柊
家主の言葉は重い。政治の中枢にいる人間の言葉だ。おおよそそういうことであろう。
書生の身でありながら、家主には大層気に入られている。最初こそ小作人の小倅が分不相応にと難色を示しておられたが、存外気が合うもので話相手として申し分ないとお墨付きをいただけたらしい。
流石に御上の内情まで話されるのは如何かと思っているところもあるが、そこもしっかりと話して良いとしている部分とそうでない部分を使い分けているらしい。
事実戦争になるかもしれないなどという話しは噂程度には広まっている。ただ家主からこの話がでたと言うことは信憑性の度合いがまるで違う。噂ではおそらくすまない可能性が高いと言うことだ。
学生だからとのんびりしてもおられないのかもしれない。戦争になれば徴兵により長兄も駆り出されるやもしれず、父は流石に歳が歳だけに無いだろうが、妹も旦那を軍に取られるかもしれない。次兄はそれこそ渦中の人だ。長兄との文のやり取りにそのような話しは特に未だ無い。長兄は字の読み書きができぬ両親に変わって文を出してくれる。ただ単に次兄の情報が伝わっていないのかもしれぬ。次兄は次兄でそれほど読み書きが得意であったわけではない。特別な事情がない限り文なぞ実家に寄越さぬだろう。
家族で僕だけ学生という特権階級にいることを申し訳なく常日頃思っていたが、いざ戦地に赴く可能性が高い次兄を思うと少しいたたまれなくなる。
長兄も次兄も妹も僕よりも過酷な生き方をしている。貧乏とはそれだけ過酷なのだ。僕は本当に恵まれた場所にいる。そう思えばこそ、このままで良いのかとふと苛まれる事が多々ある。
家族のためにと勉学で道をみつけたのに、僕はまだ家族のためにできる事がなにもない。自分のためにただ勉学をしているのではないか、本当はこんな所にこず、長兄の仕事を手伝い、適当なところで嫁を見つけ、小作人として生きていった方が良かったのではないか、と。ただ自分は運良く手に入った境遇を利用して一人楽をしているのでは無いかと。
考えれば考えるほどに情けなくなると同時に、ここにいたって何も成さないで良いわけはないという重圧が僕を押し潰しそうになる。
後日戦争は実に簡単に始まった。もはやどちらが先に撃って出たかすら混迷している。陽国では夜間に中央大陸共産党軍が哨戒中の陽国陸軍に発砲して始まったとされている。
鉄道爆破事件の経緯を考えると我が国のでっちあげすら否定できない。無論証拠なんぞは無い。ただ、わけのわからぬまま時流は中央大陸での戦火を拡大していった。共産党軍は中央大陸間の分裂国家に檄を飛ばし、瞬く間に中央大陸の国家は団結した。そしてその裏にはエングレスト連合国とベスプッチ合衆国の援助がある。ベスプッチ合衆国は中央大陸の利権に絡むチャンスをここで手にいれようとしたと考えていい。
エングレストは植民地を含む大規模な領地を持ち、ベスプッチはベスプッチ大陸の北側にある新興国なのにも関わらず資源の産出量や工業力が抜きん出ていると聞く。代理戦争として終結すれば良いが、本腰でこの二国がでばってきては我が国は風前の灯火と言えた。
「三笠、君は昼飯に握り飯一個ですませるつもりか」
以前、僕に話しかけて以来、何度となく絡んでくる柊を邪険にすることもできず、いつのまにやら昼飯を一緒にする友人とまでなってしまった。
僕と柊は学内でも浮いている。僕は貧民の出であることがその理由で、柊は目立つのだ。小柄で華奢な体型もそうだが、女のような顔立ちと声色を持っており、身長が低い事を除けば少々か細い感じこそすれお世辞抜きで美男子であった。おまけに名門公家柊家の人間と来ている。周りの人間がほうっておかなかった。
にも関わらず柊は他の学友と友好を結ぼうとはしなかった。むしろ何故僕に興味を引かれたか当初困惑したくらいだ。そんな訳で柊と僕は奇妙な友人関係を築いている。
「米の握り飯一つでご馳走だ、毎日ご馳走を食えているのに文句があるものか」
「頭を使えば腹も減る。そんなぐらいでは午後の講義に支障をきたすぞ」
「貧乏人なのだから、贅沢はできん。君のように外で豪勢な弁当なぞ用意もできん」
「君はそうやってすぐ卑下をする。弁当くらい君の郷里でも食べているだろうに、粟や稗が主食かもしれんが、そんな少ない量ということは無いだろう。身体を動かして仕事をしているのだから。貧乏貧乏とそれを理由に私達が知らないからと適当なことを言うもんじゃないぞ」
柊はこの調子で僕にいちいち説教まがいな事を述べてくる。柊が僕に興味を持ったのは学内で最下層の地位の人間がいるということが始まりであったらしいが、どうも僕を過大評価している所がある。
「そうは言うがな、まぁこれだけでそれなりになんとかなっているのだから文句は無いだろう」
「私は素直に君を尊敬しているんだよ。地位の無い人間がここまで来るなんていうのは並大抵ではない。そこいらの血筋だけのぼんくら公家と比べれば月とすっぽんだ。君はもっと誇らしく堂々としていれば良い。だというのに君は自分を一つも大事にしない。昼御飯一つとってもそういうところが見えて私は辛いんだよ」
「あまり買い被るなよ恥ずかしい。天下の柊家のご子息に言われては真に受けてしまう」
「いい加減本当に真に受けてくれよ。本心なんだから」
けたけた笑いながら柊は僕の肩を二三回叩くと軽く背伸びをした。
「三笠は卒業後どうするつもりなんだ」
突然の問いに、解答を窮してしまう。それを察したのか柊は言葉を続けた。
「私はどうなるかわからない。詳しくは言えないがちょっと複雑な家庭環境でね。君はある意味では自由だ、どうするのかと思ってさ」
「郷里の人達の役に立ちたい。僕がここにいるのはそのためだ。家族や僕をここに来させてくれた人たちのために。今の家主が僕を気に入ってくれている、コネというのは少し気が引けるが何か口利きをしてもらえればと思ってるよ。それが駄目でも地方官吏にでもなって郷里のために骨を埋めるさ」
柊は少し寂しげな顔をして僕の顔を流し見た。
「いや、君も自由というわけではなかったな。すまない。君もいろんな物を背負っている。私達は産まれたときから多くの物を背負っている。その呪縛からはどうあがいても逃げ切れない。それで良いのかもしれない」
この時、僕は柊の家庭環境なぞ知るよしもない、だが、この言葉の真意こそ後々僕の運命を左右したのだろう。
「柊、君には僕にできない大きな事が出きる、僕は出自が出自だ。国の中心で活躍なんて大層なことはできない。何度もそれで絶望している、けれど君にはそれができる。君がそれを望んでいればの話だけれど、そうなったら良い国を作ってくれ」
柊は一瞬暗い顔をした、今まで僕はそんな顔をした柊を見たことがない。すぐに爽やかな自信ありげのいつもの顔をした柊が戻ってきたが、その一瞬を僕はこれから忘れる事ができなかった。
「精々精進するよ」
そう言った柊はいつもの調子で、午後の講義の話を始めたのだった。