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それは気まぐれな神様の物語

  

                 1

 

 強い風が吹く。

 高所から見下ろしている為、邪魔にならないように後ろで束ねてきた髪が強風で時折視界を遮る。

 ここは上空三十メートル、夜の帳から見下ろした視線の先にはこれから死ぬ定めにある人達がいる。

「数は、三十人くらいかな」

 私は努めて冷静に、事務的に人数の把握に努める。

「午後二十一時三十分四十五秒に、崩落するビルの下敷きになる人々を全員助け出すこと」

 神様からの依頼を、頭の中で反芻させる

 ゆっくりと、深く息を吸い細く長く息を吐く。

 緊張しているからか、中々深呼吸を止められない。

「落ち着け私、あの時は上手くできたしビルの火災の時だってやれたんだ」

 幸いこの体は心拍数が上がることはないけれど、やっぱり人の命を背負うことは慣れない。

「ねぇ、準備はいい?」

 不安と緊張を誤魔化す為に、目の前の夜空に語り掛けた。

 すると、月明かりで伸びた私の影が水面の様に波紋を作る。

『貴方こそ、しっかりした方がいいわよ』

 綺麗な声は、影の中から聞こえてくる。

 それは影よりも黒い何かで、澄んだ鈴の様な音色を響かせながら徐々に姿を現していく。

 程いなくして姿を現したそれは、影や闇夜に負けない程に艶やかな毛並みをした黒猫である。

 猫は大きな欠伸を一つして、私の隣に並んだ。

『私よりあんたの方が駄目そうな気がするわよ、朱音』

 変声期を終えていない少年のような綺麗なテノールボイスは、猫から発せられた声だ。

『でも、今回は失敗しないでほしいわ』

「そうだね、今回は助ける人数も多いしね」

『お互いのためにも、ここは成功させときたいわ』

 私は心臓の位置を触った。

 今の私は人間のような温かさも鼓動もなく、心臓の位置にある淡く光るこれのお陰で私と猫ちゃんは助かった。

 〝運命の賽(フォーチュン・ダイス)〟これが、人に奇跡をもたらす物なのだと神様は言った。

「こんなものが、奇跡の形なんだね」

 俯いた私の喉から、怨嗟の籠った低い声が漏れた。

 自分の胸にある崩れかけた〝運命の賽〟を睨む。

「こんなものが人の生死を決めているんだね」

『そうね、このおかしな物のせいで私は死ぬ事が出来ない』

 猫ちゃんは、自分の首に掛かった〝運命の賽〟を忌々しげに前足で揺らした。

 傍から見ると鈴にじゃれているようにしか見えない。

『何よ』

「何でもないよ」

『何でもないなら、その含み笑いを止めなさい』

「は~い」

 私の軽口には、慣れてくれたみたいだ。

「ねぇ、聞いてもいい?」

 時間まであと三分だ。

 手持ち無沙汰ついでに、私は説得を試みる。

 それは私達が初めて会った日にも聞いた話、それは私達が相容れないとゆう証の問いでもある。

『何よ』

「貴方は、まだ死にたいの?」

 命は尊いと思うから、自らに与えられた命の価値をどう思っているのか問わずにはいられない。

 なにせこの子は、死ぬためにここに居るからだ。

『また説教? 命を粗末にした貴方に説教を受ける筋合いはないわよ』

「命の使い方はそれぞれだけど、それはただの放棄だよ」

『なんですって?』

 猫ちゃんが、こちらを見た。

 私は、見下ろしながら答えた。

「私達は命を貰ってここにいる、だから私達はその命を謳歌しまきゃいけない」

『だから、途中で投げ出すことが罪だと言いたいの?』

「そうだよ」

『貴方はどうなの、私なんかの為にその尊い自分の命を使っておいて説得力に欠けるわ』

「そんな事は私が一番分かっている、でもあなた命だって立派な命だ」

 両親に置いて逝かれた、私だから吠えられる。

 誰かに助けられた私だから今度は私が助けてあげなきゃいけない。

 救われるべき命に、命を掛けて手を伸ばしたい。

『矛盾しているわ、自分の人生を大切にしたいのなら自分以外の命に無関心であるべきよ』

 猫ちゃんの言いたいことは分かる。

「それでも私は、目の前の命を救うことを躊躇いたくはない」

『……やれやれ、本当に気付いていないみたいね』

 溜息と一緒に出た猫ちゃんの言葉。

 その理由を聞く前に、鼓膜が震えた。

 時刻を見ると指定の時間が来ていた。

 予言通り、大きな爆発が起きて目の前のビルが倒壊を始めている。

 言葉の意味は気になるけど、今は仕事を片付けよう。

「行きましょう」

『そうね、行きましょうか』

 短い意思疎通の後、私達は一緒に夜空に身を投げた。

 三秒ほど風を体で切り、すぐにそれが浮遊感に変わった。

 背中に羽はない、でも私は確かに空を飛んでいる。

 そして、浮遊感と同時に轟音と爆風が周囲を揺らした。

 爆風共に落ちる巨大な看板や無数のガラス片が眼下に居る人々に降り注ごうとする。

 時間は一分、つまりそれが眼下に居る人々が死ぬ時間だ。

「来て、蒼音(あおね)!」

 私は鋭く猫ちゃんの名前を口にする、その名前は二週間前に神様から与えられた名前である。

 私が叫ぶのとほぼ同時に蒼音の身体が私の手に収まり、そして小さな私の手に背の丈くらいの大きな杖が握られた。

 死ぬ定め、杖を構えた私はその因果を捻じ曲げる事が出来る。


「〝因果よ、捻じれよ(トゥウィスト)〟」


 呪文が紡がれた。

 それと同時に、土煙と鉄片が上空に舞い上がった。

 けど、落下物は下に居た人たちに降り注ぐことなく周囲に散らばる。

 恐怖で動けずにいた人々が困惑しているのを見届けて、私はそのまま夜空に逃げる様に身を翻した。

 そして、今夜も不幸に無くなる命を救えたのだ。

 これは、天使になった私と一匹の猫のお話。

 物語の始まりは、二週間前に遡る。



 二週間前 



 キーンコーンカーンコーン


 授業の終わりと一日の長かった時間割の終わりを、ウェストミンスターの鐘の音が告げた。

 不愛想な担任兼世界史の先生が何も言わずに颯爽と教室を去っていくのを三十人の瞳が見送ると、教室に押し込められていた陽気な生徒数人は膨張した空気の如く先生が去っていった教室の穴めがけて駆け出す。

 それを冷めた目で見送っている私。

 やはり、今日もあいつ等は参加しない気でいるようだ。

「仕方ない、行くか」

 私の体重に似つかわしくない、重い腰を上げて教室から出る空気の一つになる。

 今日は校内美化の活動がある日であり、さっき出ていった奴らは前回不参加だったので今日は強制参加のはずだ。

 その筈だが、どうやら遊びに脳のリソースを割かれているようで今回もやらずに帰ってしまった。

 正直に言おう、私も帰りたい。

 でも、そうなると校内美化皆勤賞である私まで怒られるかもしれない。

 そんな理不尽は、御免だ。

 そう脳内の愚痴をこぼしそうになった時、私に声が掛かる。

「朱音、他の奴らどうした?」

 学門前にある掃除用具の扉を開け、ごみ拾いの準備をしていると学年主任の先生がこちらに来た。

 聞かれた事に嘘を吐こうかと思ったが、そんな義理はないと私は偽善をしまう。

「声を掛ける暇もないくらい、颯爽と帰りました」

「そうか、あいつ等には俺から言っておくからお前も今日は帰っていいぞ」

「ありがとうございます、でも準備も済ませてしまっているので少しだけやって帰ります」

「すまないな、よろしく頼む」

 先生は心底申し訳なさそうにそう言うと、職員室に戻っていった。

「大体、自主性を重んじるとか言って強制にしないのがいけない」

 先生がいなくなって気が緩み、愚痴をこぼす。

 愚痴は止まらないが、軍手をする手も止まらない。

 嵌めた軍手の不快さに顔をしかめつつ、改めて学門前のごみ拾いを始めようとした時だった。

 私の数える程しかいない友人達に、声を掛けられた。

 世間話と、状況の説明。

 それを伝え終わると、掃除をする人が一人から四人に増えた。

 それからは、愚痴と憤慨と世間話をしながら落ち葉や可燃ごみをゴミ袋に詰めていく。

 我ながら現金だと思うが、いつの間にか私の口から愚痴は零れなくなっていった。

 私的にはいつまでも付き合わせるのは申し訳なかったので三十分くらいで切り上げようと思っていたの だけど、会話が弾みや手際の悪さも相まって一時間も経ってしまい夏の日差しが西に傾き始めてしまっていた。

