13 伝説の魔獣
レジスタリア領主のトルキン男爵は、執務室に籠もって震えた。グラスに注いだ真っ赤なワインを一気にあおるのだが、味も酔いも感じられない。
「なんなんだ一体、あのおぞましいものは……!」
トルキンはすっかり怯えていた。魔王の脅しが強烈に効いたのだ。実際の所、昏睡した兵をメッセンジャー代わりにすることは、さほど珍しくはない。彼が武人だったなら――せめて従軍経験があれば、ここまで怯えずに済んだだろう。
彼には堪えるだけの胆力はなかった。あるのは政争の才覚くらいのものだった。
「このままでは殺される。魔王の連中に……」
酒を浴びるように飲む。酔いは遠い。女たちが夜の誘いに訪れたが、トルキンは不明瞭に喚いては追い払った。そしてまた酒を飲む。
「死ねるか、こんな片田舎で死んでたまるか!」
魔王の懐に潜入させようとして、ことごとくが失敗した。戦力はいまだに不明確で、全容は把握できていない。叶うことなら本国プリニシアに応援を頼みたいところだが、それは失脚を意味する。
ただでさえレジスタリア平定が滞っているのだ。そこに援軍など要請すれば――彼の立場は非常に厳しくなる。だからと言って無策に過ごせば、魔王軍に蹂躙されることは、ジャクソンのメッセージから明白だった。もはや抜き差しならぬ所まで、事態は進んでいた。
トルキンの怒りは追い詰められた事で増幅した。そして護衛の2人に「出ていけ!」と怒鳴りつけ、執務室で1人きりになった。酒をのみ、呻く。自分の不幸と部下の不始末を呪いながら、ひっきりなしにグラスをあおった。
「あんなバケモノ相手に、いったいどうしろと……」
酒は快楽よりも先に眠気をもたらした。突然に緊張の糸が緩みだし、居眠りをはじめた。深いいびき、そして短い夢を見た。
『がおお! バケモノだぞ〜〜!』
『きゃああ大変、人間どもが虚しく命を摘み取られていくわ〜〜!』
甲高い子供の声とともに、名状しがたい怪物が闇で蠢く。そしてトルキンの身体を鷲掴みにして胸を貫いた。
「やめろっ!」
トルキンは机を揺らしつつ目覚めた。背中に大汗をかいていた。
「よかった、夢か。まったくバケモノだとか、フザけた事をぬかしおる……。うん?」
その時、トルキンは秘策を閃いた。バケモノを相手にするなら、同じくバケモノをぶつけたら良い。そして共倒れを狙うべきだと。
椅子から転がるようにして降りて、部屋を飛び出した。通路の長さに心が焦れる。目的地まで空間転移したい気分だ。
彼が1人で向かったのは、領主館にほど近い施設――研究塔だった。そこに務める魔術士は飛び跳ねんばかりに驚いた。酒の匂いを撒き散らすトルキンが突然現れたのだから、思わず面食らってしまう。
「閣下、本日はいかような――」
応対する声をトルキンは遮った。
「プリニシア本国より預かったものがあるだろう。さっさと出せ」
「なりません。あれはまだ調整どころか、まともな自我も」トルキンは腰の宝剣を抜き放って、魔術士に向けた。「つべこべ抜かすな、さっさとしろ!」
こう睨まれると、一介の術士でしかない青年は、従わざるを得なかった。トルキンを通路の奥へ案内して、突き当りの扉に辿り着く。魔法で施錠された鉄扉を、術士は震える手をかざしては、鍵を差し込むこともなく開いてみせた。
その先は暗い。下り階段で、点在する壁掛けランプが僅かに照らす。トルキンは呼び止める声を聞かずに、先に降りていった。だが酒に酔い、かつ太った腹が邪魔をして、段差で足を踏み外した。
「こいつめ、ちゃんとエスコートせんか! この無能めが!」
ランプを片手に追ってきた術士の腹を、トルキンは蹴りつけた。『く』の字に折り曲がる術士から、灯りをひったくり、またもや1人で降っていった。
