101_炎①
それからしばらくして、ゆっくりと“竜もどき”は高度を下げていく。
その疑似的な翼が、淡く、その姿を散らしていくのが見えた。
搭載された言語機関も相当無理をしていたみたいだし、一度降り立ってしまえば、もう飛び立つことはないと考えた方がいいかもしれない。
「…………」
そのさなか、誰も口を開かなかった。
5《シュンフ》はあれっきり口をつぐみ、7《ジーベン》は神妙な面持ちでその背中を見据えている。
トリエは胸に溢れる不穏な感情を押しとどめるように、口元を手で押さえていた。
そして、竜のアランもまた何も言ってこない。
せっかく海に近くまではいけるようになったというのに、いつもはうるさいほど聞こえてくるあの声は、今は聞こえなかった。
──当然でしょ。
トリエは思う。
──竜なんて、本当はもういないんだから。物語の中以外には……
そう、諦観に満ちた想いで、窓の外を見る。
地面が近づいてきた。
荒れ果てた土地に、うっすらと鏡のようなきらめきが見えた。
目を凝らすと、それは水なのだった。どこからか流れてきた水が、浅い水面を作っている。
そして、ガクン、と音がして、“竜もどき”は盛大に地面を降り立った。
泥を巻き上げ降り立つさ様はいささか乱暴だったが、しかし無事に彼らは辿り着いた。
同時に“竜もどき”の扉が開く。流れ込んでくる湿った風にトリエは顔をしかめた。
「……あなたはまだそこにいてください」
7《ジーベン》が耳元で囁き、外へと降りていった。
すでに5《シュンフ》は外に出ていた。仮面を被りなおし、その手には剣が握られている。
「5《シュンフ》、その『ヴァラディオン』大丈夫ですか?」
「正直、整備してないから、危ないところもあるんだけどさ。
印を打ち上げるくらいなら、問題ないよ」
二人の会話が漏れ聞こえてくる。
ここで他の1《アイン》と8《アハト》という、異端審問官の仲間たちと合流するようだった。
それはつまり、ここで自分は殺されるということ。
風にはわずかに潮が混じっているように感じられた。
きっと5《シュンフ》が約束を守ってくれたのだろう。
「じゃあ、行くよ。あたしがとりあえずぶちあげるから」
「……お願いします」
おもむろに5《シュンフ》は手に持った偽剣『ヴァラディオン』を掲げた。
ぼう、とまばゆい光が剣身に宿っていく。
一帯を舞う幻想を収束させ、そして撃ち上げた。
どん、と乾いた音がして、まばゆい閃光が空に広がっていく。
暗くなり始めた夜空を跳ね除ける、圧倒的な光量を見て「きれい」とトリエは声を漏らした。
「威力も何もない、とにかく派手な一撃。探知魔術を使えば、まず間違いなくこちらに気づくでしょうね」
「ええ」
「あのヴィクトルという男も来るかもしれません」
「それは、さっき話したでしょう」
「ええ、問題ない。あとは待つだけです」
そうして会話は途切れたようだった。
そのまま静寂が訪れた。トリエはもしかするとこれが、人生で最後に身を置く静かな時間かもしれないと、そう思うのだった。
その間にも、打ち上げられた光は続いていた。
「……正直なところを言います。私は貴方を疑っていた」
ふと7《ジーベン》の方が口を開いたのがわかった。
「へぇ?」
「貴方は情緒不安定なきらいがあった。
今回の任務だけの話じゃありません。
焼け落ちた大神樹で1《アイン》に拾われて以来、貴方は不安定な偽剣使いとして、常に注意しろという勧告を受けていたのですよ」
「……まあ、間違いじゃないよ」
トリエは思わず己の首に手を伸ばす。
初めて会った時、彼女はトリエを殺そうとした。この首を、あの傷だらけの身体で絞殺そうとした。
「そしてここのところ、奇妙な動きがあった。
1《アイン》や8《アハト》の到着を間際にして、自由軍と騎士団の抗争が激化したことは、さすがに見逃せませんでした」
「それがあたしのせいだって?」
「ええ、正直なところ、そう思っていました。
だから機関車内で、あえて貴方を聖女と二人にしました。
次に聖女も連れて、貴方を一人だけにもしました」
その言葉にトリエははっとする。
7《ジーベン》は言っていた“お金がない”という発言。
今思うと、あれは奇妙な話だった。
7《ジーベン》という男は、生活においても、仕事においても、抜け目なくこなす人間だった。
そんな彼が、ケアレスなミスをしでかすだろうか?