 私は、そろそろ切り上げようと声を張るために顔を上げた。


 私はそこで、その名前を聞いた。


 不意に、風に流された雲が私の影を隠しす。

 それと同時にさっきまで暖かった心が急速に冷えていくのを私は、はっきりと自覚していた。

「私は、神様は嫌い」

 私の、怨嗟にも似た呟きを聞いて私とごみ拾いをしてくれていた友達は困惑している。


 それは、そうだ。


 何せ友人の一人が推しのライブのチケットが当たった話の流れからその話になってしまったんだから、困惑は当然の反応だと思う。

 彼女は、本気で神様に感謝をしたわけじゃない。


 それも、分かっている。

 でも、私はその者の存在は許せない。


「だって、神様は平等じゃないから」

 こんな突飛なことを言い出した私の言葉に、友達は耳を貸してくれた。

 そして、とてもシンプルな答えを言った。


 〝神様なんていない〟と。


「そうだね」

 私は、そう返した。

 それから直ぐに部活終了の鐘の音を聞いて、手早く掃除用具を片付けた私は三人を置いて校門前で別れた。


 一人になりたかった。


 手伝ってくれた友達に、嫌な思いをさせてしまった。


 自分の重い過去を、背負わせようとしてしまった。


 そんな弱い自分を見せたくなくて。



 強歩はいつの間にか、小走りになっている。


(苦しい、くるしい、クルシイ)


 (うつつ)の罪悪感と炎に包まれた過去が私から酸素を奪っていき、肺が酸素を求め始めた時にようやく小走りを止めた。

 私は立ち止まり、酸素を求める為に顔を上げる。

 そこはいつもの通学路で誰も待っていない家路に続いている、そこを見た時に私の滲んだ汗と心の騒めきは一気に引いていった。

 そして、息の乱れも収まったころゆっくりと歩みを進める。

 私の歩いているここは過疎化が進みシャッター街が目立つようになってきているけど、駅前のビルが建っている辺りは比較的都会風な飲み屋が立ち並ぶ。

 そこから数百メートル行けば駅前の大通りとも繋がっていることもあって、居酒屋やキャバクラも多く点在していてまだまだ衰える気配はなく客引きの声や酔っ払い達の喧騒が静かに眠ろうとする町に響きわたる。

 眠らない町と言えば、聞こえはいい。

 耳には心地いい響きだろうが、私の知るここは不眠症と言った方がしっくりくる。

 最後の最後まで安眠を許さない事を、自分に課している町こそ私が十七年間住んでいるこの町の姿だ。

 だが、この町にもいいところがあるのも事実だ。

 例えば、ここには大きな湖があり毎年そこから打ちあがる大輪の花は見る人たちを感嘆させる。

 さらに文化財に指定されている古城もあることから観光客からは人気があるが、旅館やホテルが立ち並ぶ賑やかな通りから一本横道に入ればそこには廃れて眠る街の顔を覗く事が出来る。

 その光景こそ本当の街の姿であり、いくら流行を取り入れ着飾っても衰退に歯止めはかかっていない。

 静かに息を引き取るのが、この町の宿命なのだと閉店したスナックの看板が物語っている。

 そうシャッター街を冷静なった頭で家路についた私の思考は、さっきの出来事に映っていく。

「後で、謝らなきゃ」

 呟く。

 そして、立ち止まった。

 そこは交通量の多い危険地帯で、当然信号機が設置されている。

 ここは、捕まるとしばらく青信号にならないのでスマートフォンに目を落とす。

 先程の事を謝ろうと文字を打とうとした時、足元を黒い何かが通り過ぎた。

 視線で追うと、それは寂しそうな背中をした子猫で迷うことなく交通量の多い道路に向かって歩き出している。

 そこから先の未来は容易に想像できてしまった、それ故に私は手を伸ばした。


 消えかける命を、救うために。


 不幸に無くなる命を、全て救いたいなんて思わない。

 そんな力は私にはないし、ニュースから流れる不幸な事件に胸を痛めることもない。

 この心の在り方が、偽善であるとゆう自覚はある。

 それでも手を伸ばすことを止めてしまったら、私は何の為にあの地獄から生かされたのだ。


(私は、救われなくてもいい)


 でも、せめて手が届いたのなら手の中にある命だけは救われてほしい。


(生きてほしい)


 それだけを願って私は手を伸ばし、そして抱えた小さな命ごと私を吹き飛ばした。

 血の気が引き、冷たくなっていく私。

 手の中で冷たくなっていく、猫の命。

 

 数分と経たないうちに、私の瞼は落ちていく。

 何とか意識を保とうとしたけど、瞬きするのも疲れた私は瞼を閉じて視界を闇に喰わせた。


 そうして、私の十七年間の生涯は幕を閉じた。



 私は昔とても凄惨な人災にあった事がある、それは新聞に載るような大きな事件だった。

 それで、私だけが助かった。


(何故?)


 私は、両親と死ぬ事が出来なかった。


 あの日を生き残る事が出来た、それは奇跡だと叔父さんは言った。


(私は、奇跡に助けられたの?)


 私は、奇跡は人が起こすものだと思っている。


 だから、私を助けてくれたのは決して神様じゃない。


(だったら、神様って何なのだろう)


 奇跡って、何なのだろう。


(誰も、教えてはくれない)


 誰も、私の問いに答えてくれない。


(……しかし、不思議だ)

 私は確かに死んだはずなのに、こうして思考する事が出来ている。

(何故?)

 疑問を投げる、だが答えは簡単なのだろう。

(私は、生きているの?)

 そう、私は生きているのだ。

(でも何故? 何故、私は生きているの?


 また、私は生き残ってしまった。


(そうか、私はまだ――許されないんだ)

 なら、私はまた偽善を重ねよう。

(それが、何かに生かされた私の責任だから)

 瀕死の筈の体を起こし、重い瞼を開けようとするけど思うようにいかない。

 けど、こじ開ける様に目に光を入れようとする。

 すると、寝ぼけ眼の様な目の霞から数分は悪戦苦闘したと思うが何とか光を得る事が出来た。

「え?」

 そう思わず出た、間の抜けた私の声。

 そこにあったのは見上げる程の壁、どうやらそれはビルの壁面の様であり私はそこで倒れているようだ。

 次に、目の前にあった発泡酒の瓶らしき物に顔を映す。

 それと同時に、左手の親指の腹で軽く擦る。

 私は子供の頃からの癖で、何故か左目の瞼を触ると落ち着くとゆう癖があった。

 何故そんな癖がついてしまったのかは分からないけど、他の人が自分の手を見て自己であると確認するように私は自分の瞼を触ることでこの体が自分の物であると確信できるのだ。

