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婚約破棄フラグが立ったので、早めにへし折っておきます

作者: よるの 余白
掲載日:2026/10/01


 ◇


 殿下の頭上に、旗《フラグ》が立った。


 王宮の夜会、ワルツの2曲目。

 シャンデリアの下で完璧に微笑む私の婚約者、

 エリアス王太子殿下の頭のすぐ上に、

 しゅるりと音もなく細い竿が伸びて、

 畳まれた布の先がのぞいた。


 布には字が書いてある。

 畳まれていても、私には読める。


 ――婚約破棄。


 された側が泣き、した側があとで悔やむ、

 物語でおなじみのあの旗が、

 開き1割の初々しさで婚約者の頭に生えていた。


 私は扇の内側で、ため息をひとつ畳んだ。


 よろしいでしょう。

 立ったばかりの旗《フラグ》は、まだ根が浅い。


 ――開ききる前に、へし折っておきます。


 ◇


 王宮の名簿の、王太子殿下の婚約者の欄には、

 ヴィオラ・アルディス、伯爵家長女とございます。

 「旗《フラグ》が見える」とは、書いてございません。

 書く欄が、ないのです。


 人の頭の上には、旗が立ちます。

 未来の芽、とでも言いましょうか。

 「昇進」「結婚」「借金」「醜聞」。

 起きるかもしれないことが、布に書かれて立つ。

 社交界では、「醜聞」がいちばん育ちがよろしい。


 立った時は、固く畳まれています。

 事が近づくほど、風もないのに開いていく。

 開ききったら、成就。

 その前に根を断てば、ぽきり、と音を立てて折れます。


 根というのは、原因のことです。

 旗は必ず、何かの上に立つ。

 出会いの予定。抱えた借金。隠した嘘。

 それを潰せば、旗は立っていられません。


 祖母も、見える人でした。

 教わったことは、三つ。


 一つ。旗は運命ではない。ただの見込みだ。

 二つ。自分の旗だけは、見えない。

 三つ。折るなら根を折れ。布を掴んでも手は素通りする。


 それから、約束がひとつ。

 見えることは、誰にも言わない。


 祖母の形見の簪を、私は今日も髪に挿しています。

 旗竿の先を削って作ったのだと聞かされた、

 銀色の小さな簪です。

 本当かどうかは、確かめようがありませんが。


 簪には、手紙が一通、添えられていました。

 一度だけ読んで、引き出しの奥にしまってあります。


 ◇


 白状しますと、私は立った旗を折らずにいられません。


 領地の若い衆に「借金」の旗が立てば、

 賭場の借用書ごと根を潰しに参りますし、

 洗濯係の娘に「解雇」の旗が立てば、

 原因の銀器泥棒のほうを先に捕まえておきます。


 小さい旗も、あります。

 「寝坊」の旗。「靴擦れ」の旗。

 先日は料理長の頭上に「ぎっくり腰」が立ちました。

 小麦袋の置き場を腰の高さに変えさせたら、折れました。

 本人は今も、何も知らずに腰を反らせています。


 行儀のよい趣味でないことは、承知しています。

 ですが、見えていて折らないのは、

 雨雲が見えていて洗濯物を取り込まないのと同じこと。

 性分です。


 その性分の女の婚約者の頭に、

 「婚約破棄」が立ったのです。


 泣く前に、やることがあります。


 ◇


 旗の根を探すには、まず観察から。


 殿下の身辺を3日ほど眺めると、根はすぐ知れました。

 王立図書館の司書補、ソレイユ・ミュゲ男爵令嬢。

 殿下が公務の合間に週2度通う閲覧室で、

 お二人は本の貸し出し越しに、よく笑っておいででした。


 なるほど。物語の筋書きどおり。

 婚約者のある王子と、身分違いの心優しい娘。


 手口は簡単です。

 閲覧室の席替えを、司書長への正当な寄付と共に

 お願いしました。王族の警護上の理由、として。


 「警護の都合でございます。寄付のほうも、警護の都合で」

 窓際の席は仕切られ、貸し出しは従者経由に。

 お二人の動線は、これで交わりません。


 その晩、離宮の窓から確かめました。

 殿下の頭上の旗が、ぽきり。


 良い音でした。

 簪に触れて、祖母に小さく報告をひとつ。

 仕事納めの気分で、私は眠りました。


 ――1週間後。

 同じ場所に、また立ちました。

 開き2割。前より、育ちが早い。


 ◇


