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虚構転生//  作者: ゼップ
聖女エリスとさかしまの城
1/243

01_現実

アーディエイジ12世紀。

永遠に続くかと思われたクーゼル王朝が、ついに滅亡した後の時代です。


それはもう、最悪の時代でした。


四季女神の下に統一されていた国家は内紛の果てに分裂を繰り返し、人も土地もあらゆるものが荒れる一方。

親が子を喰らい、子が親を殺そうとする。僧侶が女神の名を掲げて罪なき者を悪辣に騙す。

そんな、時代でした。


ですがそんな時代に彼女たちは降臨なされたのです。

かつて“冬”の国と呼ばれた大地にて、少女たちは奇蹟を授かりました。


ある者は、生まれたばかりの赤ん坊の頃から高度な魔術言語を身に着けました。

ある者は、この世界では当に喪われた神話時代の力を身に覚醒しました。

ある者は、今まで誰も見たことがないような超常技術を世にもたらしました。

ある者は、この世の未来をすべてピタリと預言してみました。


悪魔の時代に降臨した少女たちは、聖女と呼ばれ

各地で救世の女神の再臨としてあがめ奉られました。

この世界の唯一の希望として。


ですが、一つだけ奇妙な点がありました。

世に現れた聖女たちの出自は、貴族の流れを汲む者、武家の娘、妖精に浚われた者……などなど全くのバラバラでした。

血縁関係などあるはずもありません。


にも関わらず、どの聖女もその顔つきがとてもとてもよく似ていたのです。

まるで同じ人物かのように……









「――というのが冒頭なんだけど」


桜見弥生はどこか緊張した様子で語る。

見れば彼女の目元には少し隈が滲んでいる。昨晩はあまり寝ていないのかもしれなかった。


「どうかな? 結構世界観考えこんだんだ」

「ふむん」


渡された原稿をぱらぱらと読みながら、ロイ田中は声を漏らした。


病室には二人以外の誰もいなかった。

締め切られた個室にて田中と弥生は話している。

ぼんやりとした光に照らされるクリーム色の壁。自販機で買った紙コップのコーヒーはすっかり冷めてしまったようだ。

窓の向こうではどんよりとした曇天の空が広がり、その下ではコクーンタワーなど新宿の雑多なビルが見る。

病室を舞台とした、いつもの光景だった。


「……どう?」


しばらくして弥生が再び聞いてきた。

病院のベッドの上で、上半身を起こす形でこちらを見上げる瞳には、熱っぽい期待が込められていた。

田中はそんな視線を受けつつも、あっさりと言う。


「ちょっと不親切な気がするな、こいつは」


すると弥生は神妙な顔を浮かべて腕組みをして、「むむ」と声を漏らした。


「こう、最初にだだッと世界観説明があって、次に出てくる女の子も世界のことを語ってくれるが、どうにもこうにも抽象的だ」

「なるほどね……わかりづらかったかな?」

「ううん、それなんだけどな」


田中は戸惑ったその黒い髪をかき分けながら、言葉を選ぶ。


「困ったことに、俺にはだいたいわかるんだ」

「え?」

「ほら、だってこれ、今までの弥生さんが書いた小説のキャラとか設定引き継いでるだろ?