 そして、自分の左目が私の左手を捉えた。


 間違いなくそれは、十七年間連れ添った三日月朱音(みかづきあかね)の手だった。


「何があったんだろう」

 ゆっくりと体を起こしながら何とか思い出そうと記憶を手繰り寄せた時、頭の中に走った刺激に顔を歪める。

 手繰り寄せてしまった記憶は、悪夢の走馬灯。


 猫を抱く私。


 直後の、大きな衝撃と浮遊感。


 優しい母の笑顔。


 焼けた滑走路の臭い。


 そして、寄り添いながら眠る両親の顔。


 それは私が乗り越えなければいけない忌々しい過去と、現状の再確認。


 嫌な思い出を振り落とす様に、頭を振る。

「そうだ、あの猫ちゃんは?」

 思い出し、辺りを見渡す。

 首を振って体を捻じり、周辺にいない事を確かめて猫ちゃんを探すため歩き出そうとした時だった。

 この裏路地に似つかわしくない花の様な匂いが鼻腔をくすぐる。

 その匂いは、存在感はあるのに他人を不快にさせない芳醇な香り。

「この匂いは、どこから……」

 猫を探すついでと思い匂いを辿っていく、そして目の前の向かい合った建物同士の隙間の影を捉える。

 捉えて数秒後、その影が石の落ちた水面の様に揺れた。

「おやおや、こんな所に居たんですか」

 視線が釘付けになった。


 そこには、長身の女性が立っていた。


 私の鼻に、まだ花の香りのような芳醇な香りが漂ってくる。

 それは、生ごみ置き場になっている裏路地にはあまりにも似つかわしくない芳醇な匂いだ。

 私を見つめる瞳は美しい琥珀色をしていて、腰まで届く髪はこの薄暗い路地を隅まで照らすかのように輝く純白である。

 服装は薄い生地の黒のドレスで、太ももや胸の辺りが透けて見えており何とも色っぽく口角をわずかに上げて微笑むこの人はひょっとしたら絵画から出てきた幽霊なのかもしれない。

 名のある画家の絵に魂が乗り移らなければ、この美しさを現代に表現することは出来ないだろう。

(いや違う、そんな境地にこの人はいない)

 その息遣い、その仕草は無機物の絵では届かない生々しさを醸し出している。

 この人は、一つの到達点だ。

 人としても芸術としても人々が目指す境地なのだろう。

 語彙の少ない私がこの人の存在を明記する事は出来ない。

 最早、畏怖に近いほどの身震いが起きる美女が突然ビルの影から出てきた事に驚いていると目の前の女の人が声を上げた。

「怖いわ、そんな目で睨まないでね」

 別に睨んだ覚えはないのだが、猫得有の切れ目のせいでそう見えてしまったのだろう。

(別に、そんなつもりはなかったのだけど――)

 心の中の弁明を、口に出そうとする。

「そうなの? それなら良かったわ」

 けど、弁明を口にする前に自分の考えを読まれ思わずその人の顔を二度見してしまった。

「私の考えが分かるの?」

「ええ何せ私は、神様なのだから」

「……え?」

 そして、いつの間にか私の傍に来ていたその人は囁くように告げた。

 私は確かにその言葉を聞いた、その名は私が最も憎む者の名だ。

 自らを神と呼ぶこの女性が、私の横を通り過ぎ表通りの方に歩いていく。

「ついて来なさい」

 短い言葉、私はそれを受け入れた。

 見た目の事もあり明らかに怪しかったけれど、この人についていけばこの状況が分かるかもしれない。

 その思いから、私は美女の隣に並んだ。

「疑っているのね、まぁ無理もないわ」

「すみません、どうにもピンと来ないです」

「気にすることはないわ、現実を見れば嫌でも私の言葉を理解できるわよ」

 その女性は歩みを止めない。

 決してゆっくり歩いているわけではないのだろうが、やけに遅く感じた。

 一分ほどで、細い通りを抜けて大きな道路に出た。

 私は、その光景を一生忘れないだろう。

 それは、人の波が目の前を通り過ぎているところだった。

 小さい子供が白波を作り、大人が大波を形作っているように不規則に動いている。

 速く、時に遅く。

 歩く者や走る者達が一つとなって大きなうねりを作っている、それは左側の交差点から流れてきているようだ。

 神様と名乗る女性は、人波の流れと逆いながら歩いていく。

 その視線の先に、私も黙って歩く。

 この人が神様かどうかは置いといて、この人は何かを知っている。

 今の私には何が起こっているか分からないが、この先にある何があるのかを私は知らなくちゃいけない気がした。


 でも、同時に知りたくないとゆう気持ちも出てきてしまう。


(何故なんだろう?)

