1 遺跡と山越え
世界が壊れてから、もう何十年も経った。
沈黙した都市は植物に覆われ、かつて人々が築きあげた建物は“遺跡”と呼ばれるようになった。
遺跡はまるで人間の訪れを拒むかのように、野生動物たちの楽園と化していた。
初めて遺跡を見つけたハルトは、恐る恐るそこに足を踏み入れ、しばらくのあいだ、そこで生活をすることにした。
風を避けられる場所を選び、屋根の抜けた建物の影に、木の枝や葉っぱを集めて簡易な寝床を作って、仮の拠点とした。
暑さが少し落ち着いた過ごしやすい夜だった。
村から持ってきた干し肉を、少し齧った。
遺跡に反響して、けたたましく響く虫の声と、遠くで鳴くフクロウの声が、この都市にまだ命があることを知らせてくれた。
昼間は周囲の探索を続けた。
一体の骸骨のボロボロになった洋服のポケットから金属がのぞいていて、そっとそれを拾い上げると、布はほろほろと崩れていった。
金色に鈍く光る、掌に収まるほどの小さな金属の箱だった。
懐かしい、見覚えのあるそれの蓋を開けて中の部品を擦ると、かすかに火花が散った。
昔、村に来た旅人が持っていたのと同じ〈火を灯す道具〉だった。
そのときの記憶が、鮮やかによみがえった。
しかし何度試しても、火花が虚しく散るだけだった。
燃料とは何なのか、どんなものなのかすらわからず、途方に暮れた。
あの時もっと詳しく聞いておくべきだったと、いまさら後悔した。ハルトはそれを大切にポケットにしまった。
崩れかけた建物だったものの一室に、食器が並んだままのテーブルがあった。
食器には黒いシミが残っていた。
傍らの椅子には、とても精巧なぬいぐるみが落ちていた。
ハルトは暫くこの光景を眺めていた。
自分にはわからない感情が、この場所にはあった気がした。
笑い声。泣き声。生活の音。誰かが、ここで生きていた。
それは想像するしかない光景だったが、それでも胸が苦しくなった。
この遺跡で見るもの、触れるもの、すべてが不思議だった。
どうやって作られているのか、どんな目的があったのか。
文明という言葉の意味さえ、ハルトには正確にはわからなかった。
それでも、ハルトはここが、人間の世界だったのだと、確かに感じていた。
崩れかけた建物を出た裏手。蔦が絡みつき、半ば地面に沈みかけた小さな扉があった。
中に入ると、かび臭く湿った空気が肌にまとわりつくが、慎重に奥へと足を進めた。
物置のような部屋だった。
木でできた棚が歪みながらも残っており、埃をかぶったままの道具がいくつか置かれていた。
金属の筒のようなものと、ツルッとした表面の不思議な材質でできた手の平くらいの大きさの板、村で使われていたものとは違う、ハルトの読めない文字の書かれた、紙の束を綴じた物、まるで本物の風景をそのまま切り取ったような、精巧な人物の絵。
ハルトは壊さないようにそっと、その絵が飾られている額縁を持ち上げ、絵の人物を見る。
白髪の老夫婦の絵だった。
二人は、笑顔だった。心から笑っている、そんな絵だった。
額縁をひっくり返すと、絵の裏には「2145.08.27」と書かれていた。
蓋がついた筒には、擦れた文字が書かれているが、これもハルトの知らない文字で読めなかった。
振ってみると、中でからんからんと音が鳴った。 底が抜け、この遺跡に眠る骸骨たちの手首によく付けられている、細い針が数字の書かれた文字盤の上を指しているブレスレットや、村長の家に飾られていたものとは違うコインが数枚、地面に落ちた。
それと、小さな透明の石の嵌った銀色の指輪が床に転がり、開けたドアから入った陽の光を反射して、虹色に輝いた。
用途も意味もわからない。けれど、確かにこれは遠い昔に、誰かが作ったものだった。
今はもうどこにもない、ここで暮らしていた人間の痕跡だった。
使い道がわからなくても、これは大切なもののような気がした。
ここでこのまま、朽ちさせてしまうのは、悲しく感じてしまったから、ハルトはリュックの中の空きのある布袋を取り出し、床に広げてしまった遺物たちを包んだ。
棚の上の、持っていけそうなものも、布袋に包んで入れた。
その探索を最後に、ハルトは何も言わずにその場を後にし、再び一人で旅を続けた。
歩きながら、ハルトは思う。
──どうして自分だけが生き残ったのだろう、と。
あの病に、村の誰も勝てなかったのに。父も、母も、幼い子たちも、みんな。
自分だけが何事もなかったように、こうして歩いている。
それが不思議で、そして、申し訳ない気がした。
遺跡を探索している時だけは、ほんの少しだけ気が紛れた。
知らないものを見ることは、確かに心を動かした。でも、その感情に気づくたび、胸の奥がズキリと痛んだ。
──こんなふうに、楽しいなんて思ってしまって、いいのだろうか?