階段を降りた先は一本道だ。じっとりと湿り、カビ臭く、寒気を誘うような石の通路――トルキンはその程度では怯まなかった。ようやく回ってきた酒が、彼の本能を鈍らせている。
やがて鉄扉が行く手を阻むも、そちらは施錠されていない。力任せに押せば、重たい音とともに開かれた。
「トルキン様! 何ゆえこちらへ!?」
室内に控える2人の術士がうろたえた。床には青く煌めく魔法陣が描かれ、その中心には拳大の水晶が安置されていた。水晶は赤黒く明滅を繰り返し、脈動を思わせる光を放つ――凶々しい輝きだった。
「そいつを解き放て。魔王が来るぞ」
術士たちは青ざめるものの、首を強く横に振った。
「それだけはなりません。この魔力核は、かつてレジスタリア地方を蹂躙した伝説の魔獣『オーガプラント』にございます。こやつはまだ、支配するどころか、自我すらも曖昧。解き放てば制御ができません」
「悠長なことを! 魔王と対抗するにはこれしかあるまい! もはや冒険者だのと言ってられん!」
トルキンは宝剣を振り回して、術士たちを追い払った。そして魔法陣に踏み込み、思い切り蹴る。
水晶は宙を舞い、魔法陣の外に落ちて転がった。それだけでも専門家にすれば冷や汗ものであるのに、トルキンは止まらなかった。
「いつまで眠りこけているのか、バケモノめが!」
宝剣を振り上げては、水晶に向けて斬りつけた。刃が甲高い音を響かせる。そして何度目かの斬撃でそれは起きた。
「キィエエエ!」
耳障りな絶叫とともに、辺りに漆黒の風が吹き荒れた。トルキンは壁に叩きつけられ、術者たちと固まって横たわった。
ランプが揺さぶられては光が明滅する。そうして見えたのは幹の太い植物で、狭い地下室で萎れるように首を傾げていた。大きなツルがあたりを探るように蠢いている。
トルキンは訝しんだ。果たしてこんな寝ぼけたバケモノが、魔王との戦いに役立つものかと。
(何が伝説級の魔獣だ。噂が誇張されただけでは――)
その時ツルが動いた。目で追えず、肌を打つ風で理解した。術士の1人が悲鳴とともに巻きつけられてしまい、その身体はまもなく、枯れ枝のようにしなびた。
「なっ! 今のは何だ!?」
トルキンはここでようやく酔いが冷めた。そして自分の迂闊さを後悔し始める――と同時に彼の身体もツルに巻き付かれてしまった。
締め付ける力は強烈だ。彼がどれほどもがいても、まったく相手にならない。
「うわぁ! もうお終いだ!」生き残った術士がトルキンを見捨てて逃げていく。「おい待て! 貴様、顔は覚えたぞ!」
この期に及んでトルキンは、権力が通用するとでも思ったらしい。いや、他にすがるべきものが無いのだ。
彼は権謀詐術のほかに、何の取り柄もないのだから。
「無礼者が! この私を誰と心得る――」
トルキンは魔獣相手に怒鳴りつけた。しかし、自我のない怪物に何が響くというのだろう。締め付けは更に強められ、同時に生命力も奪われてゆく。
「誰か! 私を助けろ! 早く!」
助けを求める声は、やがて断末魔の叫びに変わる。そしてトルキンも、その生命力を吸い取られてしまった。
するとオーガプラントは、力を取り戻したようで、その身体はみるみる膨らんでいった。地下天井を突き破り、上モノの研究塔を破壊して地上に現れた。
瞳のない顔が空を見上げ、大口が咆哮を響かせた。
「なんだあのバケモノは!?」
街のあちこちで声があがる。するとオーガプラントは、自身の身体に生える無数のツルを切り離した。そのツルは、各々が独立した意志を持つかのように、地面でうねり、そして地を這った。
狙うのは、活きの良い人間たちだ。ツルに囚われた人々は片っ端から餌食となった。
「助けてくれ! 死にたくない――!」
レジスタリアは一夜にして阿鼻叫喚の地獄に変わった。たった1人の傲慢さによって、今まさに、滅びの憂き目にあっていた。