未来に向けて
真哉は地面に蹲ったまま、涙を拭う。彩花の「…うん。明日、待ってる」の言葉が、耳の奥で静かに響く。
過去を悔やんでも、何も変わらない。未来に進まなければ。冷たいアスファルトが膝に食い込み、夜風が頬を刺す。
真哉は立ち上がり、彩花の小さな微笑みを思い出す。明日はもっと、彩花を元気づける言葉を言いたい。彼女の部屋に入るとき、どんな挨拶をしようか。頭の中で、言葉を探す。
だが、ふと気づく。あれ…? 今日、僕は最初に彩花にどんな挨拶をしたっけ…?
部屋に入った瞬間、彼女の薄暗い部屋で、か細い声で「…あ」と呟いた彩花。そのときの自分の言葉を思い出そうとする。だが、胸の奥に冷たいものが広がる。思い出したくない。なぜか、記憶がぼやける。
真哉は首を振る。今日、彩花の部屋に入る前、頭のどこかで考えていた気がする。いきなりテンション高く接するのは良くないんじゃないかって。
その先を思い出すのが、怖い。心がざわつく。
僕は、テンションが高くなるのが良くないと思っていたのか? あれ…? 記憶が揺れる。
彩花が「おいしい」と言ってくれたとき、確かに嬉しかった。彼女のかすかな微笑み、潤んだ目。それで、ついテンションが上がった。
「…でしょ!?」と、笑顔で声を弾ませた。あの瞬間、彩花の小さな一歩に、心が躍った。
だが、今、思う。あのとき、もっと落ち着いていた方が良かったのか?
「温かいもの食べられた」と言った彩花に、もっと静かに寄り添うべきだったのか。「久しぶりに」とも言ってたような気がする。
真哉の胸が締め付けられる。
彩花は、食べても吐いてしまうと言っていた。彼女のその言葉に、どれだけの苦しみが込められていたのか。
なのに、自分は「うどんとかにしてみる?」と提案しただけだった。
彼女の辛さに、ちゃんと寄り添えていなかった。真哉は唇を噛む。彩花が頑張ってうどんを食べてくれたのに。
吐いてしまうかもしれない恐怖と戦いながら、彼女は箸を握ったのに。
そうだ。あのとき、僕はうどんの話に持っていった。彼女の「…どうせ、また吐くから」という言葉に、もっと深く耳を傾けるべきだった。吐いてしまう苦しみ、苛めの傷が残した恐怖。それを、彩花がどれだけ小さく、震える声で訴えていたか。
なのに、僕は自分の行動――うどんを作ること、彼女を笑顔にすること――に気を取られていた。
「僕、自分の事ばっかりだ…」真哉は呟く。
ダメだ。彩花に寄り添えていない。もっと、彼女が今抱える辛さを、打ち明けてくれるように。彼女の心の奥に手を伸ばせるように。もっと、そばにいなければ。
真哉の接し方は、確かに彩花の心を動かした。
彼女はうどんを食べ、微笑み、「明日、待ってる」と言ってくれた。
それは、85点程の点数はあったのだ。
わからぬ人から見れば、完璧な対応に見えたかもしれない。
だが、100点ではなかった。
真哉は、15点の減点を自分で気づき、胸を締め付ける後悔に苛まれる。
最初の唐突な「よぉ」。
彩花の吐く恐怖への浅い応答。
テンションの高ぶり。
それらが、彩花の心に届かなかったかもしれない15点だった。だが、苦しんでいる暇はない。彩花も、真哉も、未来へ進まなければならない。
彩花があの明るい笑顔を取り戻すまで、真哉は日々、前に進み続けなければならない。さもなければ、彩花は戻ってこない。
真哉は夜空を見上げる。ネオンの光が、冷たく瞬く。拳を握り、呟く。
「ケチャップと、卵買って帰らなきゃ……」
真哉は歩き出す。明日、彩花にオムライスを作る。彼女の「半熟の卵、好き…」を思い出し、胸が温まる。
だが、その温もりの裏で、答えのない問が響く。