41 蠢動
ハレカゼ商会のお店に戻ると、今日も誰に言われるでもなく、ハルトはルウォンの手伝いを始めた。 店内には、木の香りと古びた機械油の匂いが混ざり合い、変わらぬ安心感が漂っていた。
昨日と変わらない、静かで穏やかな時間だった。
手伝いといっても、教わりながらの作業で、あまり役に立っていないことは、ハルト自身もわかっていた。
それでも、ルウォンは変わらず優しかった。
何を聞いても面倒がらずに丁寧に答えてくれるし、やり方を何度も教えてくれる。
そうやって何かを任せてもらえることが、ハルトには嬉しかった。
誰かに必要とされていると感じられるのが、心を落ち着かせてくれた。
そんなふうに過ごしていたお昼前、ハレカゼ商会のお店に、軽快な足音とともに来客があった。
「どうも、商会組合連合会の者です! 本日12時に緊急会議の招集がかかりました。特二等商会であるハレカゼ商会の代表の方はいらっしゃいますか?」
戸口に現れたのは、ハルトよりは幾分年上に見えるが、それほど歳の離れていなさそうな少年だった。
制服らしき灰色の上着に金縁の腕章を巻き、しゃんと背筋を伸ばした姿が、年齢以上に大人っぽく見えた。
ラヤが机から顔を上げ、ルウォンの呼び掛けに応じてペンを置き、その少年の方へと歩いていった。 その動作にはいつものような余裕と軽快さがあったが、瞳の奥にはわずかな緊張の色も見えた。
「ごくろうさま、執行部長は今度は何を言い出したんだい?」
ラヤの声音には、軽口のような柔らかさがあった。
「いえ、臨時とのことで私も議題に関しては知らされておりませんので、なんとも」
「わかった、ハレカゼ商会は参加するよ」
「かしこまりました。それでは本日12時、中央庁舎第三会議室にてお待ちしております」
少年は背筋をぴしりと伸ばして一礼し、きびすを返して店をあとにした。
「なんだろうね? ラヤさん心当たりある?」
ルウォンが不思議そうに首を傾げる。
「いやぁ、なんだろうね? とりあえず、あたしが行ってくるよ」
ラヤは少し考える素振りを見せたあと、階段へと向かった。
足取りは一見いつも通りに見えたが、どこか落ち着かないみたいだった。
ハルトはわずかに胸の奥をざわつかせた。
「何があったの?」
「商会連で臨時の会議があるから、ラヤさんが今から準備して行ってくるんだ。ハルトくんは気にしなくて大丈夫だよ」
ルウォンはいつも通りの穏やかな声でそう言い、ハルトに書類を差し出した。
ハルトは渡された紙束を両手で受け取り、仕分けを始めた。
「それじゃあちょっと行ってくるよ、ジノーとヴィータが帰ってきたらよろしくね」
「いってらっしゃい、ボス」
「いってらっしゃい、ラヤさん」
ラヤは頭の上で束ねた癖っ毛の金髪を、いつものようにひょこひょこと揺らしながら店を出て行った。
その背中を見送るうちに、胸の奥に小さな棘のような不安が刺さった。
けれど、それはまだ、言葉にならなかった。
今はただ、目の前の仕事に意識を向けた。
お昼になり、ジノーとヴィータの二人が戻ってきた。
ジノーが持ってきたのは薄い二つの紙箱で、その中には“ピザ”という名前の、丸い生地を八等分にした料理が入っていた。
箱を開けると香ばしい匂いがふわりと店内に広がった。
ルウォンが先に三切れを皿に取り分けると、表面にたっぷり乗ったチーズという食材がとろりと伸びた。残りをみんなで囲んだ。
薄く焼かれた生地はカリッとしていて、ハルトは顔をほころばせて頬張った。
けれど、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
「……フラベ村も、やられたらしい。ホントいかれた連中だ」
ピザの箱を閉じながら、ジノーが重い口調で言った。
「例の教団かい? それ絡みで緊急会議なのかな?」
