氷の祈り、虚骸の囁き
炎帝マルバスが灰となって消えた後、世界は不気味な静けさに包まれていた。
戦いの余熱すら感じられない。
それはまるで――“この世界そのものが息を潜めている”ようだった。
リリアが唇を震わせる。
「……マルバスを倒しても、世界は変わらないのね。」
ユウキは空を仰ぐ。
雲の切れ間から、淡い雪が降り始めていた。
「変わらない。
でも――止まってもいない。」
その瞬間、空気が凍った。
雪が降る速度が、ゆっくりと、いや、“完全に止まった”。
音が消え、光が歪む。
そして、彼女は現れた。
白銀の髪が光を反射し、氷の羽が舞う。
冷たい気配を纏う、美しくも恐ろしい女。
「……氷姫ルミエル。」
ユウキが名を呼ぶと、彼女はわずかに瞳を細めた。
その瞳は、まるで永遠の静寂を湛えているようだった。
「貴方が、マルバスを殺した勇者ね。」
声は淡々と、だが確かに“怒り”の温度を失っていた。
「殺したわけじゃない。あいつは、自分の理想を選んだんだ。」
「それが“死”の形である限り、結果は同じ。
――私たち、魔帝は皆、魔王様の魂の欠片。
一つが消えれば、王は不完全になる。
貴方はその秩序を壊したのよ。」
ユウキの心臓が強く脈打つ。
(やはり……魔王と彼らは“魂で繋がっている”。
なら俺の中にある“魔王の欠片”も――?)
ルミエルが手をかざす。
瞬間、世界が完全に凍りつく。
「私の権能――〈絶氷界〉。
動くことも、思うことも、止まることも、選べない。
理想も絶望も、ただ凍る。」
凍結した空間の中で、ユウキの動きが止まる。
呼吸が重く、心音が遠のいていく。
(……だめだ、このままじゃ……!)
だが、凍りつく意識の中で、
ユウキはある“声”を聞いた。
――《止まるな。理想は止まるためにあるんじゃない。進むためにある。》
それは、誰の声でもない。
けれど、懐かしい響きだった。
ユウキは歯を食いしばる。
「……〈逆転の理想〉、起動――!」
光が爆ぜ、氷が砕ける。
凍てついた世界が、反転した。
ルミエルの瞳が揺れる。
「……止まった時を、動かした……? 馬鹿な、そんな理屈――」
「理屈じゃない。俺の“願い”だ。」
ユウキが叫ぶ。
「止まりたいほどの絶望を抱えたからこそ、俺は前に進む!」
刃と刃がぶつかる。
氷の欠片が閃光のように散り、冷気と熱気が混じり合った。
戦いは激しく、長かった。
しかし最後には――ユウキの一閃が、ルミエルの氷剣を断ち切った。
彼女は膝をつき、穏やかな微笑を浮かべた。
「……貴方は、やはり……“彼”と同じね。」
ユウキが剣を下ろす。
「“彼”って、誰のことだ?」
「虚骸のベルゼナ。
……貴方と同じ、“異世界から来た者”。」
その名を聞いた瞬間、空気がざわめいた。
リリアが息を呑む。
「異世界……? まさか、ベルゼナも……!」
ルミエルは頷いた。
「彼は元々、この世界の人間ではなかった。
かつて“救世主”と呼ばれ、神に仕える勇者だった男。
だが――この世界を見て、絶望した。
『理想は嘘だ』と吐き捨て、魔王様の魂と融合した。」
ユウキの胸が軋む。
(……異世界転生者。俺と同じ……?)
「ベルゼナは、今や“虚骸”。
理想も絶望も捨て、“空虚”そのものになった。
彼が最後の魔帝。そして、貴方を映す鏡よ。」
ルミエルの身体が、静かに崩れていく。
氷の結晶が光の粉となり、空へ還る。
「……もし、彼を救えるなら――魔王様も……」
その言葉を残し、氷姫は消えた。
残された雪の中で、ユウキは拳を握った。
リリアが静かに言う。
「ベルゼナ……元異世界転生者……。
それって、つまり――あなたが“次にこうなった姿”ってこと……?」
ユウキは答えなかった。
ただ、凍てついた空の向こう――
黒い塔の影を見据える。
そこに、“虚骸のベルゼナ”が待っている。
そして――魔王が、微笑んでいた。




