40 断り
ハルトはいつも、朝に最初に顔を合わせるとき、彼女がほんの微かにだけれど、嬉しそうな表情を見せている気がしていた。
そう思いたいだけかもしれないし、本当のところはわからない。
けれど、なんとなく、そう感じていた。
なのに彼女は、いつも口にする。
『もう来ない方がいい』
と。その理由は、ハルトには思いつかなかった。
ただ、言葉の裏にあるものを掴みきれずにいる自分がもどかしかった。
風が頬を撫でるたびに、セレスの姿が思い浮かんだ。
白銀の毛で縁取られた、虹をたたえたように煌めく、冷たく澄んだ銀の瞳。
その瞳の奥に、微かな熱を感じる気がして、いつも目を逸らせずにいた。
大崩壊についての話はあまりに複雑で、聞いたあとも何度も思い返しては、その意味を考え続けていた。
そうしながらハレカゼ商会へ戻るため、北の大通りを歩く。
黒髪が珍しいこの街では、たとえウィンドリムの服を着ていても、どうしても目立ってしまう。
それでも以前と比べれば、街に溶け込めてきたような気がする。
歩くたびに感じている視線の数はほんの少しだけ減っていた。
それだけでも、少しだけ救われた気がした。
朝の街は活気にあふれていて──
「お! ラヤちゃんとこの坊主!」
通りすがりにそう声をかけられ、ハルトは立ち止まって丁寧にお辞儀をした。
相手の顔には見覚えがなかったが、向こうはハルトを知っているようだった。
そのまま商会へ向かって歩いていると、前にも一度声をかけてきた人物に出会った。
今度はちゃんと覚えていた。
上質なコートに、くるりとはねた立派な口髭をたくわえた男。
以前、商会の誘いを受けたときに戸惑い、何も言えずに逃げてしまった──その相手、リグノ商会のマッカネンだった。
「やあ、この街にも慣れたかい?」
気さくな声に、ハルトは少し緊張しながら答えた。
「えっと……はい。だいぶ慣れました」
「それはよかった」
マッカネンは柔らかに微笑んで、続けた。
「ずっと謝ろうと思っていたんだよ。君を困らせるつもりじゃなかったんだ」
その言葉にハルトは少し驚いた。
以前の印象は、押しの強い商人と言うものだったからだ。
眉尻を下げて、少しだけ申し訳なさそうに続ける。
「ただ、知っていて欲しくてね。旅人はこの街じゃ持て囃されることもあるし、旨い汁だけ啜ろうとする輩も多い。うちなら君を守れると思った。そういう意味だったんだ」
語気に熱がこもっていたが、それは押しつけではなく、誠意に近いものに聞こえた。
そして、再び笑って言った。
「昨日の商会連でね、ラヤ嬢が思ったよりちゃんと君のことを考えてくれていると感心したよ。昨日の啖呵は、スカッとしたよ」
そう言って口髭を撫でながら微笑むマッカネン。
その様子に、前に抱いた警戒心が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
「それでも、やっぱり君には、ぜひうちに来てほしい。優遇もできるし、どうかい?」
──以前なら、戸惑って黙ってしまったかもしれない。
けれど、今のハルトは違った。
「えっと、ごめんなさい。僕は、ハレカゼ商会が、いいんです」
今度はちゃんと、逃げ出さずに、自分の言葉でしっかりと断った。
マッカネンは一瞬だけ眉を上げ、それから穏やかに笑った。
「もし気が変わったら、うちはいつでも大歓迎だから」
そう言って、彼はその場を去っていった。
去っていく背中を見つめながら、ハルトは前回の自分の態度を思い返す。
あのときは、何も言えずに逃げ出しただけだった。
だから、今回はちゃんと伝えたくて、後ろ姿に思わず声をかけていた。
「あの、前は話の途中でごめんなさい!」
その言葉に振り向いたマッカネンの顔は、やっぱり笑っていた。
「気にするな、少年」
そう言って、軽く手を振ってくれた。
怖くて逃げ出した相手に、今はちゃんと向き合えた──。
それが、ちょっとだけ、自分が成長できた証のように思えた。
心の奥が、静かに温かくなるのを感じた。