 2本目の根は、園遊会の招待客名簿と読みました。

 殿下の従者に助言をして、

 名簿から「偶然の再会」の芽を取り除きました。


 ぽきり。


 2週間後、3本目。開き3割。


 3本目を折った夜、私は認めました。


 根は、ソレイユ嬢ではない。


 正しく根を断った旗は、二度と立ちません。

 立ち直るということは、私が折ってきたのは

 枝であって、根ではないということ。


 念のため、ソレイユ嬢ご本人にも会いました。

 偶然を装って、図書館の帰り道で。


 気立ての良い、本の話になると早口になる方でした。

 そして何より――彼女の頭上には

 「良縁」の旗がのんびり4割ほど開いていて、

 その竿は隣を歩く同僚の司書のほうへ、

 わずかに傾いでいたのです。


 旗は、傾いだ先に相手がいます。

 殿下では、ありませんでした。


 私は帰りの馬車で、扇を握り直しました。

 これで振り出し。

 根は、もっと深いところにある。


 ◇


 ここで白状しておくと、殿下と私は、

 世間で言う政略の婚約者にしては、仲が悪くありません。


 月に2度、定例の茶会があります。

 議題は社交の予定合わせという建前ですが、

 実際の中身は、菓子と悪口です。


 「ヴィオラ。先週の夜会で財務卿が言っていた。

  『アルディス家の娘は、いるのかいないのか

  分からん』と」


 「光栄です。壁は、いるのかいないのか

  分からないくらいが上等ですので」


 「君は壁ではないだろう」


 「壁です。よく手入れされた、聞き耳のいい壁です」


 殿下には、焼き菓子を二つに割って、

 大きいほうを私の皿に置く癖があります。

 ご本人は気づいておられないと思います。

 私は気づいていますが、申し上げません。


 「そういえば、前から聞きたかったんだが。

  君はたまに、人の頭の上を見るね」


 「髪型の流行を、調べております」


 「僕の髪型は、そんなに面白いか」


 「ええ、まあ。近頃は特に、動きがございまして」


 嘘は申しておりません。


 この人が笑うと、頭上の婚約破棄の旗が

 少し揺れるのが、私は毎回、癪でした。

 癪なので折っているのだと、

 その頃はまだ、そういうことにしておりました。


 ◇


 思い返せば、妙なものを見てはいたのです。


 殿下の婚約破棄の旗の竿に、

 影が重なって見える日がありました。

 もう一本、細い竿が、後ろにぴたりと添うように。

 布は見えない。畳まれてすらいない。

 ただ、竿だけが。


 旗が2本重なって立つのを、

 私は20年、見たことがありません。

 祖母の言い置きにも、ありません。


 4本目の旗が立った朝、

 私は小細工をやめて、正面から参りました。


 ◇


 王太子の執務室の前で、取り次ぎを待ちました。

 長い廊下に、衛兵の甲冑の音がひとつ、ふたつ。

 通された部屋で、お茶が運ばれ、

 湯気が細くなるまで、どちらも黙っていました。


 簪に、指で触れました。

 握ると指の止まる、祖母の簪です。


 「殿下。単刀直入に伺います。

  私との婚約を、破棄なさるおつもりですか」


 殿下の顔から、作り笑いが剥がれるのが見えました。

 湯気より、少し速い速度で。


 「……なぜ、それを」


 「女の勘です」


 旗のことは申しません。祖母との約束ですので。


 殿下は長く黙って、それから、

 執務机の鍵付きの引き出しから、

 小さな布包みを出して机に置きました。


 開くと、砕けた焼き菓子でした。


 「毒見役が倒れた。この3か月で、2度目だ」


 ◇


 王位継承。叔父上の派閥。じわじわと縮む包囲。

 殿下は他人事のような声で、順に並べていきました。


 「僕はいい。生まれた時からの持病のようなものだ。

  だが君は違う。婚約者のままでは、君も的になる。

  ……だから、破棄する。理由は僕の側で作る。

  君は被害者の顔で王都を離れ、それで」


 「お断りします」


 お言葉の途中でしたが、切らせていただきました。


 「僕は君を守ると言っている」


 「守られる筋合いがございません」


 殿下の頭上を、私は改めて見ました。


 婚約破棄の旗、開き4割。

 その後ろに添う、影のような細い竿。


 目を凝らして、初めて布が見えました。

