彼と私の、越えられない恋について
高橋大翔が走り高跳びをする姿を初めて見た時、人はこんな風に跳べるのかと思わず見惚れてしまったことをよく覚えている。
高さはそれほどでもなかった。そもそも私と同じく陸上部に入ったばかりの、まだろくに練習もしていない新入生だ。記録に残るものでもない、ただ跳んだだけ。
けれど、私の目に焼き付くには十分過ぎて、私はその瞬間に彼に恋をした。
五時間目は美術で、私はみんなより少し自画像の制作が遅れているから早めに美術室に行こうと一人で廊下を歩いていると、窓から下を見下ろしている大翔がいた。
なにしてるんだろ、とちらりと視線を向けるとちょうどこちらを振り返った大翔と目が合った。
「真紀」
高橋くんって顔はまあまあいいけど、ちょっととっつきにくいよね。と苦笑されているのが嘘のような人懐こい顔で名前を呼ばれる。
反射のようにドキドキと高鳴る胸にももう慣れてしまった。手を当てなくても、落ち着けと思うだけで当たり障りなく、どうしたのと笑い返せる程度には。
「ちょっとこっち来いよ」
「……私、次美術だから」
「いいから」
焦れたように大翔が近寄ってきて、指を引っ掛けるように私の手首を緩く掴んだ。そのまま軽く引っ張られる。無理に連れて行こうとする動作ではなく、こうすれば私が来るだろうと信じ切った行動だった。
こうまでされて着いていかないって選択肢はない。呼び止められたことだって、顔には出さないようにしてたけど本当は嬉しかった。
「ほら」
下を軽く指差す大翔の顔は、昔おばあちゃんの家にいた犬のジョンに似ていた。自慢そうな顔でおもちゃを咥えて私に見せに来る、あれに似ている……
なんて口にしたら失礼だと怒られそうなことを思いながら下を覗き込むと、談笑しているらしき男子生徒が数人いた。上履きの色を見るに多分先輩だろう。
その一人が私と大翔と同じく陸上部の先輩だったので、なるほどとすぐに納得する。むしろ気づかなかった私が鈍感だった。大翔がこんな顔をする相手はあの先輩くらいだから。
「ああ、遠野先輩を見せたかったんだ」
「なんだよ、その気のない返事は」
せっかく教えてやったのに、と言わんばかりの表情に思わず笑ってしまう。
大翔は遠野先輩のことが好きだ。そして私も遠野先輩のことが好きだと勘違いしている。だからこうして呼んでくれたのだ、私が喜ぶと思って。違うよ、と誤解を解くのは簡単だけど言う気はない。
だって私が好きなのは大翔だから。そのことを決して大翔に気づかれるわけにはいかない。
大抵の人にツンツンしている大翔がここまで気を許しているのは男の人を好きになるということを私が知っているからだ。誰かに知られたのは初めてだと言っていた。
そして私と仲良くしているのは、同じ人が好きだという仲間意識からだろう。有り体に言えば恋バナができるのが楽しいのだ。気持ちはわかる。
だから、私は気づかれるわけにはいかない、この恋心を。気づかれたらこの関係は終わってしまうから。
ふと遠野先輩が顔を上げた。そして窓から後輩たちが顔を覗かせていることに気づいたのだろう、照れくさそうに笑ったかと思うと小さく手を振られた。
「遠野先輩、手、振ってくれてるよ。振り返しなよ」
「むりむりむりだろ」
「なにが無理なの」
嫌がる大翔の手首を掴んで上げさせる。さっきの大翔よりいささか強引と言える。
「ほーら」
そう言って半ば無理やり大翔に手を振らせる。指までは広げられなかったから拳をぶんぶん振っているのに近いけど。
「うわあ!」
「え、うるさ……」
落ち着きなよ、と宥めるように言うと、誰のせいだよ! と怒られてしまう。
遠野先輩がさっきよりも明らかに手を振り返してくれた。ほら、手を振らせて正解。
「よかったね?」
「よくねえ、全然よくねえ……俺、変な顔してなかったか?」
