第7話 逃した魚は「金」だった
「……バカなの?」
ギルドの執務室。
私は届けられた羊皮紙をデスクに放り投げ、深い深い溜息をついた。
祖国オルラリア王国から届いた、正式な親書。
そこには、王太子の署名入りでこう書かれていた。
『国庫の金を横領し、隣国へ逃亡した大罪人ミラベルを引き渡せ。拒否する場合は、我が国はゼギラス通商連合国に対し、武力行使も辞さない』
最後通牒。
聞こえはいいが、要するに「金がないから財布を返せ、さもないと殴るぞ」という、チンピラの脅迫状だ。
「……で、どうする? ミラベル」
向かいの席で、レオンハルトが苦笑している。
彼は今日、いつもの革鎧ではなく、王都で着ていたあの軍礼服の上着を椅子にかけていた。
王族としての執務モードだ。
「どうするも何も、テロリストの要求に屈するつもりはありません。ですが……」
私は眼鏡を外し、クロスで拭った。
「彼らは本気で国境に軍を集めています。いくら装備がボロボロでも、数千の兵が動けば、物理的な被害は避けられません。辺境の民に犠牲が出るのは、私の計算にはありません」
戦争になれば、人が死ぬ。物流が止まる。
一番損をするのは、国境付近に住む罪のない人々だ。
それだけは避けなければならない。
「だから、俺が出る」
レオンハルトが立ち上がった。
その表情から、いつもの「気のいい兄ちゃん」の甘さが消えている。
「ミラベル。……俺は、俺の持つ『王族の権限』を、すべて使うつもりだ」
彼は真っ直ぐに私を見据えた。
「国軍を動かす。お前一人を渡すくらいなら、国を挙げて全面戦争を受けて立つ。……俺は、自分の女を守れないほど落ちぶれちゃいねぇよ」
「……自分の『女』というのは、語弊がありますが」
私は顔が熱くなるのを無視して、ツッコミを入れた。
けれど、胸の奥が熱い。
一国の王子が、たった一人の元貴族のために国を動かすと言っているのだ。
重い。愛が重い。だが、その重さが今は心地よい。
「殿下のお気持ちは嬉しいですが、軍を動かせばこちらの予算も馬鹿になりません」
私はニヤリと笑った。
眼鏡をかけ直す。戦闘モード(仕事)の時間だ。
「血を流す必要はありません。現代的で、かつ一方的な『戦争』を仕掛けましょう」
「……あ?」
「剣も魔法も使いません。使うのは──これです」
私はデスクの引き出しから、魔導通信機と、分厚い顧客名簿を取り出した。
「経済制裁。……彼らが一番欲しがっている『物』と『金』の流れを、完全に止めて差し上げるのです」
◇
作戦会議──という名の、事務処理が始まった。
「まず、ドワーフの『鉄の山組合』へ連絡。頭取、お久しぶりですミラベルです。……ええ、例の件ですが、オルラリアへの輸出を『即時停止』してください。代金未回収のリスクがありますので」
私は通信機の向こうへ、流れるように指示を飛ばす。
『ガハハ! 嬢ちゃんの頼みならお安い御用だ! あそこの王子、俺たちの鉄をタダだと思ってやがるからな。出荷止めるわ!』
「次に、穀物商会連盟へ。……はい、オルラリア向けの小麦、すべて隣国の倉庫へ迂回させてください。違約金? あちらの契約不履行が先ですので発生しません」
『了解です、ミラベル様。あなたがいないオルラリアに、掛売りする馬鹿はいませんよ』
ペンが走る。
私の指示一つで、大陸中の物流網が書き換えられていく。
私は十年間、彼らの「信用」を一手に引き受けてきた。
私が「あの国はもうダメだ」と一言告げるだけで、商売人たちは蜘蛛の子を散らすように手を引く。
「……すげぇな」
隣で見ていたレオンハルトが、青ざめた顔で呟いた。
「お前、指先一つで国を干上がらせる気か……?」
「干上がるだけでは足りません。凍結させます」
私は最後の一手を打つ。
ゼギラス国立銀行。
この大陸の基軸通貨を管理する総本山だ。
「……こちら、第三王子レオンハルト殿下の代理人、ミラベルです」
私はレオンハルトに目配せをした。
彼はハッとして、通信機の魔石に手をかざし、王族の魔力認証を行う。
『認証確認。……レオンハルト殿下、どのようなご用件で?』
「オルラリア王家が発行している国債の、格付けを『ジャンク(紙くず)』に引き下げてください。理由は『債務不履行の可能性大』と」
『……承知いたしました。市場に公表します』
通信が切れる。
これで終わりだ。