もし、誰かが生きていてくれたなら。
この感情を、話せる相手がいてくれたなら。
きっと少しは、違ったのかもしれない。
けれど、もう誰もいない。
生きているのは、世界で自分ひとりだけなのかもしれない──そんな考えが、ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかった。
『……いい? 世界はもう終わったわけじゃないの。どこかに、まだ人がいる』
『あなたは行って、誰かと出会いなさい。そして、話して、笑って、生きるの』
『……それが、私の願い。だから……どうか……独りで終わらないで……』
母の最後の言葉を思い返す。
ハルトは止まることは、できなかった。
歩き続けていれば、何かが変わるかもしれない。誰かに会えるかもしれない。
そして、いつかこの問いに答えてくれる何かに、たどり着けるかもしれない──。
荷物は少し増えたが、からだが少し成長したからか、初めの頃より楽な気がした。
遺跡を越えたハルトは、峠を一つ越えることにした。
冬を目前にしたこの時期に、まともな備えもないまま知らない山に入るのは、当然ながら危険を伴うことはわかっていた。
それでも山間部には、かつて道だった痕跡が遺跡からずっと続いていて、かすかに残っていた。
土砂崩れで埋もれた箇所はよじ登り、また道跡を探して、そして進めばいい。
そうやっていけば、比較的たやすく峠を抜けられる──そう思えた。
まるで、遠い昔の人たちに導かれているかのようだった。
ハルトは静かに山を登り始めた。
暗くなる前には、早めに薪を集めて火を起こす。 猪や熊、野犬に備え、弓矢は常に手の届く場所に置いた。
「安心しろハルト、火を焚いてればそう簡単に奴らは襲ってこない」
かつてヤマじいは、そんなことを言っていた。
ただ、弓を握る手に意識を集中させ、息を整え、瞬時に反応できるように備えながら、夜を過ごした。
四日が過ぎ、道が下りになったところで、野犬の群れに囲まれているのに、ハルトは気がついた。
視界に入っているだけで七頭がいた。
そのどれもが、熊のような大きさだった。
この距離なら、一斉に襲いかかってこられても対処は可能かもしれないが、残りの矢の本数がギリギリに思えて、手に汗が滲んだ。
だが、弓を構え矢を番えたハルトを、彼らは遠巻きに見ているだけで、暫くしたら静かに去っていった。
ずっと力んでいた腕の力を抜いて、大きく深呼吸をした。
結局、大型の野犬との遭遇以外は、大きな問題は起こらなかった。
一人きりの山越えは初めてだったが、身体的にはさほど苦ではなかった。
だが、楽というわけでもなかった。
日に日に増してく寒さが皮膚の感覚を鈍らせていくように、心の中の感情も、少しずつ輪郭を失っていった。
笑い方も、泣き方も、忘れてしまいそうだった。 だんだんと、自分が自分でなくなっていくような気がした。
それでも、歩みを止めることはなかった。
やがて、ハルトは山間部を抜けて、広がる平野へとたどり着いた。
そして、不自然なものを見つけた。
それは遠く離れているのに、存在を強く主張していた。
それは塔だった。
山間部に入る前にみた遺跡とは違い、これは異質だった。
まるで空に届くように高く聳える巨大な塔は、遠くからでもわかるくらいに、金属で作られているかのように光を反射して輝いていて──まるでこの世界のものでは無いようにみえた。
ハルトは川辺沿いに、その塔を目指すことにした。
この旅の中で初めて、理由もわからぬ焦燥感に突き動かされるように、ハルトはその塔へと向かっていった。