16 居場所
卸先に挨拶まわりに行くジノーとヴィータを見送った後、見るからに落ち込んでいるハルトの背中を、ぽんぽんとラヤが手で軽く叩いた。
「次は三階の部屋の掃除、お願いしたいんだ。ついてきて」
明るくそう言うラヤの後ろについて階段を登っていく。
二階を通り過ぎ、三階にたどり着いた。
どうやらこの建物は三階建てのようで、階段はそこで終わっていた。
遺跡では何階もある建物跡を登ったことはあったが、こうして普通の三階建ての家を登るのは初めてだった。
三階まで登っただけなのに、不思議と沈んでいた気分が少しやわらぎ、ハルトはわずかにワクワクしていた。
廊下には四つ、扉があり、一番奥の扉を開いてその部屋の中へラヤが入っていく。
ハルトも後に続くと、部屋は天井が真ん中から左右に傾斜していて、少し圧迫感があった。
ベッドと棚が一つずつ、左側の壁際にあるだけの簡素な部屋だった。
正面の窓をラヤが開け放つと、差し込んだ陽の光が、舞い上がった埃にキラキラと反射して輝いた。
ここは通りの突き当たりにある建物の最上階だから、窓からは大通りまで見通せて、美しい街並みが広がっていた。
ラヤは振り返り、優しく微笑んで言った。
「この部屋を使えるように、綺麗にしておいてよ」
この部屋は、どうやら長いこと使われていなかったようだった。
一度、一階に降りて、湯浴み場の手前の小部屋でバケツに新しい水を汲む。
ノブを回すと、金属の器具から水が流れ出る。
井戸から水を汲まないで水が使えるなんて、本当に便利な仕組みだった。
水がどうして金属の器具から出てくるのか不思議そうに眺めていると、開いてるドアをコンコン、とラヤがノックしてハルトは振り返った。
「あと、トイレはここだからね」
そう言って手前のドアを開けると、遺跡で見かけたことのある形の、椅子のように座れる便座があった。
「ここを捻ると、水で流れるの。水洗式なんだ」
ラヤがノブを傾けると、じゃーっと水が渦を描いて吸い込まれていった。
ハルトの村ではトイレは共同トイレで、肥溜め式だったので、臭いのない、清潔なトイレが家に備え付けられていると言う事に衝撃を受けた。
「あ、流し忘れないようにね! 旅人さんはよく流し忘れるんだ」
ラヤはそう言いながらからからと笑って、仕事へ戻っていった。
そのひょこひょこ揺れる金髪を見送ってから、バケツのところへ戻り、雑巾をぎゅっと絞って、再び三階へと上がった。
ベッドのシーツを一度剥がし、窓の外で振って埃を払い、再び敷き直す。
村の干し草にシーツをかけただけのベッドとは違って、それは一階の椅子と同じように、ふかふかで寝心地の良さそうなベッドだった。
そのあとは雑巾で床や棚を拭き、床に溜まっていた埃をきれいに取り除いた。
掃除を終えた頃には、もう外は夕暮れだった。
ハルトは雑巾を絞りながら深く息をつき、ラヤに報告するために階下へと降りた。
「お疲れさま。その部屋、好きに使っていいからね」
軽い感じでラヤはそう言うと、最初に会った時にやっていたように片目を閉じてみせた。
ハルトは、言葉を失った。
まさか、さっきまで自分が掃除していた部屋が、自分のための部屋だったなんて──。
思ってもみなかったことで、しばらく呆然と立ち尽くしてしまった。
自分が今どんな気持ちなのか、ハルト自身もよくわからなかった。
ただ、ここにいていいんだと、言ってもらえた気がした。
一階に置きっぱなしにしていたリュックを背負い、三階の部屋に戻る。
荷解きをして、着替えを畳んで棚に並べた。
矢筒を棚の脇に置き、弓の弦を外して、静かに壁に立てかける。
次に、矢を1本ずつ取り出し、矢羽の状態を見ながら、丁寧に布で拭っていく。
曲がりやほつれはないか、目を凝らして確かめる。
旅立つ前に22本あった矢は、今では16本になっていた。
手入れを終えると、ハルトは窓辺に歩み寄り、外へ身を乗り出した。
三階の高さから、街の景色を見下ろす。
周囲の木組みの家々も同じくらいの高さで、それほど遠くまでは見通せなかったが、遠くの大通りを行き交う人々の姿が、小さく見えた。
けれど、どれだけ身を乗り出しても、セレスのいる塔は、この窓からは見えなかった。
それが、ほんの少しだけ残念だった。
営業の二人が帰ってきて、四人で小さなミーティングを行い、明日の仕事の確認をして、陽が沈んだ頃にハレカゼ商会の仕事が終わる。
ハルトに三階の一部屋を貸したことをラヤがみんなに伝える。
そのままみんなで夜ご飯を食べに行くため、帰宅の準備をする三人を残して、ラヤがハルトを呼びに階段を登る。
扉をノックして、ドアは開けずに外から声をかける。
「仕事が終わったから、みんなで食事に行くよ! ハルトも一緒に行こうよ、今日も美味しいもの食べさせてあげるよ」
ラヤが扉を隔ててハルトを誘う。
ハルトは少し間を空けてから返事をした。
「もう、眠いから、今日はもう寝るよ。部屋、ありがとうラヤさん」「そっか、じゃあおやすみ」
とったった、と、少女のものとしか思えない足音が遠ざかっていった。
それが、少しおかしくって、ハルトは微笑む。
掃除中に気になって押してみた、壁のボタン。
それをもう一度パチリと押すと、灯りが消え、部屋が静かに暗くなる。
文明を使う事に、少しずつ、ハルトは慣れてきていた。
便利だなと思う一方で、どこか、自分だけがそれを受け取っていいのかという思いが消えなかった。
──けれど。
こうして屋根の下で眠れること。
誰かと会って、言葉を交わして、明日もまたやることがあるということ。
それは、自分がまだ、ここにいていいのだと教えてくれる気がしていた。
手触りのいい上質な布の使われた、ふかふかのベッドに、倒れるように横になる。
こんなに柔らかい布があるなんて、知らなかった。
目を閉じるとすぐ、夢が迎えにきた。
──今夜は、何も思い出さずにすむ気がした。