 影のように薄い布に、透かしのような字が。


 ――死亡。


 開き、7割。


 膝の上で、指が簪を握っていました。

 声が揺れなかったのは、簪のおかげです。


 「殿下。その謀りごと、

  根ごとへし折らせていただきます。

  私、そういうのが得意ですので」


 「……得意?」


 「ええ。実績なら、殿下の頭の上に3本ほど」


 殿下は意味が分からなかったと思います。

 分からないままでいいのです。


 ◇


 断っておきますと、旗は証拠になりません。

 「頭の上に旗が見えます」と証言して通る法廷は、

 この国にはありません。残念ながら。


 ですが旗は、どこを掘ればいいかを教えてくれます。


 私は夜会に出ました。3晩、続けて。

 壁の花のふりをして、扇の上から観察するのです。


 叔父上の派閥の頭上は、壮観でした。


 財務卿の頭に「昇爵」。開き6割。

 その夫人に「新しい別荘」。開き5割。

 事が成る前から、褒美の旗だけが先に育っている。

 気の早いことです。


 財務卿は、扇の内の私に気づきもせずに仰いました。


 「殿下も近頃、お加減が優れぬとか。冬までもてばよいが」


 余談ですが、2晩目には、

 婚約したての若いお二人の頭上に、

 「結婚」と「逃亡」が並んで立っているのも

 見つけました。どちらも開き5割。

 世の中には、祝いの直前で足がすくむ型の方も

 いらっしゃいます。あちらは旗の管轄外です。


 中でも見事だったのが、宰相府の若い書記官でした。


 「昇爵」と「逃亡」。

 同じ頭の上に、正反対の2本。


 成功すれば爵位、失敗すれば国外へ。

 両方の見込みが同時に立っている男。

 ――つまり、実行役です。


 二本旗の謎が、ひとつ解けました。

 己の身を賭けた者の頭には、裏表の旗が立つのです。

 殿下の頭の2本目は、誰かが殿下の命を

 賭けの札にしている、ということでした。

 賭け手の頭に裏表が立ち、札にされた者の頭には、

 その影が映る。布があんなに薄いのは、そのせいです。


 私は書記官の根を洗いました。

 通う酒場。抱えた借金。

 そして、王宮の厨房に奉公する、彼の妹。


 毒の通り道は、こうして紙に書ける形になります。

 あとは父と、王宮警務の領分です。

 伯爵家の娘の仕事は、掘る場所に印をつけるまで。

 父には「娘の勘です」で通しました。

 父は「お前の祖母も、よくそう言った」とだけ。


 急ぐ理由も、ありました。


 書記官の根を洗っていた10日の間に、

 殿下の頭上の細い旗は、8割まで開いていたのです。


 開ききったら、成就。

 旗の決まりは、良い旗も悪い旗も同じです。


 ――と、申し上げたのですが。


 「僕も出る」


 殿下は、聞きませんでした。


 「的が囮を兼ねるのが、一番早い。

  僕は夜会に出て、いつも通り笑って、

  いつも通り、菓子をつまむふりをする」


 「毒見はどうなさいます」


 「君が隣で、僕の皿から大きいほうを取ればいい」


 「殿下。それは毒見と言いません」


 「知っている。だが君は、危ないものの見分けが

  つく人なんだろう。……前から、そんな気がしていた」


 勘のいい婚約者というのも、考えものです。


 ◇


 半月後の夜会に、私は殿下の隣で出ました。


 殿下は完璧に笑い、完璧に踊り、

 完璧に、皿の菓子へ手を伸ばすふりだけをしました。

 割る仕草だけは、本物でした。

 大きいほうが、私の皿に来ます。

 食べません。今夜は二人とも、ふりだけです。

 私は扇の内で、給仕の頭上ばかり数えていました。

 「昇給」がふたつ、「里帰り」がひとつ。

 どれも、罪のない旗ばかりです。


 そして殿下の頭上の細い旗は――9割。


 薄い布の字が、もうはっきり読めました。

 読めてしまうのが、旗というものの

 いちばん嫌なところです。


 音楽が3曲目に入った時、広間の扉が開きました。


 衛兵が広間に入り、宰相府の書記官が、

 静かに連れ出されていきました。

 妹に宛てた文は、届いた先で父が押さえています。

 厨房に運び込む「調味料」の指示が、几帳面な字で。


 几帳面は、ときどき身を滅ぼします。


 広間の隅で、財務卿の顔が白くなっていくのを、

 私は扇の上から拝見していました。


