106_海
海をずっと歩いていくと、何時か、この世界の“果て”にまで辿り着くのだという。
“果て”に行きついたとき、人はその役割を終え、還るべきところに還る。
そう、どこかの物語が言っていた気がする。
「……なんで、今まで姿を見せてくれなかったの?」
ぴちゃ、ぴちゃ、とゆっくりと足を進めながら、隣に寄り添うように佇む竜のアランへと問いかけた。
「私、てっきり貴方のこと、自分で創った妄想だと思ってた」
……竜のアランの声が聞こえたのは、何時だっただろうか。
今から五・六年前、商人からまた別の商人へ、囲われるように身を移した時だったと思う。
一人ぼっちで、物語を読んでいたときに、不意にこの声は聞こえるようになったのだ。
寂しい時には彼の声が聞こえた。
トリエは、どうやらそれが自分にしか聞こえないものだと気づきながら、共に過ごしてきた。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
トリエが頬を膨らませて言うと、アランは変わらず意地悪な口調で、
「見せなかったのではない。見せられなかったのだ」
「え?」
「知っての通り、竜は既に滅んだ存在だ。
特に我のような存在していたのか、いなかったのか、
曖昧な個体は物質的なカタチを保つことは難しい。
それこそ、海のような、濃い幻想に満ち溢れた場所でもない限りな」
「ああ、だから貴方、海に行きたがってたの……」
トリエは合点が行ったように頷いた。
竜のアランが妙に海に行きたがってた理由。
それはただ──トリエとこうして会うためだったのだ。
「ふふふ、まぁ、それも相当に無理をしてのことだがな。
事実、我の身は既に霧散しつつある。調子に乗って神話時代の力を使うからだな」
トリエはそう言うアランの身体を見上げた。
アランの身体は白銀の身体は、どこか透き通っていて、白銀に夜空の色彩が混ざっていた。
その姿を見て、トリエはしばし口を噤んだのち、そっとのその身に触れた。
白銀の身体は、予想に反して柔らかかった。
そこに固い鱗はなく、雲をつかむようなふわふわとした奇妙な感触がそこにあった。
「やっと、触れ合えたな」
「変態さん。私に触ってほしかったのね」
「む、違うぞ。我は」
「いいの、私も、貴方に触れたかったから」
「…………」
「今まで、一緒にいてくれたんだものね」
そう言いながら、トリエとアランは足を進めていく。
トリエは小柄な身体に、もう一人少女を背負っているのだから、どうしてもその足取りはゆっくりとしたものになる。
だが、それでよかった。
今はこうして、夜空の中、こうして歩き続けることの価値を噛みしめていたかった。
「ねぇ」
「なんだ?」
「なんで私なんかに、ずっとついて回ってたの?
カタチが喪われていても、貴方、おとぎ話の竜なんでしょ?」
「ふふふ……おとぎ話に出れるほど、高尚な竜でもない」
竜のアランは「そうだな」と小さく繋いで、
「実はな、これは再会でもあったのだよ?」
「再会?」
「ああ、お前はもう忘れているだろうが、我はお前にまた会いたかった。それだけだ」
トリエは背負っている少女のことを想った。
「……違うよ。私は、その聖女とは」
それはきっと自分以外の誰かだ。
たとえ姿かたちが似ているとしても、その身に宿した奇蹟が同じだったとしても、同じにはなれないし、なりたくもなかった。
そう伝えると、アランは頷いて、
「そうだな、我の知るあ奴は、もっと気高く、超然としていた」
「……がっかりした?」
「驚きはした」
「その人の方がよかった?」
「ふっ……どうだろうな」
「…………」
「前に会った聖女──七番目とか名乗っていたか──に我は命を与えられた。
存在として己を確立できず、架空の海に溶けようとした我に、あ奴に名を与えたのだ」
「それが、アランなのね」
「いいや、違うぞ」
「え?」
「その時に着けられた名前は、別のものだ。
もっと厳かで、重みのある響きを持った、格式ある名前だったのだぞ。
だが、それを伝えたところで、幼い日のお前は覚えることができなかった」
「あーまぁ、私、物質言語以外はからきしだったし」
「だから仕方なく、発音しやすい名を教えてたのだ」
「それが、アラン?」
「そうだ。だから、この名はお主のものだよ、トリエ」
そう言われて、トリエは顔を俯かせた。
荒野は既に砂浜に変わっている。薄い水面が延々と続く、海の入り口だった。
それを見ながら、トリエは、どういう訳か己の身が熱くなっていることに気づいた。
「変なの」
「ん?」
「だって私、貴方がもう一度会いたいと思った聖女様じゃなかったんだよ?
