第10話 最強の商工王妃
「……王妃殿下。こちらの貿易協定の決裁をお願いします」
「はい。……ここは関税率の計算が間違っていますね。修正して再提出を。それと、北部への物流予算、見積もりが甘すぎます。やり直し」
「は、はい! 直ちに!」
ゼギラス通商連合国、王城の執務室。
私は山積みの書類と格闘していた。
ペンを走らせる音だけが響く、静謐な空間。
あの日、国境で祖国オルラリアとの因縁を断ち切ってから、三年が過ぎた。
私の環境は劇的に変わった。
ギルドの「金庫番」から、一国の「王妃」へ。
転職にも程があるが、やることは変わらない。
無駄を省き、利益を出し、民を豊かにする。ただ規模が国家単位になっただけだ。
「……ふぅ」
一区切りついたところで、私は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
窓の外には、活気に満ちた王都グランド・バザールの街並みが広がっている。
整備された街道を行き交う物流馬車の列。
この国は今、大陸一の経済大国として黄金時代を迎えていた。
「おい、ミラベル。まだ終わらねぇのか?」
不意に、背後の隠し扉が開いた。
入ってきたのは、豪奢なマントを羽織った赤髪の巨漢──国王となったレオンハルトだ。
「レオン。また執務を抜け出してきたのですか? 侍従長が泣いていますよ」
「うるせぇ。あの爺、俺にダンスの練習ばっかりさせやがる。俺はもう王だぞ?」
「王だからこそ、他国の要人の足を踏まないように練習するのです」
私は苦笑しながら立ち上がり、彼の襟元を直した。
相変わらず、窮屈な服は苦手らしい。
でも、その琥珀色の瞳は、以前よりも強く、頼もしくなっていた。
「……で、どうだ? 調子は」
彼は私の腰に手を回し、ごく自然に引き寄せた。
「順調ですよ。……そういえば、ギルバート様から定期報告が来ていました」
「あいつか。またオルラリアの愚痴か?」
「ええ。『更生』は順調のようです」
私は机の上の手紙に目をやった。
かつての祖国、オルラリア王国。
今はゼギラスの管理下で、財政再建の道を歩んでいる。
手紙にはこうあった。
『元王太子オスカーと元公爵令嬢エリンは、農場での労働にようやく慣れてきたようです。昨日はオスカーが、自分で収穫した泥だらけの芋を握りしめ、「俺が育てた芋が……こんなに美味いとは……」と泣きながら食べていました』と。
「……あいつらも、ようやく『金の重み』を知ったか」
「高い授業料でしたけどね」
私はクスクスと笑った。
彼らが真っ当な人間に生まれ変わるには、まだ十年はかかるだろう。
でも、もう私には関係のないことだ。
彼らは彼らの人生の帳尻を、自分で合わせるしかない。
「それより、ミラベル」
レオンハルトが、真剣な顔で私を見つめた。
「今日は何の日か、覚えてるか?」
「……決算期末日、ではありませんよね」
「違うわ! 俺たちが『契約』した日だろ!」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。
パカッ、と開くと、そこには眩いばかりの大粒の魔石が輝いていた。
ダイヤモンドよりも硬く、虹色に輝く「エターナル・クリスタル」。
この国で最も価値のある宝石だ。
「これ……! どうしたのですか、こんな高価なもの。予算申請は通していませんよ?」
私は思わず職業病が出た。
王家の財政は私が完全に管理している。
こんなものを買えば、即座に使途不明金として検知されるはずだ。
レオンハルトは、ばつが悪そうに鼻をこすった。
「……貯めたんだよ」
「え?」
「お前から毎月貰ってる『小遣い』だ。……酒も減らして、装備のメンテも自分でやって、三年かけてコツコツ貯めたんだよ! 文句あるか!」
私は絶句した。
一国の王が。
あの豪快な「猛獣」レオンハルトが。
妻に管理されたわずかな小遣いを、三年も貯金していたなんて。
「……バカな人」
視界が滲んだ。
眼鏡が曇る。計算ができない。
この宝石の市場価値なんてどうでもいい。
そこ込められた、彼の不器用で、途方もない愛情の価値に、胸が震えた。
「隣国の鉱山で見つかった希少種だ。『永遠の繁栄』って意味があるらしい。……お前にやる」
震える手で、彼は私の指に指輪を嵌めた。
あの日。
すべてが終わった後のギルドで、彼は私にプロポーズした。
『俺の国も、俺の人生も、一生お前が管理してくれ』
『……高い顧問料になりますよ?』
『愛という無制限の資産で払う。……契約成立か?』
あの時の契約は、今も有効だ。
いや、更新され続けている。
「……綺麗ですね」
私は指輪を光にかざした。
虹色の輝きが、涙で滲んだレンズに反射する。
「ありがとうございます、レオン。……我が家の『固定資産』として、大切に計上します」
「そこは『愛してる』でいいだろ!」
レオンハルトが呆れ、それから優しく笑って、私の額にキスをした。
「愛してるぜ、ミラベル。お前は俺の、最高の宝だ」
「……私もです」
私は彼の胸に顔を埋めた。
心臓の音が聞こえる。
ドクン、ドクンと、力強く、温かい音。
かつて、私は数字だけが真実だと思っていた。
計算できないものは不確定要素でしかなく、感情は判断を鈍らせるノイズだと。
けれど、今は違う。
この胸の温もりも。
安らぎも。
明日への希望も。
どんな高度な計算式でも弾き出せない、プライスレスな価値がある。
(……人生の収支決算は、大黒字ね)
私は彼を見上げ、満面の笑みを向けた。
「レオン。これからの人生も、死ぬまで私に管理させてくださいね?」
「おう! 望むところだ! 覚悟しとけよ、一生離さねぇからな!」
豪快な笑い声が、執務室に響く。
窓の外から差し込む陽光が、私たちを祝福するように包み込んだ。
「金の亡者」と蔑まれた悪役令嬢はもういない。
ここにいるのは、世界で一番幸せな、商売の女神(王妃)だけだ。
私の新しい計算(人生)は、まだ始まったばかり。
そしてその答えはきっと──「無限大」だ。
(完)