「これで、オルラリアの通貨は紙くず同然になります。彼らは他国から何も買えない。武器も、食料も、兵士の給料すら払えなくなる」
私は羽ペンを置き、ふぅと息を吐いた。
「兵站の尽きた軍隊など、ただの烏合の衆です。国境に辿り着く前に自壊するでしょう」
物理的な攻撃魔法など、生ぬるい。
経済という名の血管を締め上げれば、巨象も蟻のように死ぬ。
それが、私の知る「現代の戦争」だ。
レオンハルトは、呆気にとられた顔で私を見ていた。
そして、プルプルと肩を震わせ──爆笑した。
「ガハハハハ! お前、最高に性格悪いな! 気に入った!」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「ああ、いいぜ。徹底的にやろう。あいつらに教えてやるんだ。喧嘩を売る相手と、逃がした魚の大きさをな」
彼は私の肩を抱き寄せた。
その体温が、冷徹になりかけた私の心を現実に戻してくれる。
「さあ、見物に行きましょうか、殿下。国境の『烏合の衆』がどうなるかを」
「ああ。特等席を用意してやるよ」
◇
数日後。
国境地帯の荒野。
地平線の彼方から、土煙を上げて進軍してくる軍勢が見えた。
オルラリア王国軍。
その数、およそ三千。
数字だけ見れば脅威だ。
だが、私は丘の上から、高性能な遠眼鏡で彼らを観察し、鼻で笑った。
「……予想以上に酷い有様ですね」
「ああ。ありゃ軍隊じゃねぇ。難民だ」
隣に立つレオンハルトも同意する。
隊列は乱れ、兵士たちはフラフラと歩いている。
馬に乗っているのは指揮官クラスだけで、その馬も痩せ細っている。
何より、彼らの手には武器がない者も多い。
重い鎧を捨て、道端に座り込んでいる者さえいる。
『腹減った……』
『もう歩けねぇ……出発してから干し肉一枚しか食ってねぇぞ……』
『隣国に行けば飯が食えるって言われたのに……』
風に乗って、そんな怨嗟の声が聞こえてくるようだ。
どうやらオスカー様は、「食料は現地で奪えばいい」という最低の命令を下して出撃させたらしい。
兵站軽視もここまでくれば犯罪だ。
その時、軍の中央から、煌びやかな──しかし場違いに豪華な馬車が進み出てきた。
拡声魔法の声が響く。
『聞け! ゼギラスの野蛮人ども! 我が軍の精鋭を前に恐れをなしたか! 大人しくミラベルを引き渡せば、命だけは助けてやる!』
王太子オスカーの声だ。
まだ状況が理解できていないらしい。
私はレオンハルトと顔を見合わせた。
「……馬鹿につける薬はない、と言いますが」
「薬代も請求できねぇな、ありゃ」
レオンハルトはニヤリと笑い、腰の大剣を引き抜いた。
戦うためではない。
指揮を執るためだ。
「総員、構え!」
彼の号令一下。
丘の上に展開していたゼギラス軍──ではなく、我がギルドの冒険者たちが一斉に姿を現した。
彼らの手には、武器の代わりに「大きな木箱」が握られていた。
「プレゼントだ! 風魔法部隊、放てぇぇ!!」
ドォォン!
突風と共に、数百個の木箱が空を舞った。
オルラリア軍の頭上に、パラシュートが開く。
ふわふわと降り注いだのは、攻撃魔法ではない。
「……なんだ、あれは?」
兵士たちが呆然と空を見上げる。
足元に着地した木箱が、衝撃でパカッと開いた。
中から転がり出たのは、丁寧に防水布で包まれた、焼き立てのパンと燻製肉、そして新鮮な果物のセット。
さらに、『温かいスープあります。降伏した者にはおかわり自由』と書かれたビラ。
『に、肉だ……!』
『パンだ! 柔らかいパンだぞ!』
一瞬の静寂の後、兵士たちは武器を放り投げ、食料に群がった。
プライドも規律もない。
ただの極限の空腹だ。
『うめぇ……!』
『隣国はこんなにいいモン食ってるのか!?』
『もう戦えねぇよ! 俺は降伏する! スープくれ!』
「あ、こら! 食べるな! それは敵の罠だ! 戦え! 命令だぞ!」
オスカーの絶叫が響くが、咀嚼音にかき消されていく。
指揮系統は完全に崩壊した。
私は眼鏡を押し上げ、冷徹な勝利宣言を呟く。
「チェックメイトです、オスカー様。あなたの軍隊は、たった今、パン一個で買収されました」
食べ物を粗末にはしない。
だが、食べ物で敵の心を折ることはできる。
それが私の流儀だ。
「性格悪ぃなぁ……好きだけどよ」
レオンハルトが呆れつつも、愛おしそうに私の頭を撫でた。
戦場に、平和な咀嚼音だけが響き渡る。
私の「経済制裁」は、完璧な形で幕を開けた。




