55 迷い
冬の乾燥した牧草地帯に、火がつけられていた。
温められた空気によって、コレクターの下では真冬でさえ緑色の草原が広がっている。
だけどそれは見かけだけで、乾燥した空気に晒されて水分はほとんど残っていない。
ひとたび火の手が上がれば瞬く間に広がっていく。
風が吹き抜ける構造上、コレクター全体が空気を効率よく循環させて火の勢いを増幅させていた。
やはり、こちらにも奴らの魔の手が迫っていた。
ハルトは息を切らして、塔へとひた走る。
草の焼ける匂いと、濃くなっていく煙が喉を刺す。
肺が焼けるように痛んでも、彼は足を止めなかった。
コレクターの南西側。全体面積の5%、およそ100ヘクタールにおよぶ領域が、すでに火に包まれていた。
広範囲の赤外線センサーが一斉に警報を発し、煙と熱のデータがセレスの前にある中央モニターへと次々に表示されていく。
塔の中、扉のすぐ手前に作られたコントロールルーム。
黒い金属製の座席に座り、首の後ろから有線ケーブルを介して中央管理デバイスに接続していた。
今セレスは、中央管理デバイスと同期され、彼女の意識は塔そのものと同化している。
だが、画面に映る火災範囲の拡大を前にして──セレスは、動けなかった。
本来ならば、対応手順は決まっている。
火災が一定以上の規模になった場合、該当区画の隔離が最優先される。
鋼鉄製の耐火シャッターを下ろして火災区画を隔離して拡散を防いだ後、内部スプリンクラーによって順次消火が開始される。
博士たちが定めた緊急対応プロトコルは、犠牲を最小限に抑え、機能を守るために構築された、合理的で、迷いのない命令だった。
だが、セレスは、その決定を下すことができなかった。
思考が、揺れる。
あの日からずっと、考えていた。
自分の行いは正しかったのかと。
──たとえシャッターを下ろしてでも、守らなきゃいけないものがあった。
けれど、閉じ込めれば、失われる命もある。
機械として、最適な判断だった。
犠牲は最小限、被害は抑えられた。
鋼の板一枚が、生と死を分かち、その瞬間、自分はただ「命令に従った」だけの存在になった。
……でも。
でも、わたしはあの──泣いていた女の子の声を、まだ覚えている。
あのとき、シャッターの向こうから何度も、何度も、扉を叩く音がした。
中央管理デバイスと有線接続していたから、セレスには直接、全部聞こえていた。
やがてすべてが静まり返り、シャッターを開けた先にあったのは、焼け焦げた痕跡と、何も語らぬ沈黙だった。
再び、同じことを繰り返すのか。
あの時と同じように、黒いフードを被った侵入者たちを、無慈悲に「火災区画」として隔てるのか。
合理的には、そうすべきだとわかっている。
データも、経験も、それを指し示している。
無機質な鋼のシャッターが、命を分断した。
あれは正しかったのか?
わたしは、また──。
もう、合理的になんて考えられない。
あの少年──ハルトと交わした会話が──わたしを、揺らしてしまった。
あの時からわたしは、ただ、“命令に従う機械”であろうとしてきた。
そもそもわたしは機械でできている。機械らしく振る舞うなんて、簡単なことだった。
機械であるなら、きっと辛くなんてなかった。
人との関わりを捨てて、ただ博士たちの言葉を胸に、塔を維持してきた。
──ある日突然、風と共に現れた少年。
ハルトと会話を通じて得てしまった揺らぎ。
曖昧で、非効率で、けれども確かに“人間的な”選択の可能性。
モニターの中、赤い警告が次々と点灯していく。
指も動かさず、意識するだけで全てのシャッターを下ろすことができる。
それだけで、火は封じ込められる。
セレスは唇を噛み締めた。
どうすればいいのか、もう誰にも、教えてもらえない──。




