届かなかった願いは雨に溶ける。
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
冷たい窓ガラスを叩く水音は、まるで誰かの指先が何度も、何度も、同じ場所を壊れたように叩き続けている音に似ていた。
薄暗い書斎。卓上に灯された小さなデスクライトの青白い光だけが、並べられた書類とインク壺の縁を湿っぽく照らしている。部屋の隅には、三年前に妻が死んでから一度も開けられていないダンボール箱がひとつ、埃とカビの匂いを纏って佇んでいた。
男はペンを置いた。
机の上に敷き詰められているのは、緻密に計算されたスケジュール表と、無数の写真だ。
死んだ妻の写真。笑う横顔、瞳を閉じた寝顔、髪を耳にかける角度。
そしてその隣には、彼の部下である女の写真が、同じ枚数だけ並べられていた。
同じ髪型に整えられ、同じ照明の下で撮られ、同じ微笑みを浮かべるように矯正された女。最新の写真に至っては、二人の輪郭の境界すら見分けがつかなくなっていた。
「あと少しだ」
呟いた男の声は、掠れて低く、乾ききっていた。
妻が死んでから、彼の時間は止まっていた。突風のように訪れた不慮の事故。何も遺さず消えた最愛。絶望の底で声を失った男が、いつしか「身近な器を使って妻を再構築する」という狂気にとり憑かれたのは、彼にとっては必然だった。
部下の女は、あまりにも優秀で、真面目で——そして、彼を酷く慕っていた。
――
女の精神の崩壊は、日常の隙間に滑り込むような、ごく小さな修正から始まった。
「その髪型を変えろ。もう少し、右の持ち上がりを抑えるんだ」
彼女は鏡の前で指を震わせ、彼の指示通りに髪を整えた。
鏡に映る自分の顔が、少しずつ自分のものではない何かにすり替わっていく違和感。けれど、作業を終えた彼女の背後から彼が近づき、満足そうに頷いた瞬間、胸の奥が焼きつくような熱で満たされた。
「……上手く、できましたか」
「ああ。似ている」
その一言が、彼女にとっての唯一の酸素だった。
彼に必要とされた。彼に認められた。
それだけの理由で、彼女は自分の輪郭が少しずつ削り取られていく激痛を、快楽として受け入れた。
次に、匂いを塗り替えられた。
妻が愛用していた、重く甘い百合の香水。肌に吹き付けた瞬間、鼻の奥がツンと痛み、自分の皮膚の下から「私」という存在が追い出されていく感覚に襲われた。
彼女は彼が見ていない隙に、そっと自分の袖口に鼻を寄せ、かすかに残る自分の汗の匂いを探した。
(まだ……私は、ここにいる)
安堵の息を吐き出す。しかし、夜の廊下で彼から「いい匂いだ」と短く囁かれたとき、彼女は歪んだ笑みを浮かべた。
自分の匂いなんて、消えてしまえばいい。彼に愛されるのなら、私なんていくらでも塗り潰されてしまえばいい。
二週間後には、声の矯正が始まった。
「その語尾の跳ね方は使うな。もっと深く、息を混ぜて話せ」
暗い部屋で、繰り返し再生される亡き妻の録音データ。
彼女は鍵をかけた部屋でひとり、鏡に向かって同じフレーズを数百回、数千回と呟き続けた。
唇の動き、舌の位置、喉の鳴らし方。
ある夜、ふと鏡を見た彼女は、全身の血が凍りつくのを感じた。
鏡の中に立っているのは、死んだ彼の妻だった。
「……私は、だれ?」
声を出してみても、返ってきたのは妻の完璧な抑揚だった。
恐ろしさに身体が震えた。けれど、その直後、ドアを開けて入ってきた彼が「完璧だ」と愛おしそうに彼女の頭を撫でたとき、彼女は涙を溢れさせながら、その温もりに縋りついた。
彼に撫でられるこの一瞬のために、自分を殺し続ける。
冷酷な命令よりも、彼が見せる「自分を求めているような優しい目」の方が、彼女の自我を狂わせ、溶かしていく。
(あなたが望むなら、私はなんだって差し出す)
自分の名前が、意識の遠くへ押し流されていく。
自我が削れる痛みは、やがて麻痺し、心地よい空白へと変わっていった。
彼女は、自分の中に生まれた空白を、自ら進んで彼に差し出すようになった。
本を開いても字面が滑る。音楽を聴いても何も感じない。自分の好きだった服をあてがっても、鏡の中の「妻」が不気味に笑っているだけ。
