138_私だけのヒロイック
“観客のいない劇場で、その中心にて踊り狂う者は、果たして主役と言えると思うか……?”
初めて会った時、ヴィクトルはそう口にしていた。
あの時は意味がわからなかった。
フュリアは狂人の言葉だと切り捨て、マルガリーテもそれに同意していた。
そもそも、ヴィクトルに伝える気がなかったのだから、わからなかったのも当然だ。
でも、今ならわかる。
ヴィクトルにとって、観客とは誰だったのか。
そして、踊り狂う者とは、何を意味するのか。
荒れ狂う雪のなか、猫の影がぼうっと見えた。
猫に見下ろされるようにして、ヴィクトルは力なく倒れている。
「ヴィクトル。私、知っていますのよ」
そんな彼に対し、マルガリーテは口を開く。
今この時のために、自分は彼に話し続けた。無視されようとも、ともにいれば掴めてくる。
「貴方が、その猫がもう喋らないことを、ずっと前から知っていたことを」
その口調は、いつものように、謡うように、演じるように。
「その猫がただの異物でしかないこと。
聞こえる声は、己の願望に過ぎないこと。
自らが舞台の主役でないこと。
貴方は全部知っていた!
でもそれを、自分に嘘を吐き続けることで、支えてきたのですわ」
彼は自らの嘘をその力で貫き通してきた。
狂人のふるまいも、力があるから許された。
しかし、その嘘も限界が来てしまった。
「……なんか、うるさいよ。面倒だから、聞かなくていい?」
4《フィア》は、はぁ、と退屈そうに溜息をついていた。
そして『メルレピオン』を躊躇いもなくマルガリーテへと振り下ろそうとした。
その時にあって、マルガリーテは微笑みを浮かべていた。
「だって、貴方はその実、誰よりも現実的ですもの。
自らの嘘を貫くために、現実を納得させるための力を手に入れた。
生きるために、何が必要かをわかっている貴方が、気づかないはずないですのよ!」
微笑みと共にヴィクトルへと声をかけ続けた。
そして、
「……うるさい!」
彼の絶叫と共に刃が放たれた。
え、と4《フィア》は、眼を丸くして跳躍する。
倒れていた、ヴィクトルが“早撃ち”を放っていた。
雪が抉られ、幻想の世界に風穴があく。間一髪で攻撃を避けた4《フィア》は「あぶな」と漏らしていた。
「うるさいんだ」
しかし、マルガリーテにはわかっていた。
その剣撃の狙いは、敵である4《フィア》を狙ったものではなく、彼女自身であることを。
事実、彼女の肩は剣で抉られ、血が滲んでいる。
息荒く立ち上がったヴィクトルは、マルガリーテを見据え、その腕を向けていた。
「……私を殺さないですの?」
そんな彼に対し、マルガリーテはなおも言葉をかけることを止めなかった。
「今、わざと外しましたわね。貴方の腕ならば、たとえ雪があろうとも外す筈ないですもの」
言葉の代わりに、第二射がやってきた。
今度は足の近くをかすめる“早撃ち”であった。鋭い痛みがマルガリーテを貫いた。
「隣で見てきたから、わかりますわ」
「……俺は、カッコよくなければ、ならないんだ……サアのために」
ぶつぶつと呟き続ける彼に、マルガリーテは呼びかけた。
「貴方と話してるのは私ですわ! サアという方がではありませんわ」
「うるさい!」
「聞いてください! 貴方は、私の声が聞こえるのですから」
マルガリーテは言葉を止めない。止める訳にはいかない。
だって──キョウが見ているのだ。
たとえここにはいなくとも、あのぞっとする瞳が、“無血”のあり方を見ている。
だからこそ、マルガリーテも瞳を逸らさずにヴィクトルと相対する。
「貴方が望むのであれば、この私がなってさしあげましょう」
その時、視界の隅で灰色のカソックが揺らめくのがわかった。
「貴方の、貴方だけの観客に!」
『メルレピオン』の刃が眼の前に迫る。
跳躍で近づいてきた彼女は、今度こそマルガリーテを仕留める気らしかった。
