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47 信念

 早朝、ハルトは目を覚ました。

 視界に映ったのは、斜めに切り取られた天井。

 いつの間にか見慣れてしまった──三階の、ラヤに借りている部屋だった。

 また途中で寝落ちしてしまって、運んでもらったのだろう。

 三度目ともなると、最初の頃にあった気恥ずかしさも、次第に薄れてきた気がする。

 洗って部屋に干しておいた服に着替える。

 脱いだ服は畳み、コートと一緒に手に持って階下へ降りていった。

 洗濯機の上に服を置いて、ラヤにもらった歯ブラシを使って歯を磨いた。

 洗濯機はさすがに、この静まり返った早朝に使うのはうるさいだろうと思って、洗濯は帰ってからにすることにした。

 ハルトは扉を閉めて鍵をかけると、一日ぶりに風の塔へと足を向けた。

 綺麗な服を身にまとい、セレスに会いに行く。


 昨日、ヴィータが語っていた“風の塔”の仕組みを思い出す。

 広大な面積を覆うこのガラスの天井は“コレクター”という名称なのだと教えてもらった。

 コレクターで太陽光の熱を蓄えて、暖かい空気の層を作る。

 その温められた空気が、中心のアップドラフトタワーへと流れ込み、塔を風が吹き抜けていく。

 その風の力を使って、電気を生み出していると、ヴィータは言っていた。

 温められた空気は軽くなって、自然と上に昇るらしい。

 ハルトにはそのあたりの理屈は今ひとつ理解できず、説明されてもよくわからなかった。

 それでも昨日の会話を思い出し、だんだんと高さを増していく透明な天井を見上げながら歩いていた。


 ふと強い風が塔に向かって吹き抜けた。

 その風に誘われるようにそっと視線を下ろす。

 遠く塔の正面。風に靡く髪を押さえたセレスの姿が、目に入った。

 純白の、縫い目ひとつ見えないワンピースに、透き通るような白い肌。

 夜明け前でも輝く白銀の長い髪。

 それを引き立てるような藍色のジャケット。

 一日ぶりに見るその姿は、やはりどこか現実離れしていた。

 ハルトは歩みを進めながら、あらためて胸の奥がわずかにざわつくのを感じていた。

 この街の誰もが、恐れと敬意を混ぜ合わせて見る存在だというセレス──けれど、ハルトにとって彼女は、いつだって対話してくれる相手だった。


 展望室へと、無言のまま二人で並んで登った。

 塔の南側を望むガラス窓の前に立ち、ハルトはようやく、口を開いた。


「……灰の使徒って宗教団体が、ウィンドリムを、文明を焼こうとしているらしいんだ」


 淡々とした語り口だった。けれどその背後には、一昨日聞いたあの話の衝撃が、まだ静かに渦を巻いていた。

 ヴィータの顔、ジノーの険しい表情、ルウォンとラヤの様子──それらが頭の中に浮かびながら、ハルトは目の前の景色を見つめ続ける。

 セレスは少しだけ視線を落とす。

 白銀のまつげがわずかに震え、細い眉がそっと寄せられた。


「そう……なの」


 セレスは目を伏せた。

 その一言は、小さくも確かな重みを持っていた。

 声の奥に、悲しみとも諦めともつかない何かが滲んでいた。

 ハルトは言葉を選ぶようにして、少し間を置いてから、話を続けた。


「科学を、否定しているんだって……」

「それは、何故なんでしょうか?」

「わからないよ……神の怒りに触れるんだって」

「神……ですか」


 しばらく考えるように黙ったあと、セレスが少しだけためらいがちに、変な質問をする。


「もし、わたしが科学の力を使ったら──あなたは怒る?」

「え、僕は別に怒らないよ」

「うん……そう、よね」


 そう言ってハルトを見つめるセレスだけれど、ハルトには質問の意図がよくわからなかった。

 ただその瞳の奥には、言葉にできない何かが一瞬、揺れていた。


「……僕は、守るために──戦うって決めたんだ」


 ハルトは決意を告げる。両手をぎゅっと拳を握って、肩にも力が入っていた。

 その声は静かだったが、内に秘めた熱がにじんでいた。


「ここを……君のことも、守りたいんだ」