(私、何が好きだったんだっけ……? ううん、いいの。私の好きなんていらない。あの人が私を好きになってくれれば、それでいい)
彼女の狂気的な執着は、さらに加速した。
彼が自分の中に「妻」を見ていると知りながら、彼女は彼が去ったあとの無人の部屋で、自分の腕を痛いほど強く抱きしめて、暗闇に向かって囁くのだった。
「……これで満足でしょう? あなたの望む通りの女になってあげたよ。だから、あんな死んだ女じゃなくて、この身体を、私だけを見て」
完璧な身代わりを演じながら、その内側では「私を見てほしい」というドロドロとした独占欲が、黒い毒のように渦巻いていた。
けれど、彼女の最後の抵抗は、雨の激しい夜に訪れた。
訓練の合間、彼女は震える指先で、彼の黒いジャケットの袖口を掴んだ。すがるような、消え入りそうな力だった。
「……私は、どうなってもいいです」
ガラスを叩く雨音が、二人の間に重く横たわっていた。
「あなたが……このままじゃ壊れてしまう。奥様の幻影ばかり追いかけて、過去に殺されそうになっているあなたを見るのが……胸がちぎれるほど苦しいんです。私は、私という存在なんてどうなってもいい。……だからお願いです。目を覚ましてください」
それは、彼女の崩壊した自我から絞り出された、最初で最後の「彼への救済の願い」だった。
自分を犠牲にしてでも、彼を過去の呪縛から救いたかった。
だが、男の瞳にあったのは、冷酷な拒絶だった。
男は彼女の手を、氷のように冷たい動作で振り払った。
「二度とそんな口を叩くな。君は——彼女になるんだ」
その瞬間、彼女の中で何かが決定的に、修復不可能な音を立てて爆ぜた。
「目を覚まして」と願った自分の声が、どこか遠い場所へ吹き飛ばされていく。
次の瞬間には、その声を上げた「私」という人間が誰だったのかすら、分からなくなっていた。
拒絶された絶望。愛されたいという狂気。
彼女は、残された最後の抵抗を諦め、進んで狂気の底へと身を投げた。
思考が真っ白に染まっていく。もう痛くない。もう怖くない。ただ、彼に愛される人形になればいい。
――
そしてついに、男は確信した。
——完成だ、と。
窓の外で雨脚が強まった。男は衝動に突き動かされるように、部屋の隅にある埃を被った段ボール箱へ歩み寄った。
開け放たれた箱の底、湿ったカビの匂いの中に、一通の黄ばんだ封筒が沈んでいた。
宛名には、亡き妻の丁寧な筆跡で、彼の名前だけが書かれている。
未開封の手紙。なぜ今まで気づかなかったのか。
震える指先で封を破る。紙が裂ける音が、雨音に混ざり合う。
便箋を開いた瞬間、妻のなつかしい文字が跳び込んできた。
『あなたへ』
手紙を読み進めるにつれ、男の顔から血の気が失われていった。
『私が死んでも、どうか私に囚われないでください。あなたがいつか、別の誰かを心から愛し、その人と新しい未来を生きてくれることだけが、私のたった一つの祈りです。私の記憶を、あなたの心を繋ぎ止める檻にしないで。私を愛してくれたその優しさで、どうか……新しい誰かを、ちゃんと愛してあげてください』
「あ……が……っ」
喉から、声にならない苦悶が漏れた。
指が激しく震え、手紙にボタボタと涙のシミが広がっていく。
三年間。自分が神聖視し、追い求め、目の前の少女を壊してまで再構築しようとした「妻の願い」。
そのすべてが、真逆だった。
妻は自分に囚われることを望んでいなかった。
自分が誰かの人生を踏みにじり、地獄を作ることを、誰よりも拒んでいた。
そして、脳裏に炸裂するように、あの夜の部下の声が蘇った。
『私なんてどうなってもいい。……お願いです、目を覚まして』
届かなかった、声。
彼女は、自分を殺してまで自分を救おうとしてくれたのだ。
なのに自分は、その手を容赦なく振り払い、彼女の心を踏みにじり、泥の中に叩き落とした。
「俺は……俺は、なんてことを……!!」
手紙を握りしめたまま、男は狂ったように書斎を飛び出した。
廊下の暗闇を駆け抜ける。冷たい空気が肺を焼く。
彼女に与えた、「妻の部屋」のドアを乱暴に開け放った。
部屋の中は、静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込む青い月光と雨の影の中、彼女は部屋の隅に座り込んでいた。