 そう私が考え葛藤している間に、私と並んで歩く女性はいつの間にかひと際大きな人混みをかき分けていた。

 慌ててその後を追う。

 そして、私の目がその中心にある物を見つめる。

 視線の定めた先には額に汗を滲ませ、何かの専門用語を口走っている隊員達の必死な形相だ。

 酷く焦っている、それしか分からない。

 次に、救急隊員の人たち足元には細い華奢な足が見えた。

 黒のハイソックスに包まれた足から視線を体の方に上げていくと、見慣れたスカートが目に入った。

 それは、私の通う高校の指定のスカートだ。

 地元では有名な進学校である私の通う高校は、制服もかわいいと評判でありこの制服を着ているだけで 羨望と嫉妬の眼差しを向けられる。

 私もよく市営図書館で勉強していると、じろじろと見られた記憶がある。

 最初は気のせいだと思っていたが、友達から制服の評判を聞きそうゆう事かと納得した。

「まさか、そんな……」

 私の僅かな回想の間に、視線は体に登っていく。

 華奢な体は灰色のカーディガンを着ているため、それ程体のラインは出ていないにも関わらず線の細さを隠しきれていない。

「いや……」

 思考の整理で頭がいっぱいだ。

 次第に頭が熱くなっていく。

 風邪をひいてしまった時みたいに、体に嫌な熱がこもる様な感じだ。

 そうだ間違いなく、私は緊張していた。

「さぁ質問よ」

 私の耳が美女の声を捉える、でも声が遠くに聞こえる。

 しかし、拒否しがたい声についに倒れている少女の顔を見てしまう。

 小ぶりな顔に不釣り合いな、大きな人工呼吸器を口に当てられて静かに眠っている。

 その顔を、見間違うわけはない。

 毎朝、鏡の前で笑顔の練習をしているその人物を知らないわけがない。

「あれは、私?」

 そう、あれは私。

「どうして、あそこに私が居るの?」

 訳が分からない。

 ここに鏡はないから、私が私を視認できるはずがない。

「教えてほしい?」

 混乱し始めた頭に、美女の艶やかな声が響く。

 頭に直に響いているようで喧騒の中に居るのにしっかりと聞き取る事が出来た。

「貴女なら、分かるんですか?」

「勿論よ」

「なら、説明してください」

「いいわ、それに……もう一人にも説明しないといけないものね」

「もう一人?」

「でも、その話は人気のないところに行きましょう」

「……分かりました」

 私はそう短く返事をして、近くの建物の隙間に入ることにした。

 そこはさっきの裏路地よりもゴミが散乱し、特に生ごみの悪臭が酷く匂う場所だった。

「大丈夫?」

 美女の声に、何とか返す。

「すみませんまだ混乱しています、私はまだ生きているんですか?」

 混乱しながら、私は一つの考えを口にした。

 他の人から見れば私は死者の魂、だとすれば私はここに居てはいけない筈だ。

「そう考えるのも無理はないわ、あの状態で生きている方が奇跡なのだから」

 目の前の美女は、そう答えた。

「そんなにひどい状態なんですか?」

「ええ、一命は取り留めたけど間違いなく重症だわ」

「私を、助けてくれたんですか?」

「そうよ、でも貴方が庇わなければ間違いなく猫は死んでいたわ」

「そっか……良かった」

 そう呟いた時、美女の視線が現場の方に向けられる。

「あら、貴方が病院に行くわよ」

 その視線を追うと、救急車が走り去っていくのが見えた。

 それと同時に、野次馬の声が聞こえてきた。

 ここは事故現場に近い事もあり、周囲の音は否応なしに聞こえてくる。

 その会話の内容は私に対する同情や賞賛、あるいは叱責、侮蔑といったものも聞こえてきた。

「英雄になった気分はどう?」

 静かに私に視線を戻した美女が、私を見ながらそう口にした。

「やめてください、別にそうゆうのが欲しいわけじゃありません」

 私のこの行為は決して褒められたものではない。

 子供の頃、お母さんに言われた事がある。

 人は自分を大切に出来なければ、他の人を思いやることは出来ない。

 他人を幸せにしたければまずは自分の幸福を見つけなさいと、そう言われたことがある。

 けど、私はまた(・・)自分の幸福を見つけられないまま自分の命を懸けてしまった。|《》

 その結果がこれだから、母さんは私を叱るだろう。

「普通なら猫の命と自分の命を天秤にかけることはしないし、普通はそんなことは出来ないものだわ」

 美女の言葉に、嬉しさを感じるのと同時にどうしようもなく嘲笑の思いも溢れてしまう。

出来ないんじゃなくて(・・・・・・・・・・)……してはいけない(・・・・・・・)んでしょう?」|《》

 そう、人は他人の為に自分の命を掛けてはいけない。

 それは、自滅とゆう最も人が侵してはいけない愚行である。

 自分の命以上に、尊いものはない。

 そんな事は知性のない虫、いや生き物であるなら自然と理解していることである。

「確かにあなたの行った行為は蛮勇そのものでもね、それで救われた命は確かにある事も覚えておいてね」

そう言い終えると、美女は私を指さした。

「でも、その猫はどう思っているのかしらね」

 唐突に、私の足元を指さした。

 指を差された先に視線を送ると、そこにいつの間にか猫が座っていた。

 私の影を座布団にするみたいに、ただ静かな地蔵の様にそこに居たのだ。

「私は、諦めるよりもいい事だと思うのだけど貴方はどう思う?」

 美女は猫を指さしている、猫は静かにその指の先を見つめていた。

「あの、この猫は――」

 大丈夫なのか、そう問いかけようとした時だった。

『ふざけるな』

 それが、声だと分かるまでに数秒を要した。

 子供ほど声は高くはないけれど、はっきりと女性と分かる透き通った中性的な声だ。

 私でもなく、美女の声でもない。

 それは紛れもなく、この猫から発せられたものだ。

『余計な事をしてくれたわね』

 そんな声から聞こえてきたのは、怨嗟の声色だった。

『誰が助けてくれって頼んだのよ、まったくいい迷惑だわ』

 猫は鼻を鳴らした。

 忌々しげに神様と私を睨んだ。

「あらあら、嫌われちゃったわ」

 神様の軽口が響いた。

『ふざけるな!』

 猫ちゃんの声が木霊す、それは荒々しく周囲を呪わんとするような怖い声が響く。

「何故、君は死にたかったの?」

 神様の問いを猫は馬鹿にするように鼻を鳴らした。

『あんたには関係ない、とにかく私の邪魔はしないで!』

 猫は神様に背を向けて歩き出した。

 多分、また自分の死に場所を探しに行くのだろう。

「待って、猫ちゃん!」

 それが分かってしまう私は、やはり放っておく事は出来なかった。

『そこをどきなさい、貴方は私の前に立つ資格すらない』

 目の前に立ちはだかった私を、猫は冷たい眼で冷たい声色で一蹴した。

「確かに、私には貴方を止める権利はない」

『だったら、そこをどいて』

「どかない」

『いい加減にして、子供の言い分に付き合うほど暇ではないの』

 猫の歩みは止まらない。

  私の横を通り過ぎようとしている。

 その猫背に声を掛けたいけど、私の言葉に歩みを止められるだけの力はない。

 自分が一番わかっているんだ。

 自分の命を粗末にした私に他人の命を救う権利はない。

『私は消えてしまいたいの、その邪魔をするなら――』

 再び声を荒げそうになった猫ちゃんを神様の声が遮る。

 その言葉は、まさに神からの宣告だった。

「残念だけど、貴方は死ぬことは出来ないわ」

 猫ちゃんの瞳が大きく見開いた。

 まるで、薄暗い路地の光を余さず拾おうとするかのようだ。

 その瞳は揺れていて明らかに感情を隠せていない。

『ど、どうゆう事よ!』

 ようやく発せられた言葉は震えていた。

 喉から絞り出すような声色には動揺が見て取れる。

「言葉通りの意味よ、貴方達は〝(かみ)権能(けんのう)〟になってしまったのだからね」

 美女の言葉は難しかった。

 そもそも権能とゆう言葉からして普段から使わない。

「人間の言葉で一番近い表現をするなら天使かしらね」

「猫ちゃんと私が、天使?」

『訳が分からない、そんなものになった覚えはない!』

「貴方の意思は関係ないわ、貴方達の命を助けるために必要な行為だったのよ」

 猫ちゃんは次の言葉を発せないでいた。

 代わりに射抜くような視線で話の先を促した。

「この後の説明は、するより見た方が早いわ」

 そう言いながら美女は私達を指さした。

 すると、薄暗い路地が仄かに明るくなり始めた。

