技で『イシュメイル』は空を飛ぶことに成功していた。
大量の偽剣隊を輸送できるスペースを持ち、武装面でも三〇基の閃光砲が備えられている。
またゆったりとした曲線の装甲には三の三十三乗のMT加工が施され、その狭間に自己修復の魔術が仕込まれ、防御の面でも万全といえる。
「それこそ数百年先の技術を先取りしてるようなものです。強引なやり方にはなっていますが、この『イシュメイル』は無敵です」
「ふむ、何にせよ“秋”の連中に大枚をはたいた甲斐があった」
「向こうとしても、いろいろあったみたいですがな。何でも将来有望な若者が出奔したとか」
言葉を交わしながら、ニケアは雪降る戦場を見下ろしていた。
灰色の街並みで今まさに戦闘が行われている。
「YUKINO隊はよくやってくれているよ」
「ええ、私も当初は正直不安だったのですが、最近の快進撃を前に何も言えませぬな」
「ふふふ、まぁな。そしておそらく、今日彼らを餌に私を釣ろうとしたのだろうが」
「はい?」
「いや、何でもない。例のごとくネタバレを食らっただけだ。
まぁ何をしようとも、私はここに来たのだろうから。
だから逆に“ドレス”まで用意してやってきてやったのだぞ」
そう言ってニケアは鞘から剣を抜いた。
『パルスマイン改・3rd』。百年の闘いを彼女と共に駆け抜けた一振りである。
その刀身が露になるや否や、彼女の身に纏う“ドレス”に変化が起こった。
“ドレス”に碧のラインが走り、脈を打つように輝きを持ったのである。
偽剣連動式特殊戦闘衣。
偽剣の言語と対応し、戦闘をよりスムーズに行うことができる装備。
これもまたニケアのために用意された唯一無二のもの。
試験段階にあったものを、この日に合わせて完成させた、聖女軍の技術の集大成ともいえる“ドレス”なのだった。
「さて、踊ろうか。お父様」
母、太母はどうやら近くまで来てくれたようだ。
それもこれも、久々にあの人がこの地まで来たからだろう。
──終幕は華々しく行きたいものだ。
そう思いながら、ニケアは船首より一歩踏み出した。
同時に、その背中に碧色の翅が生え、彼女の身を支えた。
その翅は一見すると妖精のものに見えるが、少しだけ違うことを、ニケアは知っていた。
──これは、蝶の翅。
微笑みを浮かべ、ニケアはこの戦場のどこかにいるはずの、己の敵へと呼びかけた。
──夢見る蝶の翅なんだ、タナカクン。
そして飛び立った彼女は鋭い叫びをあげた。
「来たぞ! 決着をつけに!
“教会”の騎士、エル・エリオスタよ!」
◇
空に浮かび上がった巨大な鯨。
その存在に、戦場の誰もが我を忘れていた。
聖女軍にさえ、その出撃は伏せられていた。
そして同時に、鯨と相対する一人の騎士の存在に、“教会”の兵士たちはみな困惑していた。
紅き甲冑の騎士、エル・エリオスタ。
“教会”を率いる、絶世の剣士。
彼が姿を現したと、突然の通告が行われたのだった。
「このタイミングで……!」
ハイネが絶句する声が漏れた。
対するクリスもまた、空に浮かぶ船とその先頭に立つ聖女を見上げていた。
「何、何が起こって!」と叫ぶような声が響いていた。
「────」
「敗けません、敗けませんから!」
そんな彼らを尻目にキョウと田中は剣を打ち合っていた。
無論、状況への混乱はあった。
流れてくる情報は錯綜しており、状況は何一つ掴めない。
だが、そんなことは前と変わらない。
この世界にやってきてから、一度命を落としてから、“教会”に入ってから、何もわからないまま戦ってきた。
「とにかく! 敵を討てばいいんだろう」
吐き捨てるように言って、田中は『エリス』を振り払った。