「強く、カッコよく──貴方が貴方自身を肯定し続けることができるか、私が見ていますわ!」
その中にあって、マルガリーテは手を上げた。
4《フィア》にではない。ヴィクトル、今相対している人間へと。
「だから! 許しませんわ! 貴方が、こんな私という少女を見捨てるなんて! カッコ悪い真似をしたら──」
その言葉を言い切るより凶刃が雪の中を走った。
放たれた剣は肉をえぐり、濁った血が白い世界を汚していった。
「うぅ、痛ぁ」とうめき声がする。
背後よりの剣を受けた4《フィア》が、腕を抑えているのが見えた。
そしてその向こうに、コート揺らめくガンマンが立っている。
「──自らを演じ続ける少女よ」
そこで彼は初めて、明確にマルガリーテへ向けた言葉を口にした。
「お前の言葉はすべて演技であり、嘘であり、お前自身が信じていない、空疎なものだ」
「…………」
彼は目深に被った帽子の位置を整え、一歩だけ前へと進んだ。
「そう、勘違いしていた。お前の言葉は仮面だが、そうか、実のところすべて本心でもあったという訳か」
その言葉に、どういう訳かマルガリーテは頬を紅潮させていた。
帽子の奥から、彼はやはり、周りのことを見ていた。
そうだ。自分は演じ続けている。微笑みを張り付け、理想を語り続けてきた。
でも──だからといって、それが嘘であるものか。
「……この!」
思わぬ反撃を受けた4《フィア》が苛立たし気に跳躍を行った。
今度の狙いはヴィクトルであった。
しかし、彼女の攻撃を、彼は手負いでありながら、ゆらり、と交わし、
「──であれば、少女よ。その言葉もまた虚構であり、同時に真なるものか」
不可視の剣にて、4《フィア》を弾き飛ばしていた。
視線は、マルガリーテへ向けたまま。
「戦士ヴィクトル!」
「ああ、わかっている。殺しはしない。それが観客の要望であるなら、この剣を持って従おう」
ゆっくりと彼はマルガリーテへと近づき、そして手を差し伸べた。
マルガリーテはその手を取り、彼の隣に立ち上がった。
変わらぬ空疎な微笑みを張り付けつつも、頬が紅潮するのを自覚していた。
「……異端審問官、あなた方の陽動作戦は失敗に終わりました。ここはひいてください」
そう告げると、同じく立ち上がった4《フィア》は顔を歪ませた。
その片腕はだらりと垂れている。ヴィクトルの一撃は殺しはせずとも、確かな痛みを与えたようだった。
「──そうだ、4《フィア》。そこはその隊長さんに従っておきなさい」
ダッ、と紅い影はやってきた。
「……でも」
「私は上官だよ。言うことを聞くように」
彼女は4《フィア》を守るように立ち、どこか砕けた口調で言った。
言われた4《フィア》は項垂れ「はい」と小さな声で漏らしていた。
そして紅い異端審問官は、マルガリーテたちを見据えながら、
「ここは退くわ。といっても、もう作戦は進んでいるけど」
「……ええ」
マルガリーテを強襲している間、キョウやクリスたちに攻撃が加えられていないなどと、楽観的なことは思えなかった。
だからまだ戦いは続いている。4《フィア》たちを退けたとしても、だ。
「……もう私のことはいいのかい?」
異端審問官は退き際、ヴィクトルへ向けて問いかけた。
そこに駆け引きの色は感じられず、純然たる興味、という風だった。
それまであれだけ昂ぶりを見せていたヴィクトルは、しかし静かに、
「元々どうでもよかったんだ。ただ俺はそれでも、敵が必要だった。でも、もう必要ない。敵はいなくとも、物語は続くのだからな」
「そ、じゃあ、お幸せに」
紅い異端審問官は、軽く手を振って、4《フィア》と共に跳躍。
次に風が吹く頃には、彼女たちの姿はもう見えなくなっていた。
ヴィクトルは無言で懐から拳銃を取り出した。
物語の模造品に過ぎない、何の意味もない引き金を引いた。
よく通る銃声が戦場に響き渡り、どこまでも広がっていった。
まるでそれは、銃と硝煙の物語の始まりのようでもあり……