そして途中、奇妙な形で彼はトリエを外に連れ出した。
あれはトリエに何か思惑があったのではない。
5《シュンフ》の方を、7《ジーベン》は疑っていたのだ。
「……ふうん、アレ、嘘だったんだ」
「ええ、予算はまだ懐に残ってますよ、たんまりと」
「疑われて、それであたしの判決は? 審問官さん」
問われた7《ジーベン》は無言で鞘より剣を抜いた。
パンを切っていた短剣を、あっさりと鋭い長剣へと変形させ、まっすぐに5《シュンフ》へと向けた。
「あのヴィクトルという男に聞いたんです。
貴方と繋がっているのではないか? と」
「……ふうん」
「貴方を一人にした、そのすぐに彼は襲ってきた。そのことに何か意味がある可能性は高かった」
打ち上げられた光は徐々に暗くなっていく。
このままではまた、すぐに夜がやってくるだろう。
「しかし」
そんな中、7《ジーベン》は言った。
「しかし、あの狂人は否定した。
というか意味がわからない感じでした」
言って彼はゆっくりと剣を下げていった。
口調からは硬質的なものが抜け落ち、徐々にいつもの紳士然としたものになっていく。
「それを見て、私の杞憂だと察しました。申し訳ございません、5《シュンフ》。
かつて第四聖女の妹であった貴方は監視しておけ、と10《ツェーン》から厳命されていまして」
「ふふ……10《ツェーン》なら言いそう」
5《シュンフ》もまた仮面越しに笑った。
張り詰めた緊張が緩んでいくのがトリエにも感じられた。
「真面目だよ、7《ジーベン》は。わざわざそんなことを言うなんて」
「私なりの、折合いのつけ方です」
「……それで、10《ツェーン》はやっぱり有能だ」
そう言いながら、5《シュンフ》は仮面を外した。
生々しい火傷の痕が露出する。
仮面の向こうに見えたその顔は、しかし、まったく笑ってなどいなかった。
「あたしが──裏切ってるの、わかってるんだから」
そう口にした瞬間、彼女は『ヴァラディオン』を振り上げていた。
7《ジーベン》の血が舞った。
同時にどこからか幻想の砲撃が炸裂する。
閃光が地面を抉り取り、“竜もどき”の身体を揺らした。
「あは」
幻想が炎となり、あたり一帯に広がっていく中、彼女はそこでやっと笑ってみせた。
「あは、あはは」と、遠いどこかを見つめるようにして──
「真面目過ぎだよ、7《ジーベン》」
空中に舞う幻想が燃えている。
砲撃された光が炎となって広がり、熱気が風となって吹き荒れている。
その中心にあって、5《シュンフ》は7《ジーベン》を見下ろしていた。
不意の一撃でその身を袈裟懸けにされた7《ジーベン》は、苦痛に耐える表情を浮かべいる。うまく立ち上がることができないようだった。
トリエは何が起こったのかわからなかった。
ただ“竜もどき”の中で、縮こまることしかできない。
「──5《シュンフ》!」
「あたしのこと、信じようとしてくれたのは、正直嬉しい。
でも、そんなあなたを裏切るのは、思ったよりも簡単だった」
ぼそぼそと彼女は語っていた。
そこでちら、と背後を一瞥する。
そこには砲撃の主が現れていた。
赤と白を基調とした甲冑を見にまとった偽剣隊だった。
突如として現れた彼らの姿に、トリエは見覚えがあった。
「極刑騎士団……」
あの時計塔の街で、トリエを捉えようとした勢力の一派だ。
自由軍はヴィクトルによる追撃があったが、騎士団の方は何もなかったが、まさかこんな形で再会することになるとは。
「隠蔽魔術で行軍など……!」
「うん、大まかな位置だけ教えて、あと印を打てばやってくることになってた。
大体の場所を知ってるんだから、そりゃ1《アイン》たちよりも早く着くよね」
騎士団たちがやってくるのを尻目に、5《シュンフ》は血に濡れた『ヴァラディオン』を7《ジーベン》へと向けた。
幻想をまとい燐光を放つ刃を、彼女は迷うことなく振り上げ、
「くっ……! まだ」
その直前、7《ジーベン》はその手に持っていた『可変式フーブゥ』を変形させていた。
刃が円を描いて薄く広がっていき、瞬間的にそれは盾となった。
予想外の変形に5《シュンフ》が目を見開く。
その間隙を縫って、7《ジーベン》は盾を傘のような形状へと変え、地面へと押し付けた。
だん、と音がして土煙が舞い上がる。
「脱出装置か」と5《シュンフ》が声を漏らす。
そうして煙が消える頃には、7《ジーベン》の姿は消え去っていた。
「……いや、いいよ。あたしの方が、もう早い」
彼女はため息を吐き、そしておもむろにトリエの方を見た。
「海に、行きたいんだっけ」
トリエは彼女の顔から、目を離すことができない。
翼のない姉のノーマと、翼を焼かれた妹のアルノ。
彼女が語った最後の物語。その意味はきっと──彼女がここに来た理由。
聖女を殺す理由。
「行こう、連れて行ってあげる。“教会”にも、自由軍にも、騎士団にも、姉さんは誰にも渡さないから」
“竜もどき”に乗り込みつつ、彼女は言った。
それは、彼女が呼び寄せたはずの騎士団すら跳ね除ける言葉であった。
彼女はトリエを一人で連れ去ってしまおうというのだった。
「あたしが──するんだ。これまでも、これからも、ずっとずっと」