 それは段々と周囲の壁を強く照らし出し、やがて私の顎下を照らした。

「これは、なに?」

 周りを見渡しても光源らしきものはない。

 何故なら、光っているのは私だからだ。

『何よ、これ……』

 掠れた声が聞こえ、困惑した顔のまま猫ちゃんの声を追って視線を下に向けた。

 向けた視線の先に、もう一つの光源はあった。

 猫ちゃんの頭上、二十センチ位の所で浮かんでいた。

 やがてそれが、首輪の様に猫ちゃんの首に巻き付いた。

 けど、それが何であるかは分からない。

「これは何ですか?」

 私が最初にイメージしたのは、子供の頃にお父さんに買ってもらったルービックキューブだった。

 けど、面を揃える事が出来なくて嫌になって投げてしまって壊れてしまったのを思い出す。

「それは〝運命の賽(フォーチュン・ダイス)〟生命に与えられた奇跡の結晶、奇跡が形を成したものよ」|《》

 ここまでの経緯でようやく私はこの人物が神様だと本能が認め、私はこの神様を憎悪の眼差しを持って見る。

 そんな私の表情を読んでか、神様の眉が少しだけ寂しそうにハの字を象った。

 けれど、同情することは出来ない。

 何故なら、貴方は私がこの世で最も憎む者だからだ。

 だからこそ、私は知りたい。

「どうして、助けてくれたんですか?」

 憎む目のまま、私は問う。

 すると、今度ははっきりと見て取れるほど眉間にしわを寄せて皮肉気に笑った。

「目の前で生き物が死のうとしている、いつもの光景だったわ」

 神様は、視線をビルの隙間から漏れる光に向ける。

 光を見つめてしまったからか、その瞳は僅かに濡れている。

「本当は、私が助けたかった」

 すると、空を見ていた眼が急に細くなった。

 私の感覚が正しいのなら、その視線に宿る感情は怒りだ。

 私が神を憎むように、この神様も何かを憎んでいた。

 何かは分からないけど、何故か分かってしまった。

「神が君たちを救うことは出来ない、〝(かみ)(ことわり)〟を歪めてしまうから」

 神ノ理、その言葉を口にした瞬間だった。

 今まで笑顔の奥に抑え込んでいた感情が皮肉めいた笑いと共に少しだけ溢れた。

「いい加減にしてほしいわ、人に奇跡とゆう魔法を与えておいて今更何を恐れているのかしらね」

 彼女の独り言は、止まらない。

「でも私が神である以上、(ことわり)に反することは出来ない」|《》

 そして、神様は私の目を見た。

「ねぇ、死ぬと分かっていてどうして笑っていられたの?」

 神様の目には、微笑が戻っていた。

 でも、私には泣いているようにしか見えなかった。

「どうして、あんなに満足な顔でいられたの? どうして()に助けを求めなかったの?」|《》

 神様が、私の答えを欲していた。

「私は、神様が嫌いだからです」

 私は答えた。

 何より、この人がその言葉を求めている気がした。

「だから、助けを求めなかったの?」

「それ以外に理由なんてありません」

 そこまで言い終えて、私はここまでのやり取りを終えてようやく微笑む事が出来た。

 そして、笑顔のまま神様に言ってやった。

「私は、貴方が嫌いですから」

 私の言葉に、息をのむ神様。

「そうね、その通りだわ」

 そして、神様は静かに頷いた。

『話が長いわ、それで私達はこれからどうなるの?』

 話を静かに聞いていた猫が声を上げた。

 その声を聞いて、神様に笑顔が戻った。

「貴方達はこれから、二つに分かれた〝運命の賽〟を修復してもらいます」

「修復、そんな事が出来るんですか?」

 私の驚きに、神様が私を指さしながら答える。

「出来るわ、それを直せば貴方達の望みが叶う」

 言葉は少なかった。

 でも、わたしはその言葉を受け入れた。

「あの神様、貴方の名前は何ですか?」

 突然の話題の転換に目を丸くする神様。

「私は神様が嫌いです、ですから貴方の事を神様と呼びたくはありません」

 神様は、私の言葉の意図を汲み取ってくれた。

「じゃあ、私の事はこれから(おぼろ)と呼んでくれるかしら?」|《》

「朧さん、ですか?」

「私にも本当の名前はあるのだけれど、あまり好きじゃないの」

 肩を竦める仕草。

 やはり彼女の仕草からは人間らしさを感じる、やはり彼女は人間が好きなのだ。

「では……朧さん、私達はこれからどうすればいいですか?」

「簡単よ、貴方達にはこれから人を救ってもらいます」

『人を、救えですって?』

 猫ちゃんの疑問に、朧さんは頷く。

「そうよ、そうすれば貴方達両方の望みが叶う」

「ええっと、どうゆう事なんですか朧さん」

 困惑する私に、朧さんは諭すように話を続ける。

「貴方達には〝運命の賽〟を神が使う前に人々を助け、導いてほしいの」

 朧さんの言葉の、意味は分かる。

 つまり、奇跡で人を助けるんじゃなくて私達が困っている人達を助けろと言っているのだ。

「でも、どうやって助ければいいんですか?」

 私の言葉を受け取った朧さんは、背中を向けて歩き出した。

「そのやり方は私が教えるより、貴方達が自ら学んだ方が早いわ」

 それ以外何も言わなかった。


 でも、背中がついて来いと言っている。


 私と猫ちゃんは顔を見合わせた後、朧さんの背中を追い入り組んだ路地に入っていく。

 夕方だった空は、紫色のストールを纏っていく。

 それは、日が沈み黄昏へと空が変わっていっているのだ。

 朧さんの背中を追ううちに、辺りは闇に包まれてしまった。

 猫ちゃんのお陰で、彼女の背中を見失うことなく事はなかったがそれにしてもゆうに十分以上は歩き続けていたと思う。

 朧さんの背中を追っていく。

 入り組んだビルの隙間を抜け人の波をかき分けて進み続け、いつの間にか寂れた公園に来ていた。

 遊具は錆びた鎖につながれたブランコのみとゆう、ここに私達が来なければ一生気付かれなかったのではないだろうか。

「着いたわよ」

 すると、前を歩いていた朧さんが立ち止まり上を見上げて呟いた。

「着いたって、ここに何があるんですか?」

 私と猫ちゃんもその建物を見上げた。

 そこには、生活感のないマンションが建っていた。

 五階建てのそのマンションからは、生活を営んでいるのであれば漏れてくる様々な光や匂いといったものが感じられない。

 どの部屋にもあるベランダの物干し竿を掛ける所は上の階ほど雨風にやられているせいで錆びて使い物にならなくなっている。

 恐らく住んでいる人たちは殆ど居ないだろう、この公園と同じでいずれ忘れ去られる定めにあったのだ。

 そんな荒廃したマンションの屋上に、人影があった。

 月明かりを背にして佇むその人は、仕立てのいいビジネススーツを着た男性だった。

 年齢は、私とそれほど変わらない気がする。

 多分、卸したてのスーツを着ているところを見ると就職活動中だったのかもしれない。

「あの人は、あそこで何をしているんでしょう?」

 ひょっとすると、ここに住んでいるのかもしれない。

 ボロボロで家賃も安そうだし、屋上にいること自体は何も違和感はない。

 そんな考え事をしていると、月の光が彼の顔を僅かに照らした。

「……止めて」

 私から、そんな言葉が漏れた。


 あの目は、かつて鏡で見た私と瓜二つだ。


 あの目は、自分の死ぬ光景すら映らなくなった目だ。


 あの目は、視界に映る全てのものを憎む目だ。


 そんな目をした人の末路は分かっている。

 けど、今から行っても間に合わない。

 そもそも今の私は人じゃない、私の声は届かない。

「と、とにかく止めないと!」

 私は駆け出そうとした。

『諦めなさい、どうあがいても間に合わないわ』

 猫ちゃんの声が、私の足に枷をはめる。

『見ての通り、あの人間は自らの意思であそこに立っているのよ』

 猫ちゃんの声は終始、冷淡だった。

「分かっている、けど……見ているだけは嫌だ」

『貴方に何ができるの? 人間ですらない貴方には何もできないわ』

 でも、手を伸ばしたい。

 私を助けてくれたあの人のように、私も誰かの手を掴んであげたい。

「目の前で誰が死ぬのは、もう嫌だ」

(考えろ、私に何ができる)

 声は届かない。

 けど、触れることは出来る。

 いや駄目だ、私の足じゃあ落ちるまでにそこまで行けない。

「誰か、助けて」

 思わず口から出た言葉に、私自身が身震いをした。


 私は今、誰に祈った?


 私が、神様に祈った?


 気まぐれでしか人を助けない、あれ程に憎んだ神に私は縋ろうとした?


 自分の無力を、奇跡に押し付けてしまうの?