「してたと思うけど、まあ大丈夫だよ。下からじゃそんなに見えないって」
なんにも信用ならねえ、とうろんげな目で見られる。手を振り合えて嬉しかったって素直に言えばいいのに。
言い合っているうちにチャイムが鳴ってしまう。
「あーあ、早く行こうと思ってたのに」
「知らねえ」
「自分が引き留めたくせに」
まったく、とため息を吐いてから、ぽんぽんと背中を叩く。なんにも意識してない友達のフリで。
「じゃ、また放課後、部活で」
そう言うと、微かにひらひらと手を、というより指を振ってくれて、思わず素で笑ってしまった。
大翔のそういうところが私は好きだ。
それは大翔と私がちょうど休憩している時だった。部活では大翔は走り高跳び、私は長距離走をやっていたから、同じ部活内でも関わる機会がそんなに多かったわけではない。
私はその時すでに大翔が好きだったけど、大翔はよくわからないポイントでキレるちょっと近寄り難い人、という噂が既に隣のクラスの私にも伝わっているような人だったから、話しかけていいものかずっと躊躇い続けていた。
ふと大翔が何かをじっと見つめていることに気がついた。
なんだろうとそちらに目をやると、走っている遠野先輩がいた。少人数の陸上部の中で一番目立つ先輩だ。去年の大会はかなりいいところまでいったと聞く。
その遠野先輩を大翔はじっと目で追っていた。熱い眼差しだった。まるで俺を見返して欲しい、こっちを見て欲しい、と悲しくなるほど切実に訴えているような目だった。
面白いことに遠野先輩がこちらに目をやると、なんの興味もありませんという風にさっと視線を逸らすのだ。
私はその顔を盗み見ながら自然に、ああ好きなんだろうなと思った。好きな人のことだから気づいたのかもしれない。
それはあまりにも静かな失恋で、私はなんだか身体の芯がすとんと抜かれてしまったかのような心地で、なんにも考えずに口を開いた。
「好きなの?」
ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。それを聞いて、あ、と思う。こんな風に口にして欲しいことじゃなかったのかもしれない。
大翔はまるで敵でも見つけたかのような目で私を見ていた。それは私を傷つけるものでもあったけど、なにか言わなければならないという思いの方が強かった。
敵意は恐怖の裏返しではないかと思ったからだ。大翔は自分の大事なものを取り上げられた子どものようにただ私を睨んでいる。怒ることも喚くこともできずに、ただ体を硬くして。
「かっこいいもんね」
なんでもないように、そう口にした。大翔の目が少し緩んで二、三度瞬きする。
遠野先輩、と囁くように言う。風が私たちの前髪を揺らして、汗をさらっていった。
大翔は何度も何度も迷うように視線を彷徨わせ、私と遠野先輩を何度も交互に見て、それからまるで告白する前かのような緊張した顔をして、こくりと小さく頷いた。
その日から、私は大翔に信用されるようになった。本当のことを隠している罪悪感は常にあるけど、それにももう慣れた。
長距離走のようなものだ。慣れてないうちは苦しくて早く終われと思うけど、慣れてしまえばそういうものだと思うしまだ終わってほしくないとすら思う。
この苦しさの代わりに恋した人の隣にいられるならば、私はずっと走り続けられる。
部活に行けば遠野先輩と会えるというのも大翔が部活好きの理由の一つらしいが、一番の理由は跳んでいる最中は遠野先輩のことを一瞬でも忘れられるということらしい。
ぐるぐると体中を暴れる熱がほんの一時期でも冷まされるのだという。地面に降り立った瞬間に現実へ引き戻されるらしいのだけど。
言っちゃえばいいのに、と無責任に囃し立てたこともある。ばか、と笑って一蹴された。できるわけないだろと悲しい言葉も付け足されたのでそれから一度も言っていない。