膝を抱え、壁に背を預け、虚空を見つめている。
かつての優秀で、まっすぐな瞳をした部下の面影は、もうどこにもなかった。
髪型、佇まい、指先の角度——すべてが、妻そのものだった。
「すまない……っ! すまない、ヴァレリア……!!」
男は彼女の足元に力なく崩れ落ちた。
床に額をこすりつけ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「俺が間違っていた! 頼む、許してくれ! もう二度と身代わりなんてさせない、君は君のままでいいんだ! どんな罰でも受ける、だから……俺の元へ戻ってくれ! 目を覚ましてほしかったんだろう!? なのに俺は……君を……!」
男の喉から吐き出される、遅すぎた正気と悔恨の叫び。
彼女は、ゆっくりと首を動かした。
膝に置かれた指先が微かに揺れ、彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ——消えかけたろうそくの火のような「かつての彼女の光」が宿った。
彼女は、か細く、疲れ切った微笑みを浮かべた。
妻の作り笑顔ではない、彼の部下だった少女の、哀しい笑顔。
「……遅かったね」
掠れた、けれど確かな彼女自身の声が、静かに部屋に落ちた。
そして——それが、彼女という人間がこの世に残した最後の言葉となった。
次の瞬間、瞳の奥にあった光が、すうっと完全に沈黙した。
彼女の表情が、まるで冷たいプラスチックが成形されるように、滑らかにすり替わる。
首をちょこんと小首を傾げ、完璧な抑揚と、息を混ぜた甘いトーンで——妻の声が響いた。
「どうしたの、あなた? そんなところで泣いたりして」
「あ……っ、ああぁ……っ!」
男は絶叫した。
目の前の女は、彼が三年間かけて徹底的に叩き込み、矯正し、完成させた「妻の仕草」で、ゆっくりと彼に手を伸ばした。
彼女の細い腕が、男の首に回される。
その抱きしめ方、背中を撫でる指のスピード、体温の預け方——すべて、彼が鏡の前で彼女の身体に刻み込んだ「亡き妻の癖」そのものだった。
自分が作り上げた冷たい拷問器具に、自分自身が抱きすくめられている。
「私はどこにも行かないわ。ずっと、あなたのそばにいるって……約束したでしょう?」
彼女は男の頬に手を添え、涙を優しく拭った。
指の感触すら、妻の柔らかさに似せられている。男は吐き気と激しい恐怖に襲われながら、狂ったように首を振った。
「違う……! 君は、君はヴァレリアだ! 頼むからヴァレリアに戻ってくれ!!」
「まあ、変な人」
彼女はころころと無邪気に笑った。
かつて妻がよく見せていた、愛らしく、そして今となっては空虚な嘲笑。
「私が誰だか忘れちゃったの? あなたの愛しい、妻でしょう?」
完成してしまったのだ。
男が執着した狂気と、女が愛されたさに差し出した狂気が、完璧な形で結実してしまった。
手紙が届くのも、遅すぎた。
彼女の声を聞くのも、遅すぎた。
男が目を覚ますのも——すべてが、取り返しのつかない地点を過ぎたあとの出来事だった。
彼女の最後の自我が遺した「遅かったね」という言葉は、二度と誰にも届かない闇の底へ消えた。
「……すまない……すまない……」
男は、妻の形をした人形の胸の中で、声にならない謝罪を繰り返すことしかできなかった。
もう届く相手はどこにもいないのに。
彼女は優しく、男の髪を撫で続けた。
「大丈夫よ。私はここにいるわ。……あなたが望んだ通りに」
刃のように男の胸を刺す言葉。
そうだ。これは彼が望み、彼女が命を賭して叶えてしまった「結末」だった。
――
雨は、夜の深まりとともにしとしとと降り続いていた。
密室の中、男は完璧な妻の微笑みに抱かれながら、永遠に明けることのない水底へと沈んでいく。
一度壊れた心は、二度と元には戻らない。
男はこの先死ぬまで、自分が殺した少女の身代わり(人形)に愛されながら、終わりのない贖罪の地獄を生き続ける。
「さあ、立って? 体が冷えてしまうわ。夜は……まだ、こんなに長いのだから」
完璧で、優しく、そしてどこまでも虚無な声が、雨音の中に溶けていった。
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