なのに、なんで私とずっといたの?」
「そうさな……何故だろうな」
「はぐらかさないでよ」
最後なんだから、とトリエは口を尖らせて言った。
「ふむ、わからぬ。正直最初は失望もしたのだが……」
「だが?」
「他に居場所もなくてな。それに竜の時間の流れはお前たちと比べて早い。
どうしたものかと思っているうちに、ここまで来てしまった」
「……それでよかったの?」
「よかったさ。善きものであるに、決まっている」
その言葉には確信の響きがあった。
裏も表もない。一切の迷いを感じさせない言葉に、トリエは小さくうなずいた。
その時、背中から「うん……」という声が聞こえた。
5《シュンフ》。
そう名乗り、呼ばれていた彼女を、トリエはあの場所に置いていくことができなかった。
抱きかかえられてばかりだった彼女を、今度はトリエが背負っているのだから不思議なものだ。
ただ歩くたびに、彼女の身は軽くなっていくように感じる。
非力なトリエの身で、簡単に背負えるほどに。
きっともう──
「……姉、さん」
耳元で、彼女は囁いた。
「あたし、ね。姉さんのこと、嫌いだったの」
「うん」
「飛べないのに、みんなから好かれて、愛されている姉さんが、実はずっと嫌いだった」
それはきっと、誰に向けた言葉でもないだろう。
彼女にはもう何も見えてない。既に濃い幻想の中、そのカタチを喪おうとしている。
「だから、あの時も、たぶん捕まったんじゃないの。
自分から、ちょっと嫌がらせしようかなとか思って、外の人たちに会いにいった」
「うん」
「でも、そしたら、そしたら……あんなことになった」
炎の日。
彼女がたびたび口にしていた言葉。
そして彼女が語った最後の物語と、実際に現実の間にあった差異。
それはきっと、彼女が生きていくにあたって、吐かなくてはいけなかった嘘であり、創らなくてはならなかった物語なのだ。
「それをずっと謝りたくて……でもできなくて、だから……せめて、また会いたくて……」
妹のアルノは、決してお姉さんが大好きではなかった。
だけどきっと──それは、憎しみとか妬みとか、そういうどうしようもないものでもなかった。
決着をつけられないまま残った想いと、必死に戦いながら、彼女は生きてきたのだろう。
「……ごめんなさい、姉さん」
だけど、そんな終わることのできない想いも、ここで最後になる。
彼女の身体はみるみるうちに軽くなっていく。
幻想に包まれ、きらめきと共に、その身は溶けている。
「私は、貴方のお姉さんじゃないよ。それは、貴方の物語での話」
それを聞いた、トリエは別れの言葉を告げた。
「でも、私、貴方のこと、好きだった。
ありがとう──物語を読んでくれて」
そして名前を呼ぶ。「アルノさん」と。
かつてどこかの姉が呼んだように「アルノ」と気さくに呼ぶことはできない。
ただ5《シュンフ》という、仮面の名よりは、近い感じで呼びたかった。
だから、トリエはそう呼ぶことにした。
「────」
返事はなかった。
もう一度呼ぶ。「アルノさん」と。
やはり何も返ってこない。
気になって振り返った時、彼女の身体はもう消えていた。
「……行こっか」
そうして二人になったトリエと竜のアランは、またゆっくりと歩き出すことにした。
海岸は月光を受け、砂が細やかな明滅を見せていた。
そのきらめきが延々と続き、はるかな彼方の水平線を越えると、星へと姿を変える。
二つの大きな月が輝く夜の空。
濃紺の陰が優しく広がる中、無数の光たちが響き合っている。
ぴちゃ、ぴちゃ、と音がする。
それはトリエが歩みを進めている証だった。
「私ね、アルノさんなら、殺されてもいいって思ったんだ」
時折ふく生暖かい風が、髪を撫でていく。
幻想交じりのそれを受け、髪が少しざらざらした。
「それか7《ジーベン》さんでもよかった。
あの人たちのことを、私は知っている。