 だからなんとなくわかっちゃうんだよ。こういう抽象的な書き方でも、俺には」


基本的にに弥生の書く小説はみな世界観が共有されている。

神話の時代であるファーディエイジが終わり、人の時代であるアーディエイジが来たという設定のファンタジー世界だ。

世界には“春”“夏”“秋”“冬”の四柱の女神がいて、剣もあれば魔法もある。

よく読むと細かな設定が変わっているのだが、根幹の設定は何時もそんなところだ。


田中は冷めたコーヒーを口に含んだのち、


「いやだから俺には面白いんだ。

 設定や世界観はだいたいわかってるし、物語にもすっと入れる」

「面白い? 田中くんにとっては?」

「だから困るんだよ、俺は読んでいて退屈もしなかったんだけどさ。

 これ、俺以外の奴が読んだもよく意味がわからないんじゃないんかな」


評価に困る、というのが田中の率直な感想だった。

文章も初めの頃にうまくなってきているし、話も緩急がついて読みやすくなっている。

だがしかし完全に一個の作品としてこれを見ると、やはり歪と言わざるを得ないだろう。


これまで何年も弥生の小説を読んできたが、最近の作品ほどこういう傾向が強まってきたように思う。


「でも田中くんは、面白かったんだね?」


そんな想いを滲ませての感想だっただが、弥生が反応したのはその部分だった。


「ああ、面白いよ。でもこれ、正しい評価じゃない気がするな。

 俺以外が何て言うのか、検討もつかない」

「あは、私もわかんない」


弥生はそう言って、笑ってみせた。

緊張の糸が解けたかのような笑い方だった。


「それでいいのか? あんまり褒めてないけどな、俺」

「うん、いいの。田中くんがとりあえず面白いって言ってくれんだもん。

 だったらそれで合格」

「たまには俺以外の奴にも読ませた方がいい気がするよ」


今ではネットで小説を公開する方法も増えている。

好評が得られるかは別として、病室で原稿を抱え込んでいるよりはずっとマシだろう。

そう思うのだが、弥生は少し目を泳がせながら、


「……田中くん以外に見せるの、恥ずかしいから」


そんなことを言うのだった。

田中は苦笑しながら、


「でもとりあえずちょっと真面目な批評をするなら、今回はどうにも主人公が分かりづらい」

「うん」


そういうと弥生は再び神妙な顔を浮かべて、田中の言葉に耳を傾けてくれた。


「話が途中までオムニバス形式で進むだろう? それぞれのキャラに焦点を絞ってさ。

 一個一個の話はいいんだけど、後半になるにつれて中心になるキャラが見当たらないのが気になるかな」

「……主人公、か」

「ああ、最初はこのエル・エリオスタってイケメンが主人公かと思ったんだけど、途中から妙に扱いがぞんざいだしな」

「最初はその人が主人公だった。でも、なんか違うと思って全部書き直しちゃった」

「やっぱりか」


そんな調子で田中は感想を述べていく。

この入院生活中にどんな想いで弥生がこの小説を書いているのかを知っているだけに、真摯な評価を述べようとは思っていた。


「ああ、それでこのオチだよ、このオチ。

 死んでしまったヒロインを、聖女全員の言語テクストを捧げることで復活させるって流れは、何も知らない読者は面食らうと思うな」


──と、そこで病室の扉を開ける音がした。


弥生が目配せをする。田中は落ち着いてその手に持った原稿を鞄の中に隠した。

今入ってきた人間には、田中が通学鞄に学校の書類を入れているように見えただろう。


「お母さま」


弥生はそう言って微笑んだ。

そこに立っていたのは細身の女性で、田中もまたよく知った人間だった。

桜見夕夏。弥生の母であった。


「ちょっとだけ時間が空いたから様子を見に来たけど大丈夫?」


オフィスカジュアルというのだろう。

タックの入った襟付きのカットソーにタイトスカートという出で立ちで、彼女は病室に入ってきた。


「こんにちは、お邪魔しています」

「あ、田中くん。今日も来てたのね。いつもありがとう」


挨拶を返すと、夕夏は柔和に微笑んだ。

そこに弥生が先ほどよりわずかに平坦な口調で、


「お母さん、今日忙しいって言ってたじゃない」

「うん、でも先方が全然データ送ってくれなくてね。休憩ってことで抜けて来ちゃった」


彼女は新宿の事務所でデザイナーをやっている。

仕事の急な発注も常な職種なので、昔から常に忙しそうにしているというイメージが田中には強かった。

だが彼女なりに何とかして娘に対して時間を割こうとしていることも知っていた。