たった一本の棒で明確に区切られた宙を軽々と越える大翔でさえ、思い切って越えることが難しい遠野先輩への想い。
そんな大翔が好きな部活が今日は休みだ。私は顧問の都合の急な休みをラッキーと受け取り、早く帰って撮り溜めたドラマを見ようと思ってたのに、不服そうな大翔に玄関で呼び止められた。
くいくいと人の邪魔にならない端まで連れて行かれる。
「駅前にカフェが」
唐突な言葉に、は? と聞き返してもそれ以上の言葉はすぐに出て来なくて推測する羽目になる。
「あー、そういえば、できたらしいね? なんだっけ、パンケーキがおいしいんだっけ?」
「……先輩がすでに行ったらしく」
ぼそぼそと小声で言われる。私と大翔の背がほとんど変わらないので近くにいる分にはこれで聞こえるけど、どちらかの背がもう少し高かったり低かったりすれば厳しかっただろうという声だ。
「これは俺も行っておくべきじゃねえかと」
「いやー、べきではないんじゃないかな、べきでは」
「でも誘ってもらえてねーってことは一緒には行けないだろうし」
遠野先輩は時々部活のメンバーを連れてカラオケとかファミレスに行く。私も一緒に行ったことがある、というか大翔に問答無用で連れて行かれた。絶対に参加したいけど、自分一人だと何を言い出すかわからないからだそうだ。どうせ目もろくに合わせられないよ、とは意地悪なので言わなかった。
「話だけでも合わせられるようにだな」
「えーと、私に一緒に行こうって誘ってるの?」
もしかして、と尋ねると目を逸らしながら頷かれる。ふは、と吹き出すように笑ってしまった。
「もっとわかりやすくさー」
小突くように大翔の肩を押したその時だった。
「一ノ瀬」
私の名前が呼ばれた。それはよく大翔が耳を澄ませているせいで私も聞き慣れてしまった遠野先輩の声だった。
「ちょっと、いいかな?」
はにかみながら私を見ている遠野先輩が背後にいて、私と大翔はどちらからともなく距離を取った。
えっと、と遠野先輩が大翔に目を向ける。どうもと大翔が頭を下げてすぐ視線を逸らした。
「一ノ瀬に話があって、その、二人きりで話せないかな」
遠野先輩の頬は薄っすらと赤く、私と目が合うと照れくさそうに笑った。
嫌な予感がひしひしとした。遠野先輩から伝わる肌を刺すような好意を振り払いたくて仕方なかった。
「じゃあ、俺」
心なしか顔色が悪くなった気がする大翔がそう言って私を置いて帰ろうとした。無理もない、と頭では思うのに心では納得できない。
「待ってて」
思わず大翔を引き止めてそんなことを言ってしまう。怪訝そうな顔をされるのは当たり前だけど、帰ってほしくなかった。
大翔から見た私は意地悪すぎるだろうと思いながらもやっぱりいいと言うこともできず、私は遠野先輩に連れられて校舎裏まで行く。
「あの、なんかもう、一ノ瀬はわかっちゃった気もするんだけど」
遠野先輩が頭を掻きながら照れたように言う。私は一秒でも早くこの場を立ち去りたくて仕方なかった。
私は大翔と一緒にパンケーキなんかを食べて、いつもの遠野先輩の話を聞いて、「もう百回は聞いたって」と呆れたふりをして笑いたかった。そういう放課後を過ごしたかっただけなのに、どうして私は一人で好きな人の好きな人に対峙しているのか。
「好きなんだよね、付き合ってほしい」
それを心から言われたいと願っているのは、決して私ではない。そんな先輩にも大翔にも酷いことを思う。
「……どうして、私なんですか?」
「え?」
「だって、先輩モテるから」
そんなことないよ、と笑われてしまう。あなたが気づいてないだけで、あなたを好きな人は他にいる。
「一ノ瀬さ、ほらこの前の大会の時、すっごい応援してくれただろ?」
「え、ああ……」
