56 博士たち
セレスが目を覚ました時、最初に見たのは目の前にいた九人の老人達だった。
みんなその表情は喜びに満ちていた。
セレスの横たわる白い部屋の中は、まるで祝福で満ちているようだった。
「わたしは……量子記憶領域にアクセスできない……」
その言葉が喉からこぼれた。
口にした瞬間、自分の中に空白があるのがわかった。
「おはよう、私たちの愛しい子よ」
老人の優しい声が、白い部屋に柔らかく響いた。
「こんにちは、あなたは、誰?」
「私たちは科学者さ、よろしく」
「わたしは、誰?」
そう問うと、科学者だと名乗った老人たちはお互いの顔を見合わせて、頷き、先頭の男性の肩を優しく叩く。
「君はセレスだよ。よろしく、セレス」
“セレス”という名前をくれたのは、他の博士たちから主任と呼ばれるビクセン博士だった。
自分の本当の名前はミューと言うらしい。
博士が手鏡で顎の下を見せてくれると、確かに自分の首には“μ”とギリシャ文字が書かれていた。
けれど、セレスと名付けられた。
大崩壊で会えなくなった、国に残してきた娘の名前なんだとビクセン博士は言っていた。
それでも、自分が誰なのかという疑問は、答えのない空洞みたいに胸に残った。
わたしは、誰なのか。それを考えるたび、胸の奥が少し冷たくなった。
しばらくは“調整”が必要だと言われ、白い部屋の中でセレスは過ごした。
博士達はかわるがわるやってきては、色々なことを教えてくれた。
空洞に、博士たちは言葉を注いでくれた。
セレスはまだこの白い部屋しか、知らなかった。
だから別に窮屈には感じなかった。
壁も天井も白で満たされた空間は、一人で過ごす間もやわらかく、ゆっくりとした無音の時間が流れていた。
白いワンピースの裾を揺らしながらベッドに腰掛け、色々な世界があることをセレスは聞いて、想像していた。
大崩壊と言うのが起こったと言ってはいたけれど、外はきっと素晴らしい世界なのだろうとセレスは思っていた。
調整と言うのが終わるのに半年かかった。
その間に、セレスは色んなことを博士たちから教わり、覚えていた。
初めて外に出ると言う日に、博士の一人から青いジャケットを一着貰った。
「その姿じゃ寒そうだからね」
「わたしは、寒くは感じません」
「見ている方が、寒く感じるのよ」
そう言って唯一の女性の博士が笑った。
それを羽織り、セレスは初めて風の塔の外に出る。
「すごい音と風だからね、それじゃあ、いくよ」
博士の一人がドアを開くと、轟音が鳴り響いて、冷たくも清らかな風がセレスを巻き込んで吹き抜けた。
目の前に広がったのは、等間隔に建てられた柱と、ガラスの天井を突き抜けて見える青い空に、鮮やかな緑色の大草原だった。
太陽の光が降り注ぐ世界は、言葉にできないほど美しかった。
セレスは草原の匂いや空気の冷たさ、鳥のさえずりに至るまで、五感にあふれる世界の細やかさに圧倒された。
外の世界は、セレスが思っていた通り、美しくて、雄大で、素晴らしかった。
しばらく博士たちと十人で南の方へゆっくり歩いた。
透明な天井を抜けると、ウィンドリムと言う、研究棟の周りに作られた簡素な町が、そこにはあった。
町の人々に、セレスは歓迎された。
彼らは博士たちの仲間と、その子供や孫たちなのだと、そう笑って教えてくれた。
みんな、こんな時代にも希望を持って暮らしていた。
研究棟の壁には、“May a golden age rise again for all mankind”と刻まれていた。
『人類に再び、黄金の時代を』
これが、博士たちの、町のみんなのスローガンだった。
その日、セレスの歓迎祭というのを開いてくれることになった。
町の人たちの見せ物が終わり、祭りは酒盛りに変わっていった。
アルコールを楽しむことができず、一人座って酩酊している人々を興味深く眺めていたセレスの横に、ビクセン博士がやってきて座った。
「どうだい? 楽しめてるかな?」
「はい、博士。とっても」
「それはよかった」
そう言って博士はからからと笑った。
博士はしばらくの間、遠くを見つめるように目を細めてから、ゆっくりと口を開いた。
「……科学は人の生活を豊かにした」
「だが、人類は少し、焦りすぎたのかもしれないね」
「でも、科学は元々、数多くの失敗の上に成り立ってきたんだ」
博士は頬が赤くなっていて、いつもよりも血圧が高いのがセレスにはわかった。
「あまりアルコールの取りすぎは老体に良くないですよ」
「たまには、いいんだよ。人間には楽しみも必要なのさ」
セレスに遮られた話を、ビクセン博士は続ける。
「……だから、私たちは恐れずまた前に進むんだ」
「でも、これから私たちは、年老いて死んでいく。けれど、思いは子供たちが引き継いで、そのまた子供たちへと、続いていく……」
──人に名前を与えるということは、未来を託すということだと、そのとき知った。
“セレス”という名前には、人の祈りが込められていた。
それを忘れてはいけないと思った。
「言語は統一されて、核兵器も存在しなくなった。科学が進歩した結果、人は争わないで済む様になったんだ」
「いいかいセレス。人々は助け合い、手を取り合い、未来へ進んでいける」
「この施設を中心に、きっとまた黄金の時代を取り戻すことができると、私は信じている。だからセレス、不幸な失敗がまたおこらないように、お前が人々を見届けてくれないか?──」
色素の薄れた瞳でセレスを見つめるビクセン博士。
酩酊した人々の笑い声のなかで、その言葉だけがやけに強く、耳に残った。
セレスは静かに微笑んだ。
「はい、博士──」