甲高い金属音が響き渡り、弾かれたキョウは跳躍で距離を取っていた。
「なら!」
田中は苛立たし気に漏らす。
やはりキョウは一筋縄ではいかない相手だった。
神殿が、瓦礫が、空が震えている。
意味のわからない戦場だが、とにかくここは目の前の敵を討たなければならない。
田中は一瞬の思考ののち、キョウではなくクリスへと狙いを定めた。
戦場の変化についていけず呆けていた彼女は、田中の強襲に反応が遅れてしまっていた。
そして『エリス』を以てその首を刎ねようとして──
「邪魔だ! ハイネ!」
「言ったでしょう、彼女は僕の獲物だと」
それを阻んだのはハイネだった。
彼は『ピュアーネイル』でギリギリと『エリス』を押し合っている。
「トドメだけ渡せばいいのか? だったらそうしてやるから!」
叫ぶように言い返そうとすると、途端、空に変化があった。
巨大な閃光が地を貫き、爆音と共に神殿が崩壊していく。
神殿が密集していたこの一帯は連鎖的に崩落が進み、無数の瓦礫が降り注ぐ。
「きゃっ!」
「クリスさん、危ない!」
混乱する戦場の中、悲鳴が沸き起こる。
キョウは跳躍で何とか瓦礫を避けていたが、クリスの方が落ちる瓦礫の破片を受け、足が止まっていた。
そこにさらなる神殿の破片が、迸る幻想と共に彼女を襲う。
クリスの悲鳴が湧き起こり、
「──クソっ」
ハイネは田中との押し合いを無視して、その足の速さを活かして駆け抜けていた。
そして、ハイネはクリスを襲う破片を切り裂いていた。
「え」と彼女の口から困惑の声を漏れる。
──ハイネは、どう見てもクリスを守っていた。
その意図を、クリスもキョウも、もちろん田中も理解できていなかった。
「早く逃げて!」とハイネが叫ぶと、クリスははっとして跳躍を敢行し、その場から離れていた。
「僕たちも離脱しましょう。どうもこのエリアの幻想純度がおかしくなっているようです」
「あ、ああ、了解した」
崩れ行く神殿の中、戻ってきたハイネがそう告げた。
その口ぶりは何時もの冷静な彼である。しかし、先の行動の真意はやはり掴めなかった。
「──再会、だったんです」
壊れゆく戦場の中、ハイネは田中へと告げた。
「この戦場で、ようやく会えたのに。
妹に、たった一人の肉親にです!」
忘れられたんだ、とハイネは絞り出すように言った。
「僕のことを、彼女は忘れていた。会っても、僕が兄だと、お兄ちゃんだと認めてくれなかった。
だから──こうして守るしか、なかったんだ!」
ハイネ。
彼は何時からか、この聖女戦線での任務に固執するようになっていた。
もしかするとその意図は、そこにあったというのか。
その事実が何を意味するのかを察するより前に、戦場をさらなる光が包んでいた。
猛烈な碧の色彩が溢れだし、戦場すべてへとなだれ込んできた。
田中は成すすべもなく取り込まれ、幻想の渦へと叩き込まれていった。
◇
「ふふふ……楽しそうね」
戦場の片隅で、タイボは空を見上げていた。
ニケア。
エル・エリオスタ。
そして太母、ユウカ・グレートマザー。
思えばそう、自分たちがはじまりだった。
「最初に創られたのは、私たちだった。だから、終わらせるには全員が必要なのかもしれないけど……」
まだ終わらせない。
彼女は一人、虚空へと呟いた。
「ねぇ、貴方も行きたい?」
そして、ふと思い出したように、剣を構えるフュリアへと視線を向けた。
「ここでないどこか。誰もかれもが殺し合う、こんなクソみたいな現実を捨てて、違う場所に行こうと思わない?」
それはひどく穏やかな口調だった。
優しく、慈愛に満ちた言葉と共に、彼女は手を差し伸べた。