「冗談じゃない」

 私は人間じゃない、だから無力じゃない。

「猫ちゃん、力を貸して」

 私は、見上げながら猫ちゃんに語り掛けた。

『貴方、猫の私に一体何ができると思っているの?』

「救えるのは私達しかいない」

『仮にあったとして、私が協力する義理はないわ』

「私達は今の自分の事をもっと知らなきゃならないんだ、それがお互いの望みをかなえることにつながると思う」

『……』

 猫ちゃんから声が聞こえなくなった。

 しばらくして、溜息をつきながら猫ちゃんが私の横に並んだ。

『仕方ないわね、しばらく貴方の偽善に付き合ってあげるわ』

 猫ちゃんが言葉を言い終えた。

 その時、声が聞こえた。

 それは猫ちゃんでも朧さんの声でもなく、少女のような可憐さでありながら悪戯が好きな少年の様な無邪気な声だった。


 〝待っていたよ、君達が二十番目の天使だ〟


 それだけを言い終えると、声は聞こえなくなった。

 代わりに、私の記憶に妙な違和感が起きた。

 それはまるで、一+一を覚えているかのような自然さで私の記憶に刻み込まれていた。

 でも、十七年間生きてきた私はそれを誰かから学んだことも体験したこともない。

 だが、思い出す必要もなくそのイメージをその言葉を実行すればよいのだと分かっている。

 疑問が口からあふれそうになった時、足元から声が飛んできた。

『朱音!』

 猫ちゃんの鋭い声で、我に返った。

 見れば男性の体は既に宙の中に居た、体を大の字に広げ自分の死を受け入れていく。

 このままでは、死ぬ。

 目の前で誰が、死んでしまう。

「待っていて、私が助ける」

 気持ち悪い感覚は拭えないけど、今は彼を助ける方が先だ。

 私は、植え付けられた記憶をなぞりながら手の平をゆっくりと目の前に持ってくる。

 すると、猫ちゃんが宙に浮き私の手の平に収まった。

 そして、綺麗なテノールボイスから聞こえてきた声は生きた声ではなかった。

 まるで、スマホの自動音声の様な平坦で感情のない声で告げた。

権能起動(システム・オン)――能力名(プログラムネーム)到達せぬ事象ノー・アテインメント・イベント〟』|《》|《》|《》

 呪文を終えた途端、猫ちゃんの体が一瞬だけ光った。

 私の手には身の丈程の杖が握られていた。

 杖は年季の入った木みたいな手触りで仄かに温かい、私のイメージでは仙人が持っていそうな杖だ。

 私は杖を死に向かう彼に向ける。


賽は投げられたアーレア・ヤクタ・エスタ」|《》


 頭に浮かんだこの言葉は、英雄の言葉だった。

 もう後には引けない。

 進むしか道はないと自分に枷をしてしまった悲しい言葉だ。

「だけど、私はそれを否定する」

 口から出た英雄の言霊を私は否定する、そして私は彼が飛び降りた事実を否定する。

「〝因果よ、捻じれよ(トゥウィスト)〟」|《》

 短く、鋭く告げた。

 すると、向けた杖の先に時計の様な文様が浮かぶのと同時に落下している彼の体が淡く光りだした。

 そして杖の先端から長針と短針が現れ、時刻を示した。


 その時間は、午後九時三十分。


 それは、彼が死ぬ時間を示している。


 けれど、時は巻き戻る。


 先端の短針が五分戻り、午後九時二十五分を示した。

 すると、空に身を投げた体が落下する態勢のまま屋上に引き上がっていく。

 それはまるで、映像の巻き戻しみたいに屋上に音もなく彼は両足を付けた。

 いや、両足を付けたとゆう感想もおかしいのだ。

 得た知識で説明するなら、私は彼が飛び降りたとゆう事実を無かったことにした。

 つまり、この場で自殺したとゆう真実を書き換えた。

「でも、あの人の気持ちを変えられたわけじゃない」

 放っておけばあの人はまた同じことを繰り返す。

 それじゃ、助けた意味がない。

「待っていて、今行くから」

 朧さんの言葉に、感化されたわけじゃない。

(でも、今の私なら分かる)

 私は背中に翼はないけど、私は天使だ。

「空を駆け、人を導くのが私の仕事だ」


 イメージは、風。


 春風、温かく誰かを包むことのできる風。


 新たな旅立ちを祝福する風。


 風が集まる、私の背中を押すために。


 そして、その風に押されて私の体は宙を舞った。

 数秒待たずして屋上にたどり着き、私は彼を見つめる。

「おかしい」

 彼は、混乱しながらつぶやく。

「一体、何が起きたんだ?」

 屋上に来た記憶はあるのに、ここに立ってからの記憶が曖昧らしくスマートフォンの時間を見れば今は午後九時二十五分なっており死のうと思ってから五分以上ここにいることになる。

 綺麗に揃えられた髪が、屋上の強風で乱れている。

 彼は確かに死ぬために屋上に上がったはずなのに、まだ街を見下ろしていた。

「何をやっているのだろうか、僕は……決意が鈍ったのか?」


「いいや、まだ間に合う」


 そう呟き再び飛び降りようとする、そうすれば楽になれると信じているのだ。

「行こう」

 決意が消えてしまう前に、飛び込もうとした。

 そのまま宙に体を預け、僅かに浮遊する感覚を味わう直前に私の纏う不思議な風が彼の体を屋上に押し戻す。

 声を上げる間もなく無様に尻もちをついてしまった。

 彼を押した風はまだ、彼の頬を撫でている。

「何だよ、これ――くそっ!」

 悪態をついて空を睨みつけた、天を憎むように月に怨嗟を吠えるように。

 けど、細めた目はすぐに瞠目に代わってしまった。

 遥か空の上にいる月を背にした私と目が合う、彼は開いた口が塞がらないまま私を見上げている。

 私は、風を伴って下りてきた。

 優しい風が、さっきよりもほんの少しだけ強く彼の頬を打つ。


 〝ずっと、見ていました〟


 今なら、私の声が届く。

 そう思い、語り掛ける。


 〝貴方のそれは選択じゃない〟


 でも私が告げたのは、彼の過ちだ。

「僕は、間違っていません」

 両膝をつきうな垂れるその姿は、懺悔をする罪人のようだ。


 〝人生の選択は自由です、でも貴方はただ逃げただけです〟


 私はあえて、彼を責めた。

 だって彼はこの選択がいけないことだと分かっているし、残された人達がどれだけ悲しむのか経験はなくても培った知識が教えてくれる。

 社会に生きるとゆう事は、道徳を重んじるとゆう事だからだ。


 〝確かに、私には貴方の苦悩は分かりません〟


 それはそうだ、彼以上に彼の気持ちは分からない。


 〝それでも――〟


 言葉を切った私は、小さく息を吸った。


 〝生きてほしい〟


 それは、彼にとってはあまりにも残酷な言葉だ。



 それは、彼の呟きを聞けば分かる。



「内定の決まっていた会社が横領を起こして倒産して、結婚を前提に付き合っていた彼女には内定が決まっていない彼では将来が不安だからと別れ話を切り出されてしまいました」

