第2話:堕ちてゆくわたし。
食事が終わり、わたしは重い足取りで自室に戻った。
城の長い長い廊下は、白色と黒色が交互に混じった冷たい大理石でできている。
そこに蝋燭の灯りがゆらゆら揺らめき反射していて、わたしの視界をめまいのように歪ませる。
自然と溢れ出た涙が視界を歪ませているのかもしれない。
わたしの眼前には、項垂れたようなわたしの影が細く長く伸びていた。
部屋に入ると、真っ白なレースをふんだんにあしらった、豪華な天蓋付きの大きなベッドが目に入ってきた。
今はなおさら、やけにベッドが目につくように思う。
ベッドの下に敷いてある異国の織物の絨毯は毛足が長く柔らかく、足触りは心地いい。
ギシッとベッドに腰掛け、壁にかかる母上の肖像画に目をやる。
優しい笑顔の母上……思えばお母さまが亡くなってから、この城はなにもかもが変わってしまった。
あの頃は、お母さまが亡くなるまでは、毎日が輝いていたのに。
――「禁戒の森」は、このロレーシア城のある南の国と、ルカの父上である国王が統治される東の国との間にあった。
そこは昼間でも少し暗く、静かで深い霧に包まれた、とても神秘的な場所。
それと同時に、恐ろしいほどの魔力を持つ魔女が住む誰も近寄ってはならない禁断の地と呼ばれ、近隣の国々からも恐れられていた。
噂では、勇敢にも「禁戒の森」の魔女に会いに行った騎士たちは皆、二度と戻ることはなかったとか。
でも、そんな森の入口は、ルカとわたしにとっては天国の入口ような、美しい秘密の遊び場となっていた。
木々が密集し、その隙間から差し込む陽光が葉っぱを透かしてキラキラと放射を描き、まるで天から使者がおりてくるかのような景色。
野生のバラが赤く咲き乱れ、小動物――小鳥やウサギやリスや、狸に狐まで――が無邪気に戯れる。
空気は透き通っていて、思いっきり吸い込むと花の甘い香りと土の匂いが混じり、身体の隅々まで洗われたように感じる。
心地よい風が頰を撫でる、あの感触もまだ覚えている。
あの時のルカは12歳、わたしはまだ8歳。
青みがかった流れるように柔らかな漆黒の髪は、陽だまりを受け虹色に輝き、澄んだ湖のように煌めく美しい青い瞳に、太陽のように温かく優しくわたしを照らすあの笑顔。
そんな美しいルカを見て、わたしはいつも胸を高鳴らせていた。
薔薇の茂みに囲まれ、ルカはわたしの手を取って言った。
「カリン、18歳になったら私はカリンに結婚を申し込むんだ」
そう言うとルカは、照れくさそうに笑って、わたしに薔薇の花束を差し出した。
自らの手で手折ったのだろうか……その手は、棘で傷ついていた。
手の甲には十字に大きく交差した赤い傷まで。
わたしは慌ててドレスの裾の端を破き、ルカの手に優しく巻いた。
「ルカ、痛くない?」
彼は笑って首を横に振る。
「ありがとう、カリン。 君は優しいね」
「ルカ……」
「わたしも…… 18歳になったらわたしをお嫁さんにしてください」
あの言葉を交わした瞬間、光は差し込み辺りの花々がより鮮やかに輝きだした。
鳥は歌い、薔薇の花びらは宙を舞い、小さな森の使者たちが周囲を囲み、まるで森全体に祝福をされているかのようだった。
ルカと手をつなぎ、森を駆け回る。
笑い声が木々に反響し、まさに幸せの絶頂だった。
でも、そんな日々は長く続かなかった。
お母さまの具合が悪くなり、ついには亡くなってしまったのだ。
悲しみに暮れるわたしは、「禁戒の森」の湖のほとりでお母様の形見の緑の石のついたペンダントを握りしめ、毎日泣いていた。
あんなにも輝いていた森は、湖の水面を風で波立たせ、木々のざわめきは悲鳴のように耳を塞ごうとも響き渡り、表情を変えたかのように薄暗く、恐ろしく感じられた。
そして10年前のあの日、事件は起こった。
わたしはいつものように、一人で思い切り泣くために湖のほとりにいた。
突然背後から大きな声がした。
「あらあっ!? とても大きな宝石! お義姉さま、わたくしにそれをくださらない?」
振り返るとそこには、まだあどけない年頃の義妹、エミリアがいた。
「エミリア……!? なぜここに?」
「お義姉さまこそ、毎日どちらに行かれているのかしらとあとをつけてみたら……禁をお破りになってこんな場所でこそこそと……! そんなあなたより、わたくしのほうがこの宝石を持つに相応しいですわ!」