どこかの誰かの物語じゃない。
確かに過ごした、本当に私が手に入れた日々として」
僅かな時間ではあったけど、それでもあの三人と竜一匹での生活は、トリエにとって大切な思い出だった。
7《ジーベン》が嘘を吐いて始まった。
5《シュンフ》が妹のアルノの物語を隠したから、続いた。
トリエだって、竜のアランのことは、誰にも言わなかった。
思えば、何もかもが嘘だらけだった。
でもそんな日々が、どうしてか、今まで一番大切に思えたのだ。
「ねぇ、だから、私は厭なの」
ふとそこで、トリエは振り返った。
そこには、初めて会う誰かがいた。
黒い髪をした、灰色のカソックを見にまとった青年だった。
彼は何か思いつめた表情で、その剣をトリエへと向けていた。
急いでここまで折ってきたのか、息を切らしている。
「……8《アハト》っていう人?」
彼は答えなかった。
何も言わず、何も聞こうともせず、彼はトリエへと近づいてくる。
トリエを、終わらせるために。
「ロイ田中だ」
尋ねると、彼はそう名乗った。
ロイ田中。
その名を聞くと、トリエはどこかひどく懐かしい心地がした。
昔、本当に昔の話だ。
何度も読んだ絵本の一節のような、記憶の片隅に残っているもの。
「そう、でも、私は貴方のこと、知らないわ」
トリエはその感覚を噛みしめつつ、言った。
「私は貴方の知る誰かじゃない」
「……そうだ。お前は弥生じゃない」
「うん、私はヤヨイって人じゃない」
トリエ。
彼女はそう名乗った。
少しだけ、悲しそうな声になってしまった。
「貴方には、貴方なりの物語があったのかもしれない」
「…………」
「でも、私には、私の物語があって、現実があった。
だから、ここで貴方に殺されるのだけは厭」
聖女。
自らに刻まれた奇蹟。
“転生”によって受け継がれたという言語。
そんなもののために、すべてを決められるのなんて、厭だった。
トリエはそっと隣に立つ竜に触れる。
白銀の竜はすでに、その身を消え去ろうとしていた。
儚く明滅するその身は、果たして目の前の彼に見えているのか、いないのか。
7《ジーベン》がいた。5《シュンフ》、妹のアルノがいた。
竜のアランもまた、ここにいる。
トリエは彼らのことを知っている。
だからもう、ただの四番目の聖女として、彼に殺されたくはないのだった。
「じゃあね、私の知らない誰か」
そう言って、トリエはずっと隣にいてくれた竜を見上げた。
竜もまた、トリエを見下ろした。
「ねぇ、アラン。私、うれしかった。貴方が本当にいてくれて」
「……我もだ。こうして出会うことが、できて……」
二人はそう言葉を交わした。
田中がはっとして剣を構えるのが見えた。
だけどもう遅い──竜はその身を輝きに変えてトリエを抱いた。
白銀の光は、竜の最後の力すべてだった。
きらめきと共に、竜は翼となりトリエを“果て”へと誘おうとする。
──アラン
そのさなか、トリエが竜の名を呼ぶのが、海に響き渡った。
そして少女と竜は飛び去っていく。はるかかなた、すべてが還る場所へ。
──ああ、ありがとう
最後に残されたのは、どこかの物語と同じ言葉。
けれどもそれは、確かな現実の想いでもあった。
その“終わり”を目の前に、残されてしまった田中はなすすべもなく、膝をついた。
◇
そこで任務は終了した。
帰還した田中らの報告と、事後の調査により5《シュンフ》の裏切りが発覚。
7《ジーベン》もまたそれが原因で命を落としたとされた。
近辺の反“教会”勢力自体は殲滅できたものの、
第四聖女は討伐できず、“果て”へと回帰した。
任務は──失敗だった。
海編? 第四聖女編? はここで終わりです。
次回の第一聖女編は7月末ぐらいから始めたいと思います。
(一応これで折り返しになりますので、
合間に何か小話か設定まとめ的なの挟むかもしれませんが)