 独白は続く。

「改めて就活しても採用をしてもらえなくて、何がいけなかったのか考えてみても分からないんだ」


「何故を考えても、答えが出ないんです」


「何故、僕の履歴書が通らないんです?」


「何故、僕ばかりこんな目に合うんです?」


「何故、僕だけが不幸なんです?」


「何故、世の中は僕を幸福からつま弾きにするんです?」


 私は彼の言葉を受け止める、それは私のエゴで生かしたからだ。

 だから〝生きてほしい〟この言葉は何よりも残酷だ。

 生きてほしい、短い言葉だ。

 情緒はなく、詩人が考えた美しい文脈でもない。

 それでも、それでも私は彼に生きてほしいのだ。


 多くを、語らない。


 それはそれ以外に伝えたいことがないから、生きてほしい以外に私が彼を助けた理由なんてないのだ。

 だから、私は同じ言葉を言う

 〝それでも、生きてね〟

 私は、出来るだけ微笑む様にその言葉を告げた。

「君は、自分勝手だ」

 そう彼は、言葉を吐き捨てた。


 その時、彼の頬を何かが通り過ぎる。


 それがなんであるか、彼が悟った瞬間にうな垂れる。

 崩れた顔を、見られたくなくて。

 雫が乾いたコンクリートを濡らしていく、死ぬ瞬間すら流さなかった涙が溢れてきている。

 もう、彼は大丈夫だ。

「ありがとう」

 その言葉を言われた時には、私はいなかった。


 でも、その言葉は私にしっかりと届いていた。







          2


「お帰り、よく頑張ったわね」

 朧さんの所に帰ってくると、労いの言葉で出迎えられた。

「あれが、私達のやるべきことですか?」

 地上に降り、改めて朧さんを見据えた。

「そうよ、そして朱音ちゃんのやりたいことでもある」

 あれで、彼は救われたのだろうか。

 死を望んだ人の末路を、無理矢理捻じ曲げる。

 その行為が正しいかどうかなんて、救われた本人が決めること。

「それでも、消えていい命なんてないと思います」

 それでも私は命を救った、私は正しい事をした。

 それだけは、胸を張って言える。

『自己満足ね』

 猫ちゃんの辛辣な言葉が頭に響く。

 アニメとかの描写でよくある、テレパシーみたいな感じで頭の中に響いてくる。

 慣れない感覚だけど、不思議と不快な感じはしない。

『朱音、そろそろ私を戻しなさい』

 言われるがまま、解除する手順を踏む。

 すると杖が光に包まれ、それは粘土のように形を変えていき瞬く間に元の黒猫の姿になった。

 私の安堵の視線から逃げる様に、そっぽを向く猫ちゃん。

 素っ気ない態度を見ていれば、本当に大丈夫なのかもしれない。

 けれど、気に掛けることくらいさせてほしい。

「心配ぐらいは、させてね?」

 大丈夫だとしても、心配することくらいは許してほしい。

『余計なお世話よ、そんな事よりこんな事で私の望みは本当に叶うの?』

 一人と一匹の視線が朧さんに向けられた。

「勿論、貴方達の〝運命の賽〟を見てみなさい」

 言われて私は心臓辺りにあるそれを見た。

「ほんの少しだけですけど――」

『直っている、わね』

 どうやら猫ちゃんも同じ意見に至ったようだ。

 どうやらこれが、朧さんが見せたかったもののようである。

「天使の導きに触れて〝運命の賽〟を使わずして奇跡を体験したものが落とす奇跡の欠片〝賽の破片(フォーチュン・ピース)|《》〟貴方達には、これからこの欠片を集めてもらうわ」

 そう説明する朧さんの人差し指が、私達を指さした。

「そうすれば〝運命の賽〟が元の形を取り戻す」

「そして、私達の望みが叶う」

 朧さんの言葉を引き継ぐ。

「そうゆう事よ、もっとも朱音が今すぐ死ぬ決断をすれば片方の望みはすぐに叶うわ」

 朧さんの視線が猫ちゃんに向けられた。

『笑えない冗談ね、今更この子が自分から生きる事を放棄してくれるなんて期待してないわ』

 その冗談に付き合わず、猫ちゃんは鼻を鳴らした。

「そう言えば貴方、名前は?」

 朧さんが視線を落とし、猫ちゃんに手を伸ばす。

 それを猫ちゃんは、足音もなく躱し私の足元に逃げてくる。

『野良猫に名前なんてないわ、好きに呼べばいい』

 そう猫が言葉を吐き捨てた時、蒼く輝く月光が私の目と猫ちゃんを包む。

 それを見た朧さんが、やや弾む声で告げる。

「じゃあ蒼音(あおね)にしましょうか、響きもいいし姉妹みたいじゃなかしら?」|《》

『好きにすれば?』

 冗談か本気か分からない朧さんの言葉を聞き流し、蒼音と名付けられた猫ちゃんが私達に背中を向けた。

「蒼音ちゃん、何処に行くの?」

 去っていく背中に、思わず声を掛ける。

『蒼音でいいわ、それに私は貴方に協力はするけど馴れ合いはするつもりはないわ』

 それだけを言い残し、去ろうとする蒼音の背中はとても寂しそうだった。

「待って、蒼音!」

 お節介と怒られそうだけど、蒼音を一人にするよりはいい。

「最後に一つだけいい?」

 溜息を一つ零し、蒼音は視線だけを朧さんに向ける。

『何かしら?』

「どうして、朱音に協力することにしたの?」

『貴方がそれを言うの? それ以外の選択肢なんてないくせに』

「確かに貴方が生から解放されるには奇跡に頼るしかないけど、貴方らしくないと思ったから」

『大した理由ではないわ、ただ――』

 猫特有の光る眼が私を捉えたまま離さない。

『この子が、こんなにも人としても生き物としても歪になってしまったのか興味が湧いたからよ』

 それだけを言うと、朧さんには目もくれず今度こそ蒼音は暗闇に消えた。

「ま、待ってよ!」

 慌てて後を追って、私も深くなった闇夜に消えた。


 朧さんは何も言わずに私達を見送った。

 静かになった街、時刻は午後十一時を指そうとしていた。

 私の影の前を猫のシルエットが先導する形で歩いている。

 当然、目の前を歩く猫は幻ではなくて綺麗な毛並みをした猫である。

 蒼音と名付けられた猫が、月光を浴びながら静寂の街中を歩いている。

(それにしても、今日は本当に月が綺麗な夜だ)

