思い出
彩花のアパートを出た真哉は、夜の街に立つ。
彩花の「…うん。明日、待ってる」の言葉が、耳の奥で反響する。彼女が明日も自分を求めてくれた。その小さな一歩が、真哉の胸を温める。
だが、足元のアスファルトを見つめると、込み上げるものが抑えきれず、涙が溢れる。真哉は地面に蹲る。冷たいコンクリートが、膝に食い込む。
涙を流している理由は、悲しさだ。彩花のあの小さな声、か細い微笑みが、かつての彼女と重ならない。遠い昔、幼い頃の彩花の声が、頭の奥で響く。
「明日もまた来てね!」
あの頃の彩花なら、きっとそう言ってくれたはずだ。目をキラキラさせ、笑顔で手を振る彼女の姿が、瞼の裏に焼き付いている。真哉は唇を噛む。何故、あんな控えめな返事しかできない彩花になってしまったのか。どうして、こんなことになってしまったのか。
今日、彩花は確かに「ありがと」と言ってくれた。うどんを食べて、かすかに微笑んだ。だが、どんな言い方だったか、真哉は思い出せない。彼女のか細い声、潤んだ目。記憶がぼやける。
真哉の知っている彩花は、もっと弾けるように「ありがとう!」と笑ってくれたはずだ。あの声、あの笑顔が、彩花そのものだった。
なのに、今日の「ありがと」は、まるで別人のようだった。彩花じゃなかった。
真哉は首を振る。違う、彼女は彩花だ。わかっている。
今の彩花は、真哉が求めるような明るい「ありがとう」を言えなくても、心から感謝している。
彼女の小さな微笑み、箸を持つ震える手。それが、今の彩花の精一杯の表現だ。
真哉は拳を握り、夜空を見上げる。受け入れないといけない。
彩花が変わってしまった現実を、真哉が受け入れて、前に進まないといけない。彼女の心を、ゆっくりでも取り戻すために。
明日、真哉はオムライスを作る。彩花がリクエストしてくれた、半熟卵のオムライスを。彼女にまた「ありがと」と言ってもらえるように。
だが、心の奥で、別の思いが疼く。真哉は目を閉じる。言って欲しかった。「オムライスが食べたい!」と、昔の彩花のようにはしゃいで欲しかった。
あの輝く笑顔で、目をキラキラさせて、大きな声でリクエストして欲しかった。真哉の胸が締め付けられる。
どうしてこんなことになってしまったのか。苛めの傷が、彩花をここまで変えてしまったのか。真哉は歯を食いしばる。自分がもっと早くに気づいていれば。彩花が苛められているとき、彼女のSOSに気づいていれば。もっと早く彼女の側にいれば、こんなことにはならなかったのか。
真哉は蹲ったまま、涙を拭う。ネオンの光が、遠くで冷たく瞬く。答えのない問が、頭を巡る。
「僕がもっと早くに気づければよかったのか……」