104_炎④
無理やり再稼働させた“竜もどき”はやはりうまく飛ぶことはできなかった。
言語機関は悲鳴のような音を立てている。
翼はうまくカタチを保てないのか、滅茶苦茶な色彩で明滅していた。
それ故高度は維持できず、速度こそ無理やり出しているものの、上下左右に揺れる気持ちの悪い軌道となっていた。
さらに背後からは騎士団による砲撃が続ている。
炸裂する炎が“竜もどき”の付近で炸裂し、そのたびにトリエは声を上げた。
「ふふ……まぁ、怒るよね。あたしがまた裏切ったんだから」
その中にあって、操縦席に座る5《シュンフ》はひどく上機嫌な様子だった。
「ホントは騎士団に貴方を引き渡して、それであたしもついていくはずだった。
でも、それもヤになった。
姉さんだって、アイツらに引き渡されるのは厭でしょう?」
上ずった声で独白とも問いかけともつかぬ言葉を口にしている。
時折鼻歌でも歌いそうなほどだった。
そんな彼女にトリエは何も言ってあげることができなかった。
言うべき言葉が、自分にしか言ってあげられない言葉がある筈なのに、それが出てこない。
「…………」
竜のアランは──やっぱり何ももう言ってこなかった。
何時しかずっと聞こえるようになっていたあの声は、もう戻ってこないのかもしれなかった。
その時、ドン、と近くで砲撃が炸裂する音がした。
“竜もどき”が大きく揺れ、翼のカタチが崩壊していくのが見えた。
「あは、堕ちる」と5《シュンフ》の声が聞こえた。
それと同時にトリエは縮こまった。
「……『ヴァラディオン』」
5《シュンフ》が呟くと、半分開いた扉より弾けた剣が飛んでいく。
そうして剣身が“竜もどき”を支えるような盾を形成し、墜落の衝撃を一瞬弱めた。
その甲斐あって──“竜もどき”が爆発するということだけはなかった。
装甲がひしゃげ、車体が轟音を立てて裂けていく。
トリエは思わず目を瞑っていた──そしてその間に腕を引かれ、ダ、と音と共に跳んでいた。
次に目を見開いたとき、トリエは海の浅瀬に足をつけていた。
5《シュンフ》がその手を強くぎゅっと握っている。
跳躍によって外に出たのだ。
振り返れば海の中にあって燃え盛る“竜もどき”とその向こうから見えてくる極刑騎士団の大軍がいた。
「……海、ついたよ」
当の5《シュンフ》は、近づいてくる敵はすべて無視していた。
その傷だらけの顔は、泣いているのか、笑っているのか、どちらともとれる奇妙な表情を浮かべている。
瞳をトリエへとじっと見据えている。
ああ、やっぱり背丈は思ったよりも変わらないんだな、とトリエは思い、その視線を受け止めた。
「ここで、終わらせてもいい?」
そういって5《シュンフ》は目を細めた。
そこでトリエはしばらく迷ったのち、
「……5《シュンフ》さん」
「アルノ、でいいよ」
トリエは首を振る。その呼び方だけは厭だった。
トリエは、彼女の姉ではない。
だから今こうして話しかけるのは、彼女が最後に呼んでくれた物語の“妹のアルノ”という登場人物を呼ぶ心地だった。
あれはきっと、彼女が生きてきた物語。
だけどそれは、トリエが生きてきた現実ではないのだ。
だから、呼んであげることはできない。
かつて姉のノーマが、妹を呼んであげたように、その名を口にすることは耐えられなかった。
だから代わりに、ずっと気になってたことを尋ねた。
「さっきの物語の最期はどうなるの?」
「え?」
「大神樹に、聖女を憎む人たちを招いてしまった妹のアルノは、最後にどうなったの?」
そう尋ねると、彼女は目を見開いていた。
しかしおもむろにトリエの手を掴んでいた掌を緩め、今度は首へと伸ばしていった。
砲撃の音があちこちから聞こえる。
海の中に炎が上がり、その明かりが暗くなり始めた空を不格好に照らしている。
すぐに二人の下へ炎はやってくるだろう。
しかしそんなもの、もはやどうでもよかった。
「全部、燃えたの」
トリエには、彼女の声だけが強くはっきりと聞こえていた。
「──炎の日が始まった。
大神樹には炎が上り、母さんも父さんも、産まれてこの方ずっと遊んできた人たちも、外の人も、全員燃えた。
巻き込まれて、燃えて、死んでいった。
あたしが、あたしは全員を助けようとして、でも今さらどうしようもなくって」
そう彼女が叫びを上げるのと同時に、その手に力が込められていく。
トリエは「う、うぅ」と苦悶の声を漏らす。視界が歪み、強烈な吐き気が胸から溢れ出てくる。
「せめて姉さんだけでも──と思って」
かすむ意識の中、彼女の声だけが激しく響き渡る。
「あたしは姉さんだけでも……殺そうと思った」
「────」
「この手で、全部全部終わらせてしまおうと思った。
もし姉さんが生き残ってしまったら、これ以上最悪なことはないと思ったから」
「────」
「そう! だからあの時、1《アイン》に拾われた時も、迷わず異端審問官になるって! そう言ったの」
その時彼女は、はっきりと瞼に涙を浮かべていた。
「あたしは姉さんを殺し続ける。
どれだけ“転生”しようとも、どれだけ姿かたちを変えようとも、あたしは姉さんを見つける!