入院費が高い都心の病院に弥生が入院しているのも、こういう時にすぐに駆け付けられるためだという。


「大丈夫。とりあえず最近は熱も出ていないし、勉強の方も割とやってるから」

「割と、じゃないでしょ。もっときちんとやりなさい」


そう言って二人は笑い合った。合わせて田中も微笑みを浮かべる。

その姿は仲のいい親子そのものに見えた。

ちらり、と田中は携帯電話で時間を確認する。

ちなみにわざわざ個室で弥生が入院しているのも、こうした電子機器は気兼ねなく使えた方がいいだろうという、弥生の父の提案だと聞いた。


「すいません、ちょっと俺はこの辺りで」


落ち着いた口調で田中は告げた。

すると夕夏が顔を上げた。


「あら、もう行っちゃうの?」

「ちょっとこのあと人と会う約束をしてまして」


そういうと弥生が僅かに眉を吊り上げるのがわかった。


「そういうことなの。じゃあまたね、田中くん」

「ええ、どうも。またよろしくお願いします」


そう挨拶を交わして、田中は病室を出ていく。

病院の廊下に人はまばらだ。個室での入院者が多いこちらの棟は他と比べて静かなのが特徴だった。


「あ、ごめんなさい。田中くん」


とそこで呼びかけられた。夕夏だった。

弥生の病室からこちらを追いかけてきたことに、田中は当惑した。


「ほんの少しだけ話していい?」

「ええと、なんですか?」


そこで夕夏は少し声を硬くして、


「田中くん、いつもありがとう、弥生のこと。

 新学期の準備とかで、忙しい時期だよね」


その憂いを含んだ声色に田中は事情をなんとなく察してしまった。


「弥生さんは、やっぱり」

「うん……二年生にはなれないって」


生まれつき身体の弱かった弥生だったが、去年辺りから特に入退院を何度も繰り返していた。

田中は顔を俯かせる。敢えて触れはしなかったが、やっぱりか、という気になっていた。


弥生は既に一度中学生の頃、似たような形で進級できなかったことがあった。

これで二度目。同じ年齢であるはずのロイとは、二つも学年が変わってしまったことになる。


「田中くん、いつもありがとう。

 学校が変わってもずっと仲良くしてくれて、本当に弥生は助かってると思う。

 あの子、中学校以来、学校の友達とは会うのを避けてるみたいだから……」

「弥生さんの目」


ぽつりと田中は漏らした。


「弥生さんの目の色、あれは……どういう意味があるんですか?」


先ほど病室でこちらを見上げてきた――碧色の瞳。

色素の薄い、はかない色だった。当然、前は弥生の眼はあんな色をしてなかった。


「……わからないの。弥生の身体のことは、誰も」


夕夏は首を振って、


「ごめんね、田中くん。呼び止めちゃって。

 また――弥生に会いにきてやってね」








ロイが名前で、名字が田中。

そう名乗ると大抵の者が何故か笑う。

次に冗談はいいから本名を言えと言う。

だから「ロイ田中が本名だ」と真面目に伝えると、さらにもう一度笑いが取れる。


それがロイ田中という名前であった。

それもこれも見た目が問題だ。父の血が濃く出た黒髪黒目であり、一見して田中はハーフには見えない。


昔は自分の名前で笑われることが厭で自分の名前も嫌いだったが、

しかし中学を上がった頃になると、とりあえず自己紹介で笑いが取れるのは、案外便利だと感じていた。

名前を間違われるということもないし、忘れられることもまずない。

そういうことでこの名が徐々に好きになっていたのだが、最近再びこの名が嫌いになった。


「ただいま」


癖でそう言ってしまうが、部屋には誰もいない。

当然だ。身一つでの一人暮らしなのだから。

家を飛び出してはや数か月。既に部屋は非常に散らかっていた。

空き缶が散乱した床に顔をしかめながら思う。何もかもが厭な気分になる、と。


何故父と母が突然縁を切ることになったのか、よくわからない。

豪放磊落な父と何時も笑っている母は、少なくとも表面上は仲がよさそうに見えたからだ。

だが自分の知らないところで致命的な齟齬ができてしまい、自分の知らないところで決着がついた。

つまるところそれだけだ。


そう知った田中は、数か月前、嫌悪感と共に家を飛び出した。

どちらかについていくことも勿論できたが、自分はそれを拒絶したのだ。


しかし――結局自分は家を出ることができていない。

学費も生活費もすべて親から払ってもらっている。