 頭上の「昇爵」の旗が、震えて、

 布の字が、みるみる滲んで――


 「失脚」に、書き換わりました。

 隣の夫人の「新しい別荘」は、「実家」に。


 財務卿は青い顔で退出する途中、

 私の前で一度だけ、足を止めました。

 いるのかいないのか分からない娘の顔を、

 初めて、まっすぐご覧になったのです。


 「……アルディス家の、娘か」


 「はい。本日は、いるほうでございます」


 壁というのは、こういう日のためにやっております。


 私は扇を3寸下げて、会釈をひとつ差し上げました。


 旗が書き直される瞬間を、私は初めて見ました。

 祖母も、たぶん見たことがないと思います。

 簪に触れて、ご報告をひとつ。


 おばあさま。旗は、書き直せるものだそうです。


 ◇


 その夜、殿下の頭上で、細い竿が消えました。


 ぽきり、ではありませんでした。

 しゅう、と息を吐くように縮んで、

 開きかけた「死亡」の布が、ほどけて消えたのです。


 折ったのではありません。賭けが、流れたのです。

 影は折れずに、消えるものらしい。


 そして、婚約破棄の旗は――


 折っていないのにゆっくり傾いで、

 自分から畳まれて、落ちました。


 根から生えた旗は、根の事情が変われば、

 自分から降りるのです。


 殿下が私を遠ざける理由は、

 もう、どこにもありませんでした。


 ◇


 後日、離宮の庭園に呼ばれました。


 人払いをした東屋で、お茶が二つ。

 殿下は、砂糖を3杯も入れながら言いました。


 「叔父上は幽閉。財務卿は爵位返上。

  ……父上は、全部を知っていて泳がせていたらしい。

  僕の周りで唯一動いたのが、君の家だった」


 「偶然です。父が有能なもので」


 「ヴィオラ」


 殿下は茶器を置いて、姿勢を正しました。


 「三つ、聞きたい。

  図書館の席替えは、君か」


 「司書長のご判断です」


 「園遊会の名簿は」


 「従者どのの、忠義です」


 「……僕が誰にも言っていない計画を、

  君はなぜ、朝一番に折りに来られた?」


 私は茶を一口いただいて、時間を稼ぎました。

 稼げませんでした。


 「殿下は、机の引き出しに鍵をかける方です。

  鍵をかける人の考えは、顔に出ます」


 「僕は社交用の顔には自信がある」


 「ええ。その自信が、一番顔に出ておいででした」


 殿下は少し黙って、それから、

 声を出して笑いました。

 夜会用ではない笑い方を、私は初めて見ました。


 「ヴィオラ。最後にもう一つだけ」


 「はい」


 「君がいつも見ているものは……いや」


 殿下は首を振って、おやめになりました。


 「聞かないでおく。それが何であれ、

  僕はそれに、命を拾われたらしいから。

  ……その代わり、君が人の頭の上を見ている間、

  僕は君の顔を見ている。

  前からそうしていたが、今後は隠さない」


 ◇


 その時です。


 殿下が笑いを収めて、妙に姿勢を正した、

 その頭のすぐ上。


 しゅるり、と新しい竿が伸びました。


 真新しい布の先が、のぞきます。


 ――求婚。


 開き、1割。


 私は視線を悟られぬよう、茶器に落としました。


 折り方なら、心得ています。

 根はどうせ、この茶会のどこかにある。

 席を立つ。茶をこぼす。父の急用をでっち上げる。

 潰す手なら、10はございます。


 指は、簪に伸びませんでした。


 祖母の手紙を、思い出していたのです。

 引き出しの奥に、一度きりでしまった手紙。


 『自分の旗だけは、見えない。

  だから、折りたくない旗に出会ったら、よくお聞き。

  それはたぶん、お前の頭の上の旗と、

  根っこのところで、結ばれている』


 「ヴィオラ」


 殿下が、咳払いをひとつ。

 頭上の旗が、2割、3割と、

 見ている間に開いていきます。


 早い。早いですよ、殿下。

 旗というものは、もっとこう、じっくり――


 「僕は、その……君に」


 4割。5割。


 婚約破棄の旗は、根からへし折りました。

 ですが、この旗は。


 開ききるまで、見ないふりをしてさしあげます。


 おしまい。


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