それで! 殺し続ける。殺して、殺して、そのたびに再会して、また殺すの。
だから、これで終わりになんてさせない!
8《アハト》なんて! この世界の端役なんかに、勝手に終わりになんてさせたくないの!」
ああ、トリエは思う。
きっとそれが──彼女が“教会”を裏切った理由なのだと。
彼女の目的は聖女を消し去ることではなかった。
聖女を殺し続けること。
それこそが唯一無二の物語であり、彼女自身が生きる理由となっていた。
だから8《アハト》やヴィクトルがトリエに追いつくことだけは、阻止しようとしたのだ。
「あの時──!」
そして今、彼女はトリエを殺そうとしている。
彼女に殺されれば、またトリエはどこかに“転生”をするだろう。
そうして生まれ変わった先で、また彼女に殺されるのだろうか。
それも──悪くないかもしれない。
不思議と穏やかな想いがトリエの中で産まれていた。
「あ」
しかし同時に炎が無慈悲にやってきた。
近づいてきた騎士団が幻想による砲撃を敢行し、ついにそれがこちらを捕らえた。
もはや彼らのことを意識してすらいなかったトリエたちは、避けることなど当然できない。
爆音がトリエと彼女を包み込む。
痛みと熱が身体中をかけめぐる。
しかし──まだそれでも終わりではなかった。
「……ぁ」
彼女の『ヴァラディオン』が炎を受け止めていた。
即席で展開した盾がトリエたちを包み込んでいた。
だがそれすらも炎は貫通していた。
にも関わらず、トリエには来る痛みは存在しなかった。
「──5《シュンフ》さん!」
思わずトリエは叫びを上げていた。
5《シュンフ》、あるいはアルノと呼ばれた少女は、首を絞める手を止め、代わりにトリエを守るように抱きかかえていた。
結果としてその炎をすべて全身に受け止めている。
灰色のカソックは焼け落ち、その向こうから──痛々しい傷が見えていた。
それは彼女のもがれた翼だった。赤黒く変色したその背中に、翼人としての面影がわずかに残っていた。
「違う」
その時、彼女は苦痛に耐えるように顔をゆがめていた。
「違う──あたし、ホントはあの時、殺そうとしたんじゃなくて」
彼女は言った。
「謝りたかったんだ」と。
「でももうできないから、だから──嘘を吐いて」
彼女の口から言葉にならない言葉がこぼれている。
その手から『ヴァラディオン』が滑り落ち、ぼちゃん、と水面に墜ちた。
明らかな、致命傷であった。
ダ、と音する。
赤と白の甲冑に包んだ騎士団の偽剣使いたちだった。
トリエらを取り囲むようにして、彼らはその剣を握りしめていた。
きっと、彼らが戦うのもまた、トリエのためなのだろう。
“正義”だか何かわからないが、彼らの戦う意志、生きる理由をトリエは与えているのだという。
きっと5《シュンフ》にしたところで、それは一緒だった。
──でも。
やはり、決定的に違うものがあると、トリエは感じていた。
もしかすると5《シュンフ》も、騎士団も、あるいはヴィクトルも、本質的には同じかもしれない。
彼らにも彼らなりの物語があって、その胸に抱いた強い意志でトリエを求めていた。
「でも……やっぱり違うよ」
トリエは、5《シュンフ》の身体を抱きすくめながら言う。
こうしていると、本当に華奢で、細くて、傷だらけの身体だと思う。
「あたしはこの現実で、この人と触れ合った。
わかりにくいけど優しいところがあるのも、意外と無防備なところも、ぞっとするほど冷たいところがあるのも、全部、身をもって知ってる。
だから、アルノさんに殺されるのは、ありかなって、そうは思った」
トリエは首を振って、
「でも、ここで貴方たちに殺されるのは厭なの! それだけは諦めたくない!」
そして声を上げた。
「私は、生きたいの!」
もうすぐ終わるものなのだとしても、きっとそこには大きな意味がある。
だからこそ、トリエはその時、初めてその言葉を迷わず口にできた。
「それでこそ、我がすべてを賭けるに足る言葉だ」
──その瞬間、声が響き渡った。
騎士団たちが顔を上げる。
そのしわがれた声は、今の今まで聞こえなかったものだった。
その姿を見て、驚いたのはトリエだった。
だって竜の声が聞こえていたのは今まで──
「この“果て”に近い海でならば、我は姿を現すことができる! たとえすぐに消え去るものだとしても」
雄々しく響き渡る声に後押しされるように、それは輪郭を得た。カタチを得た。名前を得た。
数百年の時を超え、白銀の翼が今ここに顕現する。
「行くぞ! 小さな聖女トリエよ」
白き竜、アランがはっきりと現実のものとして、その姿を見せていた。
その顔は、トリエが想像していたよりもずっと愛嬌があるものだった。