一人暮らしすると言い出した田中を援助してくれたのも、親に負い目があったからだろう。


帰ってきた田中は汚れのついた洗面台でバシャバシャと顔を洗う。

そして顔を上げる。そこには見慣れた顔がある。そいつはひどく不満げな顔をしている。

一体何がそんな不満なんだ。思わず彼は問いかけていた。


「本当に一人で生きていきたいなら、学校も何もかもやめて、働くべきなんだ。

 最初はつもりだった。なのに結局、全部親にやってもらってさ。

 結局は怖いんだろう。何もなしで生きていくのが」


なじるような口調で鏡の向こうの自分に言う。


黒い髪に、黒い瞳。

ぱっと見の外見は純正の日本人のそれだがが、かといって父や母の面影がない訳じゃない。

まっすぐな鼻筋は父に、目のあたりは母によく似ていた。

極めつけにロイ田中だ。この名前こそが、父と母の間に自分が生まれたのだという証拠のはずだった。


「厭だな、本当に」


だから今の田中はこの名が嫌いだった。

どうしようもならない現実を意識せざるを負えないからだ。


「何をすればいいってんだよ」


と、そこで置いておいた携帯電話から着信音が鳴った。

田中は首を振り、電話に出た。


「どうしたんだ、弥生さん」

『あ、ごめん。田中くん、今、大丈夫?』


突然の電話に田中は頭を捻りつつも答えた。


「別に大丈夫だけど、何か伝え忘れたことでもあったのか?」

『その声の響き……』


弥生は何か吟味するように言ったのち、


『うん、家に着いたみたいだね。

 この時間に部屋にいるってことは、ちゃんとまっすぐ帰ったみたいだ、よかった』

「どういうことだ?」

『何でもないよ。たださっき人と会う約束があるって言ってたらさ、てっきり学校の誰かと会うつもりなのかと思って』


昔からの幼馴染といえる二人だが、

弥生が中高一貫の進学校に中学の時点で進学したため、田中の通う公立校に知り合いなどはいないはずだった。


「まぁあれはちょっと理由付けて切り上げるための方便だけどさ。

 苦手なんだよ、あの人」


実のところ、それも嘘だった。

今、仲のいい親子を見せられるのはつらかったというのが、あそこで退散した一番の理由だ。


『うん、それは知ってる。だからこれは、念のため。

 田中くんが、私の知らないところで悪い女の人と会ってないか、気になって』

「なんだよ、それ」

『あは、冗談』


電話の向こうで弥生が笑っているのがわかった。

その楽しそうな声を聴いていると思わず顔がほころぶが、同時にロイは夕夏の言葉を思い出していた。

弥生は進級できない。

期間としてはたった一、二年の差だとしても、中高生にしてみれば、それはすべての人間関係に取り残されることに等しい。


『ねえ、田中くん……また、私の小説読んでね』


田中の沈黙をどう受け取ったのか、弥生はそんなことを言ってきた。

彼は知っている。弥生が小説を書き始めたキッカケを。

入院中の暇つぶしだと彼女は言っていたが、彼女が筆を執ったのは恐らく中学時代、初めて現実に取り残されたときのことだ。


「ああ、俺でよければ読むさ。

 そういえば原稿こっちに持ってきちゃったけど、俺の知り合いの文芸部の奴にも渡そうか?

 作者は伏せて感想とかもらってきてもいい」

『やだ、私は田中くんがいいの』


そう言って二人は再び笑った。

田中は弥生の身体のことを触れないし、弥生は彼の親のことを触れない。

二人とも、お互いがお互いの事情を察していることもわかっているのに。


『それじゃ、明日ね』

「ああ、また行くよ」


そういう形で通話は途切れた。

とりとめのない会話だった。しかし、それが弥生ときちんと話すことができた最後の機会だったと思う。







夢を見ている。

夢とは虚構であり、現実を基に組み立てられてはいても、大抵の場合それは歪な造りをしている。


夢の中、田中はどことも知れない場所を歩いていた。

深く、暗い森の中だった。

空には星すら見えず、数メートル先は何も見えない。腐った土の感覚が足元から伝わってくる。

そんなところ田中はただひたすらに歩いていた。


何故歩いているのかはわからない。

どこに向かっているのかも、自分がどこにいきたいのかも。

しかし、ここではないどこかに行きたい、という感覚だけは胸の中に渦巻いていた。


「田中くんはどう思う?」


声がする。

気が付くと弥生が隣を歩いていた。

入院中の彼女とは違い、私立高の良い生地をしたブレザーに彼女は身を包んでいる。


「ここを現実だと思う?

