文喰い
――創作に必要なのは神ではなく悪魔だ。
そんなことを考えながら真夜中の住宅街を散歩していた。
俺は今、友人の企画に参加しようと『星空』をテーマに作品を書いている。
その執筆に行き詰って、気分転換がてら実際の星空を眺めながらアイディアの練り直しを……と思ったのだが、都会の空には俺が望むような星など一つもなかった。
ともかくごみごみしている。住宅街の低い屋根々々は重なり合って夜空を隠し、その向こう、遥かに見える尖ったビル群が点を突き上げて狭い。
それに明るいのだ。
エコが叫ばれて久しいというのに都会は夜の明かりを消そうとはしない。少し濁った白い人工の明かりは、さやけき星影を打ち消してなお明るい。
「期待外れだな」
あきらめて家へ帰ろうと、タバコ屋の角を曲がってさらに細い小路をとおって帰ろうと、体の向きを変えた俺は、その小路の入り口に立つ小さな人影に驚いて足を止めた。
「子供……?」
年の頃は小学生くらいだろうか、こんな時間に出歩くには幼すぎる少女だ。
彼女は僕の顔を見ると、大人びたいやらしい笑いを浮かべた。
「そんなに怪訝そうな顔をせずとも良い。わたしはお前に喚ばれた者だ」
俺が喚んだ、と言われて真っ先に思いついたのは……
「そうだ。『創作の悪魔』だ」
少女は実に子供らしい、ぴょこぴょこと踵が鳴りそうな足取りで俺に近づく。
老獪さえうかがわせる表情と相反するその動きが、妙に不快だ。
「ふふふふ、そんな顔をするでない。わたしがお前にどれほどの助力をしたか、もしや忘れたわけではあるまい?」
確かに、作品のアイディアはいつでも突然に閃く――悪魔的な唐突さで。
メモのとれない状況で脳の端を過ぎるアイディアに臍を噛んだことが、どれほどあっただろうか。
「ふふん、しかしそのいくつかは、きちんと作品に生かされたであろう」
確かにそうだ。
それこそ星の数ほど浮かんだアイディアの断片の本のひとかけらが、どうしても手放せず、熱情に駆られて一気に短編を書きあげるなんてこともざらだったのだから、
「いくらわたしが恩恵を与えてやっても、それを覚えとどめておけぬ人間の脳構造が悪いのだよ」
しれっと、そう言い放つと、悪魔は小さな指をぱちんと鳴らした。中空に紙の束が現れ、彼女の手の中に納まる。
「ふむ、『星界の女戦士』とな……」
紙束をめくりながら彼女が読み上げたタイトルに、俺は戦慄した。
あれは、今書いている、まさに最中の俺の原稿か!
「文体からして古いSFを意識しているのだな。だが、それが逆にこれがパロディであることを知らしめ、元ネタを探す糸口となる、悪くない手法だ」
「返せ! 読むな!」
「ほう? 他者に読ませるつもりのない物語を、お主は書いておるのかえ?」
「そうじゃない、それは書きかけだから……まだ人に読ませる段階のものではないと……そういうことだ!」
「くっくっく、詭弁をたれるなよ、小僧」
悪魔が紙の束をばさばさと振る。
「ならば聞こう、この物語をこれからどのように組み立てるつもりじゃ? 人に読ませる段階とは、どの時点をさすのじゃ? そもそも……」
うわん、と大きな耳鳴りの中、彼女の声だけがはっきりと響く。
「以前のお主は、そんなことさえ気にせずに書いておったではないか?」
「うるさい、だまれ!」
「あの頃のほうが文章に勢いがあった、発想に感服するほどでもあった、それが今じゃあこぢんまりと……言っちゃあ悪いが、凡庸じゃのぅ」
「黙れ黙れ!」
それは……最近の俺に対する皆の評価そのものだ。
「そんなこと、わざわざ言われなくたって俺自身が一番知っているんだよ!」
文章を書きなれてきたせいか、技術力だけなら確かに昔よりもあるだろう。だがその向上に伴うように、俺の発想力は枯れていくばかり。結果、先人の功績をなぞるだけのパロディですら筆を動かすことができずに行き詰まっているのだ。
「だいたいさあ、俺なんかこれが限界だったんだよ!」
創作歴が長くなればそれ関係の付き合いも増える。周りの評価もそれなりに上がる。
だけどそれだけだ。そこから上へあがれるでもなく、いまだにランキング下位をうろうろしている。
「俺はしょせん、自分じゃ光らない星だったんだよ! だから広い空へ出たら、誰も見つけてはくれない」
偽らざる本心と、プレッシャーの吐露。
しかし悪魔は静かに笑う。
「自分で光らない星は見えない……か」
ふと夜空を見上げれば、大きな星が一つ二つ輝いている。
「ふむ、こんなに明るい街では、この程度が限界か」
悪魔がさっと手を振った。街の明かりが突然に消える。
「これならどうだ」
地上からの光に封じられていた小さな光の粒たちは一気に輝きを取り戻し、家々の軒上に降るほどの星空が広がった。
「確かに光る星も、明るさの中では見えないものだ。お主は周囲の明るさに目がくらんで、自分が光っていることさえ気づかぬだけではないのか?」
「どうやら悪魔というのは、星には詳しくないんだな」
今度は俺のほうが笑った。なんだかむしゃくしゃした気持ちも紛れ込ませて、思い切り鼻先で笑った。
「光って見えるのは全部恒星なんだよ。つまりは自分で燃えている星、燃えているから何万光年も離れた地球からでも見つけてもらえるんだよ」
「お前こそ星に詳しくないな」
