2 風の塔
目の前に見えているのに、一日中歩いても少し大きく見えるようになっただけで、まだ遠くのままだった。
平野にただ一つ聳え立っているせいで距離感がいまいちわからなかった。
あの塔は、思ったより大きい構造物なのかもしれない。
ハルトは逸る気持ちを堪える。
陽が沈む前に、河原で鴨を一羽仕留めて、野営の準備を始めた。
乾いた流木と枯れ木を集めて薪にし火を灯し、川の水で野草と鴨の肉のスープを作る。
食べられる野草や、野営の仕方を教えてくれたのは、父親だった。
弓での狩りや、捌き方を教えてくれたのは、ヤマじいだった。
季節はもう移り変わろうとしていて、その上その日は曇っていたから、焚火の暖かさが心地よかった。
そして陽が沈んだころ、ふと塔を見ると、塔のあちらこちらが、赤く点滅しながら輝いているのが見えた。
塔の根本も仄かに明るくなっていて、まるで塔が浮かんでいるように見えて、その光景は幻想的だった。
しかし赤い輝きは規則的に並び、規則的に明滅を繰り返していて、人為的な構造物である事を主張していた。
ハルトは、あれは科学の光なんだと、文明がまだ残っていたんだと、そう思った。
そう思って、何気なく、ポケットに仕舞い込んでいた火を灯す道具を手にとって、握り込んだ。
孤独な旅路の中で、初めてなにかが返事をくれたような、そんな気がした。
明日には辿り着けるだろうと、早めに眠りにつこうとした。
しかし、なかなか寝付けなかったので、仕方なくしばらく塔を眺めていた。
陽の出前に目覚め、昨日作ったスープの残りを食べ終えて、薪の燃え残りを消火してから荷物をまとめて出発する。
朝霧の中でも、塔が見えた。
点滅していた光が、朝になってもまだ薄く残っていた。
きっと、あの塔に行けば、人に出会える。
あの灯りの下に、人の声がある。そう思うだけで、胸が熱くなるようだった。
そういう希望が、ハルトを突き動かしていた。
昨日と今日、急くように歩いた為、陽がまだ傾き始める前に、いよいよ塔の近くまで来る事ができた。
そこは、不思議な光景だった。
大きな柱がそこかしこに均等に建てられていて、その柱に支えられた天井には、遺跡でみたような透明な板が広がっていた。
そしてこの構造物は塔の周りをぐるりと覆っているようにみえた。
近づくと、かすかに風が、中へ向かって吹いているのがわかった。
太陽の光が透明な天井をすり抜け、その下、一面に広がる見渡す限りの緑の草原が中心の塔に向かって、綺麗にそよいでいた。
風に誘われるように透明な天井で覆われた構造物の中に入り、塔を見上げる。
もう塔の大きさは、見上げるハルトが笑ってしまいたくなるくらいの大きさに見えていた。
ただ茫然と、白昼夢を見ているような気分で歩みを進める。
透明な天井は、中心の塔へ向けて段々と高さを増していっていた。
この天井を支えている柱も、十分に大きくて、材質がなんなのかがわからない不思議な素材で作られているようだった。
そうして、しばらく塔の方へ向かって歩いていると、一つの動く影が落ちているのに気がついた。
反射的に、弓を構えて矢を一本引き抜き、ハルトはその影を落としているものを探して、見上げた。
丸い物体が透明の天井の上を不規則に動き回っていた。
弓をおろし、ハルトは不思議そうにそれを眺めた。
動物ではない、動く丸い物体。
これも科学なのだろうか?