 今私たちが歩いているこの場所は、確かな現実かな?」


隣を行く彼女は振り向かずに尋ねてきた。


「いや思わないな。だってここは夢だ」


不思議と今の彼はそう断言できた。明晰夢、というのだろう。

今までの夢と比べて、異様にはっきりと物を考えることができた。


「俺たちが生きているのは、もっとどうしようもない場所さ」

「そうだよね、私も、そう思う」


弥生と田中は二人で森の中を歩いていく。

道はゆるやかな下り坂を描いていて、歩き進めていけばいくほど闇は深くなっていく。


「私ね、ずっと思ってた。

 もしかするとこっちの世界の方が、本当は現実なんじゃないかって」


歩きながら、弥生は語っていく。


「何が正しいことで、何が間違いか。

 何が現実で、何が虚構フィクションなのか。

 何のために生きているのか、何をもってして生きていくのか」


夢の中の弥生は妙にきっぱりとした口調で言う。

明瞭な発音で、曖昧な問いかけをしていく。

その響きは答えを求めているというより、自分自身に呼びかけているかのように聞こえた。


「田中くん。

 私、思うの。私はあの現実なんかのために生きているんじゃないんだって。

 現実こそ、私のためにあればいい。私の虚構フィクションのために、あんな世界がある。

 それくらいの存在なら、ギリギリあれを許容してやってもいいって、そう思っちゃうの」


弥生は少しずつ声のトーンを上げていく。

そこには隠し切れない昂ぶりがあった。


「私は厭だった。

 何をするのも許してくれない身体のことも、慮ってくれる親のことも、無邪気な妹のことも。

 また会おうと約束したのに置いていった友達も、それを仕方ないと思ってしまった私自身も」

「弥生?」

「何故こんなに――こんなに!