悪魔はまた笑った。口の両端をグイッと引き上げて、凄まじく笑った。
「例えばあそこにある赤い星、あれは火星だが、あれが自分で燃えている星でないことは知っているだろう。水星も金星も、あんなに輝いている月だってそうだ。ここから見ればどれもが輝いているではないか」
「そういうことじゃない。自分で輝かなくちゃ、みんなには見つけてもらえないんだ」
「自分で燃える星になりたいのか、お主は」
「そうだ。誰もが気づくほど強く輝くことができれば、誰もが俺の存在を認めないわけにはいかないだろう?」
「なんとも、人間というものは……欲深いのぅ」
夜空を見上げた悪魔は、握りしめたままだった紙の束を天に向けて投げ散らかした。
それは悪魔の魔法なのだろうか、勝手に小さく千切れ、爪先ほどになった髪辺の一つ一つに火がつく。ほんの一瞬、まるで流れ星のように燃えて、それは消えた。
「ならばお前を、燃える星にしてやろう」
「だが断る! 悪魔の親切なんて、怖くて受け取れるか」
「親切などではない。これは感謝だ」
「感謝? 俺はお前に感謝されるようなことをしたか?」
「わたしがどれほどに創作のためのアイディアを降らせようと、人は皆『創作の神』の御業だと信じたがる。まあ、それは仕方あるまい、心の内に悪魔が巣食っているなど、普通の人であれば認めたくもないからな。しかし、お前は、違ったな」
星が……満天の星がぐっとのしかかるような、そんな気がする。
「お前はわたしの存在を認め、時にすがり、賛辞をもくれた。もちろんその見返りに作品のためのアイディアを惜しげもなくくれてやったのだから、そこだけはわたしに感謝するのだぞ」
「違う! あれは俺が書いた、俺の作品だ!」
「おうおう、もちろんそうだとも。わたしがくれてやったのはアイディアに過ぎぬ。あれを形ある作品に練り上げたのは、すべておぬしの力量だ」
「俺の作品を……読んだのか?」
「読むというよりは、食った。わたしは文喰いの悪魔でな、文字に込められた人の心を喰らうのが大好きなのよ。だから、これはと思った作家には積極的に力を貸し、より旨い文章を書いてもらうことにしている」
「旨い文章っていうのは……まさか……」
「そう、魂のこもった文章よ」
思い当たることは……ある。
一作品書きあげた後のハンパない脱力と喪失の感覚、あれがまさに『魂削る』行為だったとは……
「まあ気にするでない。わたしが喰らった魂など、お主のほんの一部に過ぎぬ。わたしは悪魔の中でも慈悲深い性質で有名なのだ」
「俺が書けなくなったのは、まさか!」
「それはわたしのせいではないぞ。理屈ばかりを育てて、作家という業を手放したお主が悪い」
とことん馬鹿にしきったような「ふふん」という声が、少女の鼻先から漏れた。
もしもこの少女が悪魔なのだと知らなかったら、それは幼さが見せる無邪気な虚勢の姿だったのかもしれない。
だが、彼女が悪魔だと知っている俺には、それが禍々しい何かを含んだものであることがはっきりとわかった。
「お主は力を失っておる、自分の光を信じる力をな。まあ創作家にはよくあることよ」
少女の指が天をさす。俺の目は吸いつけられるようにその動きを追う。
「あそこに星がある。見えるか?」
「ああ、あの明るい星か。あれはベガといって、都会でも夜中になれば見える……」
「違う違う、その隣だ」
都会の明かりが消えた今、天空にちりばめられた星はまさに無数。数えることさえできないほど大小入り乱れて、網膜の奥に焼き付くようだ。
地上から指さされただけであの無数の星の一つを見分けるなど無理に決まっている。
「あの、ベガのすぐ横だ。ここからは200万光年、大きさはここの太陽より少し小さいくらい、だから人間どもは未だその星を見つけてはおらぬがな」
「それは見えない星なんじゃないか?」
「見えない星を存在しないもののように扱うのは、創作者としては恥じるべきだと思わぬかね」
少女の指先は点を指したまま。俺はそれに縫われでもしたかのように、星と星とのわずかな隙間、あるかないかわからないほどのわずかな漆黒から目を離せなくなっていた。
「よく見よ、星の息吹を聞け」
「そんなむちゃくちゃな……」
「何の無茶があるものか。見えぬ、聞こえぬなら近づいて確かめればいいのだ」
「それこそ無茶だ。むちゃくちゃだ」
「お主は……創作家の魂が自由であることさえ忘れたのか?」
少女の甲高い声がぼわんと、耳鳴りのように響いた。
「光年で数えなくてはならぬほどの距離も、界をまたいだ異世界さえ、全てはお主の中にある。その感覚を忘れたか?」
どこかで何かが鳴る。それは確かに、俺の中から。
(ああ、心の琴線というやつか)
細い一本が爪弾かれ、小さな音を立てたのだ。
その音は共鳴し、他の弦を揺らし、俺の体の中に確かな音となって沁みる。
「行きたいか、あそこに?」
その言葉に深い頷きを返した次の瞬間、星が降った。
いや、星は動いてなどいない。俺がのぼっていくのだ。
顔の横を一本の筋となった光がいくつもいくつも流れてゆく。足元からは地面が消え、光となった俺の体はどんどんと漆黒の中の、見えもしない星のほうへと吸い上げられて……。
「ふん、新しい餌を探さねばならん」
少女の声が聞こえたような気がしたが、それを確かめるにはもう……地球は遠すぎた。