エミリアがわたしの胸元にある形見のペンダントに手をかけようとしてきたので、咄嗟に身体をすくめて覆い隠す。
「ちょ…… いいから早くわたくしに渡しなさいな!!」
「あっ……!」
エミリアと激しく揉み合った拍子に、ペンダントの鎖が切れ、湖に向かって投げだされてしまった。
驚いて手を伸ばした拍子に、わたし自身もバランスを崩して水の中に落ちてしまい……。
重厚なドレスは水を含んでおもりと化し、冷たい水が全身を包み、凍えてかじかんでしまった手足ではもがくこともできず……どんどん暗い水の底に引きずり込まれてゆく。
水底へと堕ちてゆくわたしの視界から、だんだん水面の輝きが遠ざかっていった。
『ああ……わたし、もうここで死ぬのね……』
『死んだらお母さまに会えるのかしら……それなら死ぬのも悪くはないのかしら……』
『でも……最後にもうひと目だけ……』
『ルカに……会いたかっ……た……』
意識も徐々に冷たい水に溶け込み、はっきりとしなくなってきた。
『あれ……?』
遠ざかる水面に黒い塊が見え、それは人影のようにも見え徐々に近づいてくる。
『ルカ……? いいえ、きっとわたしの願望が夢を見せているのね……』
意識がなくなるその前に、ルカの幻影を見たのだと思った。
あれはルカだった。……はずだった。
意識を失い、次に目覚めたのは湖のほとり。
濡れた服が身体に張り付き、寒気がして目が覚めた。
「はっ…… わたし……!?」
その時、わたしの手がなにか……ヌメヌメとしてむにゅっとする何か冷たいものに触れた。
「ひぁあああああ……!」
思わず声が出てしまった。
見ると大きめの青いカエルが座っていた。
「私が姫を助けました。 私を城に入れてはもらえませんでしょうか」
ぎゃあああああ……
わたしはその衝撃に、いまだかつて出したこともないであろう雄叫びを上げてしまった。
「かっかっかっかっかっ…… カエルがしゃべった……!!」
「あなた…… もしや、この森の魔女の手下ではないの!?」
そこで私は気がついた。
なんとカエルは、緑に光る美しい宝石のついたペンダントを抱えていたのだ。
青ざめるわたし。
『あれは紛れもなくお母さまの形見のペンダント……』
『では…… いやまさか…… このカエルが、本当にわたしの命の恩人……?』
カエルの禍々しくもプルプルと滑った青色に、全身の血の気が引いてゆくのを感じ、私も青ざめる。
そこへエミリアが呼んだ従者たちが駆け付け、棍棒で魔物のごとく青く大きなカエルを退けようと身構えた。
が、わたしはそれを制した。
そしてひとつ深呼吸をしてから、彼らに伝えた。
「このカエルを城へ招待してあげて…… 私の命の恩人(?)です」
――あの10年前のあの瞬間から、わたしの人生は激変してしまったのだ。
青いカエルは徐々に要求をエスカレートさせ、城に住まわせよ、食事を共にさせよ、あげく、同じベッドで寝ろ……と……!?
あの日、エミリアが従者を呼びに行っている時間――わたしが水から引き上げられる瞬間――、誰もその場を見た者はいない――。
10年もの長い長い間。
カエルとの約束が、わたしの心を縛りつけていた。
父上からも、城の者たちからも、呪いを恐れてなのか腫れ物に触るように扱われ、心さえも距離を置かれてしまっているように思う。
そして国中、それどころか隣国にまで噂は広まり、わたしは城から出ることも、人前に出ることも許されなくなった。
今夜……それが終わる。
部屋の窓から月明かりが差し込み、残酷な夜が来たことを告げている。
涙を拭い、静かにベッドに横になる。
覚悟はできている。
だって、今日この日までに、10年もの歳月をかけているのだから。
ただ……。
ルカ……。
最後に一目でいいから、あなたを見ておきたかった。
この目に焼き付けておきたかった。
それだけで、わたしはこの先一生涯、その記憶だけで生きていけただろう。
日陰のような暮らしを強いられて冷え切ったわたしの心を、太陽のような温かい笑顔で照らしてほしかった。
ううん。別に会えなくたっていい。
せめて、どこかでご無事でいらっしゃるのかどうかだけでも知れたら。
ルカ、あなたはいったい、どこに消えてしまったというの……。
その時。
静かな夜を切り裂くかのように、わたしの部屋のドアがギギギーッと重苦しい音を立てて開いた。




