プロローグ
夕日で赤く染まる森の中を、1人の少年が走っていた。足はもつれ、息も絶え絶えだというのに、立ち止まる事はない。薄汚れてボロボロのチュニックとスボンは、新しい泥にまみれていた。
浮浪児の少年グレンは、必死の形相で走り続けた。
「早く、早く助けなきゃ……!」
彼が焦燥感に駆られるのは、たった1人の肉親を攫われたせいだ。犯人は、街の奴隷商『ヴィラド商会』の手の者で、荒くれ者たちの集団だった。弱冠12歳の少年に太刀打ちできる相手ではなかった。
街の大人たちも同じように無力だった。自警団に相談しても「残念なことだが……」と傷心に寄り添うばかり。一時は途方に暮れたグレンだが、ふと思い出した。街の飲んだくれが漏らした噂話を。
――街の北に『帰らずの森』があるんだが、その先には魔王が住んでるらしい。どんな悪党も敵わねぇくらい強くって、騎士団ですら手出し出来ねぇらしいぞ。
その噂ひとつだけを頼りに、グレンは街を出た。誰も助けてくれないのなら、魔王にすがるしかない。称賛も打算も度外視で、ワラをも掴む想いだった。
昼間から駆け通しで、間もなく陽が暮れる。身体はすでに限界を通り越していた。渇いた喉が張り付いて痛む。胸は今にも破裂しそうで、足の感覚もほとんどない。もはや気力だけが頼りだった。
「待っててくれ、ミレイア! 絶対にお前を助け出してみせる!」
日が沈むにつれ、辺りを夜闇が覆い隠していく。土地勘のない森に1人きり。胸に不安と恐怖が交互になって突き刺さる。
何せ魔王が存在する保証はないのだ。そして、仮に魔王に会えたとして、手を貸してもらえるか分からない。そう考えると、この疾走劇も徒労に終わるかもしれない。
「諦めちゃダメだ、ここに賭けるしかないんだから……!」
だがここで、ついに彼の足は止まった。突然目に飛び込んできた異変が、そうさせたのだ。
「な、なんだこれ! 街の大人か!?」
微かに差し込む夕日が、3人の吊るされた男たちを赤く照らした。無言のまま、ギシギシと音を鳴らして揺れている。足元には真っ二つに折れた剣、それと力任せに捻じ曲げたような槍が散乱していた。
そして、目に付く位置に血染めのように真っ赤な看板には、こう書かれていた。森に入るなブチ殺すぞ――魔王アルフレッド。
「それじゃあ僕も、きっと同じ目に……!」
グレンの呼吸はただでさえ荒いのに、更に激しさを増し、強いめまいまで伴った。鼓動も音が聞こえるほど脈打った。汗だくになるほどに熱い身体は、今や冷水を浴びたほどに冷えて、震えが止まらなくなる。
怖い、逃げたい、楽になりたい。矢継ぎ早に込み上げてくる言葉たち。思わず後ずさりしかける。
だが弱い心は、ミレイアの記憶が吹き飛ばした。凍えるほど冷え込んだ晩に、お互いつなぎ合う手の温もり――言葉とともに甦る。
(いつまでも一緒だよ、お兄ちゃん!)
震える手を、固く握りしめた。怯んだ顔に少しずつ意思の光が宿る。
「そうだよ、他に手段なんてないんだ。もう行くしかない!」
地を強く蹴って、再び走り出した。既に陽は落ちて暗闇が濃くなった。方角も見失いかけているが、とにかく前へ。体力の続く限り。
もはやヤケになって走り続けるだけだった。
「まだか、いつになったら森を抜けるんだ……!」
地面から張り出した木の根につまづいた。
投げ出された身体が宙を舞う。木の幹にぶつかり、地面に背中を打ち付けて、坂道を転げ落ちていく。仰向けの態勢で止まったところ、頬を笹の葉が撫でた。
疲労と痛みで気を失いそうになる中、グレンは星灯りを見た。満天の星空が広がっていた。
「えっ、空だって!?」
思わずグレンは半身を起こした。
青くて丸い月と、駆け抜ける流星が見えた。辺りは緩やかな丘陵で、果てしなく続く草原が、風に吹かれてなびく。サラサラという葉を擦り合わせる音が、耳に心地よく届いた。彼は苦労の末に森を抜けたのだ。
「ここが魔王の住むところ……?」
グレンは拍子抜けした気分だ。想像するより長閑で、穏やかな光景が広がっていたからだ。
例えば狂ったように蠢くマグマに、亡霊の嘆くような風の音。あるいは、冷たい鎖に縛られた冒険者の亡骸といった、力と邪悪さを思わせる光景が1つとして見当たらない。
思わず呆然と立ち尽くすグレン。そこへ誰かの問う声が届いた。
「あら珍しい。子供がたった1人で?」
グレンはおもろに顔を持ち上げた。そこには、宙に浮かぶ1本のホウキと、それに腰掛ける女の姿があった。
麻のワンピースを着た若い女――のように見えたが、似て非なる存在だった。頭にはキツネの耳が生えている。
「大丈夫? 迷子になったのかしら?」
続けて問われる。グレンは慌てて返答するが、喉が痛むあまり、上手く言葉にならない。
「あの、魔王様がここに居るって聞いて、助けてほしくって……ゲホゲホッ」
「そうだったのね、ウンウン。とりあえず乗ってちょうだい」
キツネの女は尻をずらして、手を差し伸べた。
グレンはおずおずと手を握り、女の隣に腰掛けた。するとホウキは緩やかに飛んだ。地面からさほど離れることなく、風に乗って浮遊するように。
飛翔魔法は、ただの浮浪児であるグレンにとって初めての体験だった。頬を打つ風が心地よい。疲れ切った身体を、優しく撫でるようだった。
「あの、お姉さんが魔王様なんですか?」
「ふふっ、違う違う。私は狐人のリタっていうの、よろしくね」女は愉快そうに笑った。
その笑顔にグレンは救われた想いだ。魔王に対する恐怖心が、微かに薄れたからだ。
何とかなるかも知れない――という希望が生まれるとともに、運命の歯車がゆっくりと回りだす。
しかしその音は、まだ誰の耳にも聞こえはしなかった。