疑問と解答
そして、その日が来た。
朝、研究室に向かおうと荷物を古ぼけた鞄につめ、表に出たところだった。
「やぁ三笠」
そこには、柊が待っていた。
「柊か、これから研究室に行かねばならないんだが」
「そちらは諦めてもらうほかないね」
有無を言わせぬ何かを感じる。
「急ぎの用か」
「そうだ」
「断る、と言えばどうする」
「断ることを私は許さない」
柊と視線が合う。逃げることも避けることもできそうにない。
どこか僕にはこういう時がくるだろうという確信があった。そして、何があろうと柊と向き合う覚悟も同時にできあがっていた。
「僕に拒否権が無いなら仕方ない、つきあおう」
柊は少し唇をほころばせる。
「車を止めている、詳しい話は道中にしよう」
黒色の国産車が止まっている。高級車だろうなとだけはわかる。柊の後について車の後部座席に乗り込むと、柊の合図と共に運転手は車を走らせた。
「君は私に何か言いたいんじゃないかな」
柊は僕の顔を覗きこむようにして見る。
「お前が聞いてきたと言うことはその話をする時なんだな」
柊は小さく頷く。
「僕に資金援助したのはお前か」
頷き、肯定。
「遠藤はどうなった」
「彼なら生きている。なにせ今車を運転しているのは彼だからね」
言われて運転手を見ると、成る程確かに遠藤だった。驚きを隠せない。気づかなかった事もそうだが、遠藤が生きていた事、それ自体が驚愕に値する。
「その節は」
遠藤はそれだけ言うと黙った。
「どうして生きている」
「どうしても何も、私が生かしたからさ。彼には感謝してもらわないとね、ついでとは言え命の恩人だよ私は」
「どうやってだ」
共産主義者が獄で生きているならまだしも普通に生活できているとはどういうことだ。
「些末な事を気にするね。まぁ、いろいろあったんだけれど、彼は一度死んだんだ。今の彼は遠藤って名前ではないからね。生かした理由は生かしておけば私の味方になってくれると思ったから程度かな」
「お前にそれだけの権限があるということか」
頷き、肯定か。
「有力な公家の子息とはいえ、簡単にできるものなのか」
「さて、他の人はどうか知らない。ただ、私にはできた。気紛れでできる程度にはね」
今まで権力の話を柊はあまり好まなかった。だからこそ僕は柊はそういうものを積極的に使う方ではないと思い込んでいた。だが、実際は違うのかもしれない。
「他にも聞きたいことはあるんだろう?」
何を聞きたいか見透かされている気がする。答を全ておそらく柊は用意している。
「お前は何故僕に執着しているんだ。ただの小作人の小倅風情に執着した理由が知りたい。そして僕に何を望んでいる」
フフっと笑うと柊は窓の方を向いた。
「そうだな。最初は本当にただの興味だったんだ。君が地位も名誉も無いところからやって来て学問を唯一の武器に皇族や公家と肩を並べている。どういう男なんだろうってね」
「どういう男かわかっただろう。つまらないちんけな貧乏人の男さ」
「君は自分を過小評価しているけれどね、私はそうは思っていない。そうだな、面白い男だと思った。能力はあるくせに劣等感を抱えている。自分の事は二の次で誰かのためにとしか考えていない不器用な男。だけど変なところで自分を曲げない。合理的な思考をするのに感情に流されるところもある」
「そういう風に見ていたのか」
「あぁ、気がついたら私は君を目で追っていた。そして君が欲しくなった」
「僕は男色の気はないぞ」
そういうと、柊は知っているよと笑った。
「私の身の上の話をしよう」
いつぞやの事を思い起こす。
「お前は家庭環境が複雑だと言ったな。卒業後何をしているかも僕には教えなかったが、それは今すべき話なのか?」
柊はあぁそうだと告げる。
「私はね、もともと柊家の子供ではない」
「養子か」
養子にしては些かわがままが通りすぎてはいないか。
「そうだね、似たようなものかな。私の本当の父親はねこの国の皇帝陛下その人だよ」
僕はこの言葉に凍りつく、なるほど、皇帝の直系親族ならば遠藤ごときの命どうする事もできるだろう。勿論僕の命も。
「それならばなぜ柊に養子にいっている?君の年齢ならば陛下のご子息の中でだれよりも歳上だ。皇太子となることもできただろう」
柊は首を降る。
「私の母は宮中付きの給仕だった。父上の初恋の人だったらしい。二人は逢瀬を繰り返し母は私を身ごもったが、身分の問題があった。本来禍根を残さぬよう私を流産させるはずが、母は私を殺したくない一心で出奔し、私を産んだ」
「だとすれば君は本来いてはいけない存在と言うことか」
「あぁ、そういうことになる。母は私が4つの時に流行り病で死に。最後に私に手紙を持たせ皇居に向かわせた。その後紆余曲折を経て、父上の親友であった柊家の子供として生きることになったんだ。父上もかつて愛した母の子である私を殺せなかったのだろう」
「とんでもない話だ」
「まったくね。でも事実だ。まぁどちらにせよ皇位継承権は私には無いのだけれど」
公家のお坊っちゃまだと思っていた友人が実は皇帝の隠し子などと奴以外なら悪い冗談だと笑い飛ばしていただろう。
だが、柊が今語っていることは嘘だとは思えなかった。
「だからこそかな。私の血の半分はさして君とは身分が変わらない。そして、気軽に話せると思ったんだ。君ならば私と対等でいてくれると思わせるものがあった。そして実際そうだった。私自身産まれに劣等感を持っていたからね、君とは少し似ていたんだ」
「それで僕、か」
「君はどう思っていてくれたのかは知らないけれど、私にとってはかけがえのない友人だから」
まだ聞くべき事はある何を聞くべきか思案する。
思案している僕を察してか柊は退屈しのぎとばかりに学生時代の僕との思い出話を語った。その語り口調から、柊にとってそれはたいそう楽しい出来事であったと言うことが理解できる。
話疲れたのか柊が口を閉じ、車内が静けさに包まれたころ遠藤が車を停めた。
「到着しました」
そう言った遠藤に柊は答える。
「ありがとう。君は柊家に車を返せばもう自由だ、好きに生きなさい」
遠藤は小さく頷く。
車を柊が降りるのに続いて僕が降りようとすると遠藤は僕の服の裾をつかんで止めた。
「三笠君、君には申し訳ないことをした。すまなかった」
「すんだ話だ、達者に暮らせ」
僕がそういうと、ありがとうと遠藤は返す。
「三笠君、俺は君と薫様に感謝している。どうか薫様のことをくれぐれも頼む。どこか危うい人だから」
僕が遠藤に感謝されるいわれは無い。僕はただ巻き込まれたにすぎず、彼を助けたのもまた柊だ。それでも彼は僕に感謝していると言う。敗北が濃厚な戦争によって未来は暗い。それでもあんなところで死ぬよりは良いだろう。たまたま結果がこうなっただけではあっても彼にとって僕は釈迦が垂らす蜘蛛の糸だったに違いない。
とは言え、僕が彼の言うことを遂行することはできないだろう。
「それは無理な話だ。僕はもうすぐ徴発されるだろう。学徒動員だ。近々死ぬ運命だよ。君は一度死んでいるんだっけか、もしかしたら徴兵から逃れられるかもな。後の世の事は頼むよ」
僕がそういうと遠藤は僕の目を真剣に見る。
「くれぐれも薫様を頼む」
「だから僕は」
いいかけたところで柊に呼ばれて僕は仕方なしにそちらに向かう。
遠藤に軽く手を降ると遠藤は僕に会釈して車を出した。