ルウォンはお茶を入れ、それぞれの前にティーカップを並べながら、低い声でそう言った。
「たぶんそうだろうな。生き残った住人は、近隣のニアン村へ避難したらしい。それが二週間前だそうだ」
「じゃあその支援も含めて、今後の対策会議なのかな……」
ジノーはそう言いながら窓を少しあける。
ルウォンは少し考え込み、顎に手を当てる。
ジノーはライターを右手でくるくる遊ばせながら、左手でタバコのケースを開けると口で一本取り出してそのままタバコに火をつけた。
「明らかに、ここを目指してる……か」
ヴィータの声は、明瞭なのに、どこか震えていた。
ハルトは状況がつかめず、ただ視線を動かすばかりだった。
重たい空気の中で、自分の声が場を壊してしまいそうで、何も言えなかった。
その気配に気づいたヴィータが、ふとハルトの方へと目を向け、少し表情をやわらげるように口を開いた。
「最近、物騒な連中がいてね。いく先々で放火しながら、じわじわとこのウィンドリムへ向かっているみたいなのよ」
「そんな……! なんで、そんなことを?」
ハルトは思わず声を上げた。
「どうやら、科学が再び発展すると、神の怒りに触れる……と、本気で信じているらしいんだ」
ルウォンの声には、静かな憤りが滲んでいた。
「僕の住んでた村の長老たちも、科学を否定していたけど、それでなんで人の住んでるところに火を付けてくの?」
「ウィンドリム経済圏の村々は、ここでリバースエンジニアリングされた便利な道具を使って生活している。それが気に食わないんでしょうね」
ヴィータの声は冷めていたが、眼差しの奥には強い警戒の色が見えた。
──どうして、長老たちやその集団は、こんなに素晴らしい科学を否定するのか。
ハルトには、どうしても理解できなかった。
「話し合いで、仲良くはなれないの? 大崩壊が起こる前に、世界の言葉は一つになったって、子供の頃、長老達に教わったのに……」
「ハルト、世の中にはな……言葉が通じても、話が通じねぇ奴がいるんだよ」
ジノーが言ったその言葉は、重く胸に沈んだ。
「そんな……」
ハルトは、現実が信じられなかった。
人々が暮らす村を焼きながら、ウィンドリムを目指す集団がいる──頭でなんとか理解できても、心はそれを拒んでいた。
「今月、わかってるだけで、ブレイシュ村、ナトリ村、そしてフラベ村が襲われた……フラベ村からウィンドリムまでの間には、ロス村か」
「……ロス村への自警団の派遣もあるんじゃないかな?」
「おそらく。それの予算も今頃会議中だろう……それよりも、問題は人員不足かもな」
ジノーは真剣な表情でルウォンと話し合う。
ジノーはそこまでいうと、タバコを窓枠に置いてある灰皿で揉み消して、新たに取り出してくわえる。
「人が住んでるところに火をつけるなんて、科学がどうこう以前に……人のやることじゃないわ」
「全くだ……」
ヴィータとジノーの、その言葉に宿る怒りは、静かに沸騰していた。
「そんな……多くの村が焼かれたの?」
「怖がんなってハルト、いざとなったら俺たちが、そんな奴らと戦ってやるよ」
ジノーがそういってわざとらしく白い歯を見せて笑いながら、頭をわしわしと撫でてくれる。
──戦う。
人と人が、本気で争う。
そんな場面を、ハルトはこれまで一度も想像したことがなかった。
けれど、もしも──その“例の教団”と呼ばれる集団が、この街にまで来てしまったとしたら──。
自分には、一体何ができるのだろうか?
ハルトは、ふと握りしめた指先に力が入っていることに気づいた。
言葉にはならない不安が、胸の奥でじわりと広がっていた。
ウィンドリムの風は、今日も変わらず穏やかに吹いていた。
けれど、その静けさの奥底で──見えない何かが、ひっそりと蠢いているような気がしてならなかった。