 どうしようもなく、くだらない場所のために生きなければならないの!」


震える声で弥生は叫びを上げる。

甲高くヒステリックに、彼女はその思いのたけを謳い上げる。

不審に思った田中は彼女の顔を覗き込んだ。


「私は田中くん以外の、すべてが嫌いだった。

 だけどそれ以外のもののためにも奉仕しろと現実は言う。

 私と、君だけの世界には、いられないんだね」


そう言って次に彼女は――笑い出した。

あはははは、あはははははははははははは、あはははああははっはははははは。

狂ったように彼女は笑っていた。


闇の中、その碧色の瞳が光り輝いている。

いつしか森は深い闇の中に溶けて消え去り、彼女の瞳がだけ唯一無二の灯として世界を照らしている。


その異様な光に田中は目が離せなかった。

見えない力でからめとられたかのうように、田中は彼女を見つめることを強いられていた。


そして――次の瞬間には、弥生の身体に穴が空いていた。

誰かが背中から彼女を刺していた。弥生の腹から刀身が覗き、飛び散った血が田中の頬にかかる。


生暖かい感触に彼は目を見開き、叫びを上げる。

その鮮烈な、しかし異様な光景は夢でしかありえない。あまりにも現実感のない異様な光景だった。

しかしだからこそ、強烈な印象を残すのだ。


彼女の身体の影から、誰かが出てきた。

剣を持ったそいつこそが、弥生を突き刺した張本人である。


そいつは――弥生とまったく同じ顔をしていた。


「田中くん、さようなら。

 もしかすると――私、君のことも嫌いだったのかな? 本当は」


もう一人の弥生は碧色の瞳で田中を見つめて言った。

その言葉に田中は何か、打ちのめされた気持ちだった。










目が醒めた田中は胸を押さえた。

はぁ、はぁ、とこぼれる息が荒い。全身に汗が吹き出し、指先には奇妙な痺れがあった。

悪夢であった。これ以上ないほど明瞭で、不気味な悪夢。


布団の中で身を起こし、息を必死に落ち着ける。

ただの悪夢だ。そう自分に言い聞かせて、よろよろと立ち上がる。

顔を洗うと、そこには死にそうな顔をした自分がいた。


「…………」


得も言われぬ不安にとりつかれた田中は、携帯電話を取り出す。

弥生の声が聞きたいと、そのときの彼は強く思っていた。


そして「え」と声が漏れていた。


端末に登録されていた連絡先の中から、弥生の名が消えていた。


探しても、検索をかけても出てこない。田中はただ困惑した。

何かの不具合とも考えづらいし、自分で謝って消してしまったのだろうか。

だがそんなバカな真似を気づかずにやってしまうものなのか。


田中はしばし固まっていたが、電話内に表示される時刻を見て、おもむろに動き出した。

今は春休みではあるが、今日は学校内の行事で顔を出さなくてはならない。

新入生歓迎イベントの用意という、なんてことのないものだった。

胸に渦巻く厭な予感は消えなかったが、それを理性で押さえつけて、田中は身支度を整え家を後にした。


学校内ではどこか上の空だったが、しかし必要な役割はこなして見せた。

そうしていると心が落ち着いていく。この日々に何か決定的なことは、まだ起こっていないと。

午後に差し掛かったあたりで話し合いもひと段落し、そのタイミングで田中は適当な口実を作って作業を切り上げた。


そうして向かった先は病院だった。

弥生が入院しているはずの、都内の大きな病院。

そこでいつものように病室に足を運ぼうとした。だが――


「桜見弥生さんですか? そんな名前の患者さん、いませんよ」


今度こそ、田中は間抜けな声を上げてしまったと思う。

病室に入ろうとした彼を、その場にいたスタッフはそう言って制した。


「そんなはずはないんです。昨日だって、桜見弥生さんはここに……」

「ううん、そう言われましても……」


困ったようにスタッフは目を泳がせた。

田中は意味がわからない気分だった。彼が嘘を言っている訳がない。

となれば、何か勘違いしているのか。


田中はスタッフを置いて駆け出した。背中から走るなと制する声がしたが、無視した。

個室入院室の入口にあるプレートを逐一見ていく。

だがそのどこにも“桜見弥生”の文字がない。ここに来て田中は目が回るような気分になった。

意味が分からなかった。自分が立っている場所が本当に現実なのか、自信が持てなくなっていた。


田中は打ちのめされた気分で、病院を後にした

探しても探しても見つからない。いるはずの場所に、いるはずの人間がいない。

失踪とも呼べない。これではまるで最初からそこにいなかったような……


「なんだ、何があったんだ」


焦る気持ちを落ち着けるために、田中はひとまず近くの自販機で買ったペットボトルを口に含んだ。

喉を通る冷たい水の感覚は確かに現実のものだ。ここは、夢の続きではない。

そう言い聞かせながら、再度携帯電話のアドレス帳やSNSでのやり取りを確認する。

だがそのどこにも――弥生の名がないのだ。


「あ、田中くん」


その声を聴いたとき、田中は勢いよく振り返った。

そのまま血走った目でにらみつけてしまったかもしれない。

背中に立っていた女性は、目を丸くして、


「大丈夫? なんか気分悪そうだけど」

「あ……」


そこにいたのは桜見夕夏だった。

縦横無尽にこの社会を生き、そして娘への愛を欠かさない母親。


偶然、出会ったというのだろうか。田中はこのタイミングで彼女に出会ったこと自体に戸惑った。

確かに彼女の職場はこの近くだと、弥生から聞いてはいた。

だがとにかく今ロイが尋ねるべきことはひとつだった。


「弥生さんは、その、どこに行ったんですか?」

「え?」

「弥生です。昨日までこの病院に入院していたでしょう!」


語気を強くして田中は夕夏に迫ってしまう。

彼女は田中の様子に何か異様なものを感じたのか「落ち着きなさい」と手でこちらを制してきた。


「何かあったみたいだけど、大丈夫?

