転居
「共産主義者がまた大量検挙されたみたいだ」
講義終わりに柊が話しかけてきたのはたわいもない時事の事柄だった。
「よほど共産主義者は面倒な存在らしいな」
「そりゃね。彼等の思想は暴力的革命で権力者を無くす事だから、国家転覆を狙う不穏分子だよ。ここ数年も厄介なことに公家や金融機関を狙った襲撃があったじゃないか」
共産主義者の有り体は僕も知っている、遠藤との事以前にもそういった事件は無いではなかった。
「権力の側にいない者にとっては甘い囁きばかり呟く集団だ。どうせ検挙されるのもそれに群がった者だろう。蜥蜴の尻尾切りだ。甘い言葉に唆されて利用された奴等にはむしろ同情するよ」
そう言うと、柊はきょとんとした顔で僕を見た。
「それはそうだろうが、君が同情するなんて言葉を口にするとは思っても見なかった。奴等はどう考えても犯罪者の集団だろう」
間を置いて僕は口を開く。
「それはお前が持つ側だからだよ。持たない側はやはり血族による階級社会に納得はできないって人はどうしたって出てくる。奴等はその気持ちを利用しているんじゃないか。僕はその気持ちは否定できない、なにせ僕自身が産まれの足枷を酷く感じているのだから」
「おい君、それは危険発言だぞ」
「だからお前にしか言うつもりはない」
そう僕が言うと柊は腕を組ながら何やら考えたそぶりをした。
「まさか君は共産主義者じゃあるまいな」
とんだ事を言ってくれたものだ。
「阿呆ぬかせ。そんな危険な綱渡りしたくもないし、したところで僕のような者は真っ先に蜥蜴の尻尾にされてしまう。あぁいう奴等でもそれなりに地位や後ろ楯のある奴でないと安全で旨味のある所にいないさ。それに僕は僕なりに背負っているものがある、棒にはふれんさ」
柊はつまらないことを聞いたと詫びをいれる。
「私は君から見れば羨ましいのだろうか」
「僕にできない事ができる立場にあるというのは羨ましいと思っているところもあるが」
「私は君が羨ましいと思えることがあるよ」
家庭環境が複雑と以前言っていたことを思い返す、これはそういうことについてなのだろうか。
「誰だって悩みはあるさ。それが解決できるものかどうかは別として。お前のそれがどんなものかは知らないが、僕を羨ましいと思うようなことなんぞあるまい」
柊はそうかと呟くと、心ここにあらずという感じでどこか遠くを見ていた。
柊とそんな話をした日の晩、家主の書斎に大事な話があるからと呼び出された。
「何用でしょうか」
と言う僕の問に家主は少し躊躇してから語り始める。
「三笠、君にこの家から出ていってもらうことになった」
突然家を出ていけと言われては気が動転する、頭のなかで何かがガラガラと崩れ落ちる感覚だけが広がっていく。
「情勢が情勢だけに家に書生を置いておけなくなりそうなのだ。前々からそう思ってはいたのだが、君の卒業まではとここまできた。ところが、とある人物から君の面倒を見たいという提案をいただいてな。君はなかなかにできが良い、将来的に私の部下におきたいと思っておったのだが、どうやら私以外にもそう思っている人間がいたらしい」
話が少し変わってきた、郷里に帰れという訳では無いらしい。学問は続けていけるということだ。
「しかし、私としましても主様の下で学ぶことも多く、まだここにいさせていただければと思うのですが」
家主と話すことはおおいに勉強になった、それが無くなるのは惜しい。家主とも折り合いよくやってきたつもりだ、次に行く先がそうそう良い所とも限らない。
「それがだな、私にも異議できる相手でもないのだ。名前は明かさぬように言われているのだが、けして悪いようにはなさらぬだろう。大学近くの共同住宅の一室を既に君のためにあてがってくれているらしい」
「と言いますと、まさか私一人で暮らせるように、と言うことでしょうか」
「そういうことになる。君の卒業まで金銭的問題は全部そちらが受け持つことになっている」
馬鹿な、こんなちんけな小作人の小倅風情にそこまでする者があるだろうか。
どこの誰かは知らないが余程の物好きだぞ。
学費は陽国が教育に力を入れたときに、師範学校と高等学校における条件付き学費免除項目を打ち出してくれたおかげで高等学校のその要件にギリギリ滑り込んだ。
首都大学にいたっては学費が基本的に国負担である。国を担う優秀な若者をさらに育てるという目標があるためであるが、まぁ首都大学にこれるような連中はほとんどが皇族か学業が優秀な公家や豪族の者であるので、僕のような者はいないのが普通であった。
学費がかからないとはいえ、人が生きていくにはとかく金がかかる。それをなんの見返りもなしに出資するということがあるだろうか。
兎に角、僕は顔も知らぬ名前も知らぬなぞの人物からの援助を受けていくことになる。断ることなんぞできない。ご厚意に甘えるしかないが、やはり気持ちが悪い。何を考えているのかがまるで見えてこない。