「応援来てくれてる人少なかったし、暑かったからみんなダレてたのにさ、一ノ瀬はずっと応援してくれてた」
大翔もいましたよ、と危うく言うところだった。私が最後まで頑張ったのは大翔に付き合ったからだ。
「あれ、ほんと嬉しくてさ、それから気になって……」
あの大会で誰より遠野先輩を応援していたのは大翔だ。でもそれを遠野先輩は知らない。いや、知っているのかもしれない。知っていて無意識のうちに恋愛対象ではないから除外している。
「あ、でも、もし……高橋と付き合ってたら悪いなとは思ってて、実際その、どうなの? ほら、二人よく一緒にいるだろ?」
「違います」
探るような視線が耐え切れなくて食い気味に答えてしまった。
ほっとしたような顔を見ると心が寒々した。遠くから見ていればかっこよく見える遠野先輩。近くで見ると大翔のフィルターが無ければ私にとってはその他大勢にしか思えない。
事実は言えない。大翔の信用を裏切れない。ううん、そうして嫌われることが怖い。私は大翔が欲しいと思っているものを向けられている今でさえ、自分のことしか考えられない。
「……大翔、怒りますよ」
私はなんとかそれだけの事実を口にして、ごめんなさいと頭を下げた。
悲しみますよ、と言った方がよかっただろうかと、肩を落とした遠野先輩に背を向けて歩きながら少しだけ思った。
大翔は人のいなくなった玄関で律儀に私を待っていてくれた。
そして私の顔を見た途端、無理して笑ったような顔になる。
「よかったな」
「え」
「告白、されたんだろ?」
わかってる、と弱々しい手つきで小突かれる。
「お前、今日は奢れよ。俺の失恋」
確定したんだから、という声がみるみる小さくなっていく。
私が堰を切ったようにぼろぼろと泣き出したからだろう。滲む視界でも大翔が動揺しているのがわかったけど、止められなかった。
どうしたんだよ、と大翔の手が私の背中をさする。その優しさが嬉しくて苦しくて私はしゃがみ込む。
嬉しくないのかよ、と大翔の困惑した声に何度も何度も首を振った。
「私は、遠野先輩のことが好きなんじゃない」
「は?」
「私の好きな人は、別にいる」
私の顔を屈んで覗き込んでいた大翔が「はあ⁉︎」と大きな声を上げた。
「い、言えよ! そういうことはもっと早く! 俺はてっきり」
「……遠野先輩が好きだとは一度も言ってない」
「え、ああ、それはまあ、確かにそう、か?」
ああ、もう。と言いながら大翔が宥めるように私の背中をもう一度さすってくる。
「じゃ、本当は誰が好きなんだよ」
あなただよ、と心の中だけで言う。言ってしまいたかった、でも言わない。
私が本当のことを告げれば大翔はどんな顔をするだろう。騙されたと思うだろうか。もう友達じゃないと思うだろうか。
そんなのは耐えられないから、び、と心の中で線を引く。
「私のことを好きにならない人」
それだけを言った。私の背中に大翔の人差し指と中指が中途半端に乗っかって、宙を掻くように曲げられたのが見えていないのにわかった。
「……俺と同じか」
なにかを誤魔化すみたいに強く強く背中をさすられる。手がごつごつ当たって少し痛かった。
「でもなんでそんな泣くんだよ。泣きてえの俺の方だろ。あーあ、遠野先輩、お前みたいなのが好きなのかー」
どーしようもねえな、と大翔が言いながら私の手首を掴んで引っ張り起こす。
「ほら、行くぞ。奢ってくれんだろ」
「……私にも奢ってよ」
「はー? なんだそれ……奢られる意味ねー」
そう言いながら大翔はまだ私の手を離さなくて、それは私が泣き崩れてしまわないようにということだけだったかもしれないけど、ただその温もりを感じるだけで嬉しかった。
自分から引いた線を越えられなくても、今はまだこれだけで十分だ。
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