  ハルトの視線は、セレスへ向けられた。

 自分が何を守りたいのか、誰のために立ち上がろうとしているのか──その答えを、目の前の彼女に伝えたかった。

 セレスは驚いたように少しだけ目を開き、それからまたゆっくりと微笑んだ。

 穏やかで、しかしその奥に複雑な感情がにじむような表情だった。


「ありがとう、ハルト」


 優しい声だった。

 その声だけで、胸が少し熱くなる気がした。

 けれど── 。


「でもね、人間同士が争うなんて……やっぱり悲しい。ちゃんと話し合えば、人と人とは理解し合えるって、わたしは、そう思っているの」


 セレスの目は、まっすぐにハルトを見ていた。

 曇りのない、けれどどこか遠い世界を見ているような、そんな瞳だった。


「僕も、そう信じたいんだ」

「だけど……もしも、その願いが届かなかったら、本当に襲ってきてしまったのなら、僕はそれを止めるために──弓を、引かなきゃいけないかもしれないんだ」


 ハルトの声には、葛藤があった。

 理想と現実のあいだで、揺れ動く想いがにじんでいた。


「……もう二度と、大切なものを失うなんて、今の僕には耐えられない。だから──守らなきゃいけないんだ」


 ふと思う。

 長老たちが見せた、科学への強い嫌悪と拒絶。若い世代がどれほど言葉を尽くしても、それが揺らぐことはなかった。あの、閉ざされた思考。

 村に蔓延った病も、科学を招き入れたことに対する神の罰だと、長老たちは信じて疑わなかった。

 ──そう信じる長老たちの言葉を、ハルトは完全には否定できなかった。

  大崩壊は、科学に溺れた人類に対する神罰だと主張する灰の使徒。

 ハルトはその気持ちが少しだけわかる気がしてしまった。

 でも──どんな理由があっても、人を殺していい理由にはならない。

 焼き払っていい理由には、絶対にならない。


「確かに、声を上げること、理不尽に抗うこと、自分を守ることは、本当は“悪いこと”じゃない。けれど、“戦う”ことで誰かを傷つけたり、自分をすり減らしたりする形になるなら、違う道があってもいいと、わたしは思うの」

「なぜなら、人間は言葉が扱えるのだから。ちゃんと心を尽くして伝えようとすれば、分かり合えるはずなのよ……わたしは、そう信じてる」


 セレスは、ハルトの目をじっと覗き込んで続ける。

 まるでハルトの中の葛藤までも見透かすように。


『ハルト、世の中にはな……言葉が通じても、話が通じねぇ奴がいるんだよ』


 ジノーが言ったその言葉が、ハルトの中で棘のように引っかかったままだった。

 どんなに言葉を尽くしても、すれ違い続ける相手。聞こうとしない者は、いる。

 まだ若いハルトにも、それくらいのことは、わかっている。

 それでも、セレスがそう信じてくれるなら、信じ続けてくれるなら──ハルトもまた、その可能性を信じたいと思った。

 信じることは、戦うこととは違う。

 でも、信じることもまた、覚悟のひとつなのかもしれなかった。

──でも、それはただの理想論で、現実は違う。


「分かり合えなかったら、その時はどうするんだよ……話して伝われば、それで済むなら、誰も死なずに済むなら、世界は今こんなふうになってないだろ!」


 声を荒げた自分に、ハルト自身も驚いていた。

でも、その怒りは確かに心の底から湧いてきたものだった。

 セレスは、ハルトの瞳を見つめたまま、続ける。


「それでも、人と人とが争っては、いけないのよ」

「たとえ、大切な誰かを守るためでも……誰かを傷つける道を選んでしまったら、その時点で、ハルトも“加害者”になるのよ」

「そんなあなたを見るのは、きっととても……つらい」


「……それでも、僕は守る為に、戦うよ」

「わたしは……信じてる。ずっと、信じてるよ……」


 朝陽が静かに昇りはじめ、展望室のガラスに柔らかな金色の光が差し込む。

 ふたりのあいだに漂っていた沈黙は、その光に包まれるように、ゆっくりと流れていった。

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