人や動物の気配が全然感じられない不思議な空間で、ハルトは初めてみた動いている存在をじっと観察した。
動きにはリズムがあり、ふと、見上げているハルトに気がついたようにピタッと止まったと思ったら、また一定のリズムで動き出した。
その後も、この不思議な丸い物体の観察を続けると、
どうやら、この丸い物体は、天井を透明に保つ為に掃除しているようだった。
ふと、視線を下げると、そこに──少女がいた。
それはハルトからするとまるで風と共に姿を現したかのようだった。
思わず右手に持っていた矢を弓に番えそうになって、咄嗟に手を止める。
少女が近づいている事に気がつかないくらい、ずっと天井を見上げていた。
風の音だけがこの世界を支配していて、少女の足音は一切聞こえなかった。
その驚きより、少女の美しさに、ハルトは目を奪われてしまった。
銀色の腰まである長い艶やかな髪は塔へ向かう風に踊り、光を弾いていた。
ハルトの知っていた髪の色は黒と、長老達やヤマじいの白髪の二色だけだった。
だからこそ、青白い月光を宿したような銀の髪は、とても神秘的に見えた。
少女は、まるで縫い目のないかのような、滑らかな白いワンピースに、丈が少し短い淡い紺色のジャケットを羽織っていた。
背丈はハルトと同じくらいだったが、彼女は華奢で、どこか繊細な印象を与えた。
少女はまっすぐにハルトを見つめていた。
その瞳もまた、虹をわずかに湛えたような銀色で、まるで初めから彼を知っていたように、じっと見つめていた。
ハルトはただ見つめ返すだけで、心の中まで全部、見透かされてしまいそうだった。
だからハルトは、言葉が出なかった。
二ヶ月以上も、言葉を発していなかったから言葉が出てこないわけではなかった。
ただ自分が、こんな自分が彼女に話しかけていいのか、恐れがあった。
声を出そうと喉が震えたが、息が漏れただけだった。
「あなたがこの区画に入ってくるのが見えたから」
そう、目の前の銀髪の少女が先に口を開いた。
風に溶けて消えてしまいそうな、儚く澄んだ音色だった。
恐る恐る、ハルトは口を開いた。
「君は、えっと、ここに住んでいるの?」
「そうね、わたしはここに住んでいて、この塔を守っているの」
「この塔は……昔の建物なの? 大崩壊の前の?」
「この塔は発電のための施設なの。大崩壊を免れたおそらく唯一の……残された人類の理想郷、ウィンドリムの心臓部」
ハルトは、彼女の言葉を理解しようと努力したが、すぐに理解する事ができなかった。
彼女の言葉は、どこか夢の中の言葉のようで、ハルトにはすぐには意味が掴めなかった。
そうして黙っていると、彼女は塔の方を指差して言った。
「あっちの方向にいけば、ウィンドリムに辿り着ける。塔にはあまり近づかない方がいいわ……風が強いから」
そう言うと、彼女は振り向いてその方向へ歩き出した。
ただ振り向いて歩き出しただけなのに、まるで風を纏ったように、その所作は幻想的だった。
ハルトも、彼女に続く形で歩き始めた。
しばらく無言のまま、彼女の背を追って歩いていた。
秋ももう終わり、冬に差し掛かろうとしているのに、ここは暖かかった。
相変わらず風は塔の方へ向かって吹いていた。
塔に近づくほど、それは強く感じられた。
塔を迂回するように周りながら歩く彼女の後ろを歩く。
無言なのは、彼女があまり話しをしたくなさそうな気がしたからだ。
それに、話しかけたくても、声が喉の奥で詰まってしまう。
ただ後ろを歩いていると、目の前に柵が建てられているのが見えてきた。
彼女は風で靡く銀糸のような髪を片手で押さえ、立ち止まった。
「その柵を越えて向こう側、人間の住むウィンドリムがあるわ。──わたしはあまり人と関わらないようにしているの。だから、ここまで」
ハルトは彼女の横に立ち止まって、左を向いて陶器のような顔を盗み見た。
そう言った彼女の表情からは、感情が読み取れなかった。
ただ、視線を落とす彼女に、ハルトは彼女が少し悲しみを抱いている、そんな気がした。
ハルトは、誰かとこんな風に対面したのは初めてだった。
もっと彼女と会話をしたかったが、彼女は、ハルトを残して塔の方へ向かって歩いていってしまった。
彼女の言った言葉の意味が、何故だかすぐには理解できなかった。
ただ、向こうへ行けと彼女が言った気がしたから、その背を見送ったあと、ハルトは柵を乗り越えた。
彼女が指差した先、柵の中、遠くの方に、見たことのない動物達が草を食んでいるのが見えた。
柵の中の草原の丈が低いのは、あの白くもこもこした動物達が食べているからなのだろう。
透明の屋根はどこまでも続いているようにとても広かった。
けれど、しばらく一人で歩くと、透明な屋根から抜け出した。
そうすると、建物が、街が見えてきた。
自分の故郷のそれとは作りが違うが、遠くからでもわかる、木組みで作られ、綺麗に立ち並んだその様は、美しい街並みだった。