 あ、田中くんのお母様とお父様の件は聞いているけど……」

「そんなことじゃないんです。俺は、この、弥生はどこにいったんです?」


そう問い詰めると、夕夏は当惑に瞳を揺らした。

そして、こう言った。


「ええと弥生って……桜見弥生?」

「そうです!」

「なんで田中くんがその名前を知っているの?」

「え?」


彼女はどこか照れたように笑って、


「それは私の昔のペンネームよ。

 駆け出しのデザイナーだった頃、確かにそんな名義で活動していたけど、でもそんな話どこで聞いたの?」


田中は夕夏の言葉の意味がわからなかった。


「あの、いや俺が言っているのは桜見さんの家の、俺の友達の!」

「あ、三月みつきも会いたがってたわよ。最近顔を会わせてないからさみしいって」


三月。桜見三月。

それは弥生の妹だった。

弥生の一つ下の彼女は、病弱な姉と違って丈夫な身体をしていて、いつも笑っている明るい娘だった。

その筈――だった。


「あ、ごめんなさい。私もう行かなくちゃ」


そこで夕夏は腕時計を見ながら言った。どうやら仕事中だったらしく、最低限の挨拶を交わし彼女は去ろうとする。


「田中くん。まぁお母様のことは、いろいろ思うところがあるかもしれないけど……何かあったら相談してね?」


最後に、そう言い残して、夕夏は新宿の街に消えていった。


「……弥生は、貴方じゃないんだ」


その姿を呆然と見送りながら、田中はそう言うしかなかった。

空を突き刺す摩天楼の狭間、道を行きかう人々の雑踏が猛然と世界を進めている。

どこで、一体どこでこぼれた。田中は今、自分が置かれている状況を全く掴めなかった。


いや――掴みたくはなかった。


いつものように弥生と会いたかった。

あの真っ白な病室で、どこか影のある微笑みを浮かべている弥生の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

あれは確かに現実だった。現実に、今の自分たちはがっちりと噛み合っていた存在だったのだ。


ただまた、今日も弥生の小説を……


「小説だ」


田中はそこで声を漏らした。

何故今まで気づかなかったんだ。弥生の書いた小説を、自分は昨日持って帰った。


弥生のつづった物語を、自分は確かに知っている。

それが何よりも彼女が――確かに存在したという証明になる。


そのことに気づいた田中は、いてもたってもいられず駆け出した。

小説の原稿は部屋にある。とにかくそれを確認するのだ。

どういう訳か田中は、あの原稿が今の状況のすべての鍵であるような気がしていた。


そうして田中は部屋に戻ってきた。息を切らし、乱雑に物をはねのけ、昨日病院に持って行った鞄を確認する。


果たして、そこに原稿はあった。


原稿用紙をびっしりと埋められた文字は、確かに弥生の筆跡のものだった。

そこにつづられている物語もまた知っている。

彼女の描く、ちょっと説明不足のファンタジー小説。

読者は田中しかない。しかしそれで満足だと語っていた。


「はは」と声が漏れた。

なんだ、いるじゃないか。確かに弥生は存在していた。

確かな現実の存在として、彼女はここにいたのだ。


そう思うと急に力が抜けていった。ばたん、と音がする。

それは自分自身が倒れる音だと気づくのに、時間がかかった。

ただ彼の視線は、そこに広がる物語へと向けられている……







どれくらいそうしていただろうか。

安心で弛緩していた意識が、再びまとまっていった。

田中は心を落ち着けるべく、石畳から身体を起こした。


「――石?」


そこで彼は自分が寝ていた場所を確かめた。


石畳みの敷かれただだっ広い中庭であり、四方には見知らぬ女神の巨象が据えられていた。


そして極めつけに――振り向けばそこには巨大な城があった。

ところどころ外壁の剥げた古びた城である。鋭角的な装飾の施された主塔を中心に築かれた西洋城。


当然――初めて見る光景であった。

言うまでもなく、田中の部屋はこんな場所にはない。


「あ、目が醒めたんだ!」


呆然としている田中に対し背中から声がかけられた。


「よかった。いきなり現れたときは驚いたけど、生きてて本当に一安心!」


振り返った先にいた人影に、田中は思わず息を呑んだ。

碧色のぱっちりとした瞳が綺麗だった。


「聖女エリスです。よろしくね!」


弥生とうり二つの外見をしたその少女は、快活な口調でそう名乗った。


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