 彼女の綺麗な黒の毛並みが、月の光を得てきらきらと輝いている。

 眠りについた街中は、私達以外の影はない。

 物音と言えば私の歩く音しかなく、私達が歩く道の先は何処までも暗い。

 周囲は賑わっている駅前ではなくここら辺は静かな旅館街で、旅館の近くに湖がありその周辺には大きな病院やりんご園などが並んでいる。

 でも、この時間になっても遠くの方からは酔っ払いの陽気な声が響いてくる。

 その喧騒を聞きながら、私の前を蒼音は静かに歩いている。

 蒼音の歩みは変わらずゆっくりだけど、決してこっちを振り返る事はない。

「蒼音、何処に行くの?」

 眠る街を起こさないように、静かに蒼音に聞いた。

『貴方が付いてきているだけよ』

「そうだけど、蒼音はどこかに帰るの?」

『そうよ……そういう貴方は、家に帰らないの?』

「私も、帰る家はあるけど……」

 真っ暗で、誰も待っていないあの家には帰りたくない。

 寝て起きて朝食を流し込んで学校に行き、帰ってきて鞄を下してお風呂に入って寝るだけの家なんてホテルと一緒だ。

 家が生活感のあった頃なんて両親が死んで以来、無くなってしまった。

「ちょっと、帰りたくはないかな」

 心の弱さが出してしまった本音が、蒼音を振り返させた。

『貴方、両親は?』

「もういない、私が十歳の時に死んじゃった」

『……私の親は昨日、死んだわ』

 私の歩みが止まって、耳に届く音は遠くから聞こえる喧騒だけになった。

「だから、死のうと思ったの?」

 数秒考えて出した言葉は、あまりにも安易な言葉だった。

 親が死んで絶望して自殺、よくある話だ。

 けれど蒼音はただ絶望して死のうとしているわけじゃない、彼女には確固たる意志がありその意志の強さは私の偽善と似ている。

 多分だけど、蒼音が私に抱いているのは近親憎悪なんじゃないかと思う。

 そう考えてしまうのは、私のエゴなのだろうか。

『そうよ、母だけをあの世に行かせるわけにはいかないわ』

「だからって、自分が死んじゃだめだよ」

『また説教? 貴方が正論を語ったところで、説得力はないわよ』

 言い返せないのは悔しいけれど、このままでは平行線で終わってしまう。

『全く、時間の無駄ね……』

 蒼音は再び歩き出そうとしてしまう。

 このまま行かせてはダメ、私はまだ蒼音の事を分かっていない。

「待って、蒼音」

『……』

 蒼音は、無言のまま振り向いた。

「寄りたいところがあるの、付き合ってくれない?」

『…………』

 猫の表情は読めないけれど、彼女が逡巡しているのは分かる。

 多分、私は自分を曝け出す事で彼女の中に踏み込もうとしているのだ。

 出会ったばかりで、立場も価値観も違う私が彼女の本音に触れようとしている。

 人間同士だって本音を探られるなんて嫌なのに、価値観の違う私に自分の事を話すのは気後れして当然だ。

 数秒間、私の蒼音の視線が交わる。

『……やれやれ』

 そう呟いて、私の足元に音もなく歩み寄ってきた。

『歩くのも疲れたわ、抱えて』

 それが、今の彼女ができる精一杯の心の歩み寄りだった。

 でも、この歩み寄りを無駄にはしたくない。

「ありがとう、じゃあ行こうか」

 言われた通り蒼音を前に抱えて細い路地を歩いていく。

 この道は湖近くから住宅街に抜ける近道、この辺りに住む住民しか知らない秘密の抜け道だ。

 この辺りは潰れかけの居酒屋が数件あるだけで殆どの店が寂れてしまっている。

 途中、その店から出てきたと思われる酔っ払いの団体とすれ違ったが制服姿の私を気に留める事もなく素通りしていく。

 酩酊していたとはいえ、やはり私の姿は見えていないようだ。

「やっぱり、他の人には見えないんだ」

 今なら、未練を残した幽霊の気持ちが少しだけ分かる。

「誰にも見つけてもらえないのって、寂しいな」

『……そうね』

 私の独り言に、感傷の声色で蒼音が答えた。

「どうしたの?」

『……ふん』

 声色の答えを聞きたかったけど一蹴されてしまい、蒼音はそれ以降黙ってしまった。

 私は追及を諦めて体を覆う闇夜の中を進んでいく。

 やがて、飲み屋から漏れる暖色の光から月明かりの寒色が夜道を照らすようになってくる。

 ここは駅から外れた住宅街、街灯が殆どなくても体が覚えている道を進む。

 朧さんと別れてから約二十分、目的の場所に着いた。

「着いたよ」

 私の声と視線につられた蒼音が私と同じ方向を見上げた。


 視線の先にある、住人のいない眠った家が幽霊になった私達を出迎えてくれた。


 ガーデニングが趣味だったお母さんが手入れをしなくなってから玄関にツタが這い始めている。

 種類は分からないけど、枝に棘がついているから多分バラだと思う。

『バラね、蔓が結構しっかりしているから多分枯れにくい品種ね』

 彼女の猫らしからぬ言葉に、回しかけたドアノブが動きを止める。

「……蒼音って、人間みたいだね」

 私の率直な感想に、蒼音は抱えられたまま鼻を鳴らす。

『当然よ、今はこんな身なりだけど昔はそれなりのお嬢様だったのよ』

「それって、まさか――」

 言葉に詰まった私の代わりに、蒼音がつまらなそうに言葉を引き取った。

『私は元人間よ、どうして死んだ私が猫なんかになっているのか疑問だったけど朧に会ってやっと答えが分かったわ』

 蒼音の猫目の視線が、開きかけた扉の暗闇を射抜いている。

 早く行けと急かされているみたいで開きかけた隙間に身体を滑り込ませると、夏特有の湿った空気と闇が顔を覆ってくる。

 まるで、闇に迫られているみたいだ。

『どうしたの?』

 やっぱり、動物って不安に敏感なのだろうか。

「大丈夫だよ」

 電気をつけてないから、私の笑顔が届いているか不安だ。

 幸い、今の私は足音がしないから少し長い廊下を歩いても周囲には響かない。

『てゆうか、電気はつけないの?』

「電気なんか点けたら、近所の人たちに怪しまれちゃう」

 ここの家の住人が帰ってくる事はない。

「叔父さんって滅多にここには帰ってこなくて、ここを行き来きしているのは私だけ」

『仲悪いの?』

「そんな事はない、と思いたい」

 私は叔父さんの事は家族だと思っている。

 叔父さんが居なかったら私は今頃、本当に一人ぼっちになっていた。

「何でかは分からない、でも何時かは行き合わなきゃいけない」

 ああ、私は向き合わなきゃいけない事が多すぎる。

『それで、貴方はここに何しに来たの?』

「報告をしに来たの」

『ご両親に?』

「それと、お爺ちゃんにもね」

 襖を開ける。

 生温い風と若草の匂いを横切り、写真の飾られた仏壇の前に膝を折る。

 蒼音は静かに仏壇を眺めている。

 いつもはお線香をあげるんだけど、今の私は幽霊だからこの家には誰もいちゃいけないのだ。

 だから、静かに合掌をして写真の中の三人に笑顔を向ける。

「ただいま、あのね今日とっても大変だったんだ」

 やや弾んだ声なのは、気のせいじゃない。

「私ね、猫を助けて死にかけたんだ」

 そんな事をさらりと言う。

「でも、死にかけた私を神様が助けてくれて何とか生きているの」

「お母さんは、やっぱり怒るかな?」

「でもね、私はお父さんとお母さんに助けてもらった命を無駄にしくない」

「だから見ていて、守ってとは言わないよ」



「私が、お母さん達に守ってもらった命を何に使うのか」



 数秒の沈黙、やっぱり私を怒る声は聞こえなかった。

 私は静かに立ち上がって、自分の部屋に寄る事もなく家を去る。

 その間、蒼音は一言も喋らなかった。

 本当は色々な事を聞きたいだろうし、私も色々聞きたいことがある。

 でも、まずは私の事を知ってもらいたい。

「蒼音、もう少し付き合ってくれる?」

『……いいわよ』

 それだけ言うと、私の腕の中に体を埋める。

 それからは会話もないまま、また入り組んだ細い道を進む。

 すると、駅前の喧騒とは程遠い微かに波の音が聞こえてくるのと同時に暗い道が終わり大きな道路に出た。

 その道路を挟んだ目の前に、大きな湖が姿を現した。

 私は車が来ないか何度も確認して道路を渡り、湖周囲の舗装されたジョギングロードを歩き始める。

 一本道の整備された道路は足に負担がかからないように柔らかな素材で出来ており、晴れた日には豊かな自然を楽しむ事もできる。

 けど今は、波の音と白色の街灯の明かりしかない。

 蒼音も私も何もしゃべらず、ただ街灯と街灯の影のアーチを潜っていく。

「着いたよ」

 無言のまま十分は歩いただろうか。

 高く上った月を背に、そびえ立つ大きな建物を私と蒼音は見上げる。

『ここ、病院じゃない』

 目の前にあるこれはこの街で一番大きな総合病院である。

 名前はクリスマス・パレード総合病院。

 充実したリハビリ施設や隔離病棟もありこの地域の人たちにとってはなくてはならない病院だ。

「うん、多分……ここに搬送されたと思う」

『貴方の体がここにあるの?』

「うん……」

『だったら行きましょう』

「……」

『行かないの?』

 蒼音の声は聞こえていたけれど、私は足を進ませる事が出来なかった。

「……叔父さん、止めてって言ったのに」

 思わず、苦々しいく呟いてしまった。

『どうしたの?』

 腕の中に居る蒼音が、不思議そうに私の顔を見上げている。

 蒼音の視線に苦笑いを返して、病院内に入っていく。

 面会時間はとうに過ぎているから、夜間専用の出入り口から警備室の前を素通りして開けた場所に出る。

 ここは一階ロビーで小さな読書スペースやコンビニの出張店や受付があり時間外だからか当然大きな一階のフロアには人の気配はない。

 明かりといえば、非常灯と誘導灯の頼りない明かりだけ。

『でも、貴方の体がどこにあるか分かるの?』

「うん、さっきから体の方に引っ張られているみたい」

『引っ張られる?』

「なんてゆうか……自分に呼ばれているって、感覚かな」

 それは、合わせ鏡の自分が私に手招いているような感じ。

 薄気味悪いのだけどその誘惑には抗いがたくて、近づくほど行かなきゃと思ってしまう。

(嫌だ私はまだ死ねない、私はまだ終われない)

「ごめんね、私も感覚的な事だからうまく説明できないんだ」

 私の言葉足らずの説明に蒼音は溜息をついた。

 その仕草はどこか人間臭さがあるつきなれた溜息だった。

『別にいいわよ、それより場所は分かるの?』

「……うん、行こう」

 静かに息を吸い受付に向かう。

 蒼音には机の上で待っていてもらい受付所の机の下を探る。

「あった」

 小さな正方形のくぼみの中にあった小さなボタンを押す。

 すると、背後の壁が静かに振動した。

 目をやれば、壁を背にした受付の壁が長方形に切り取られて中の光が私と蒼音を照らした。

 蒼音の表情は暗いせいで見えないけれど、声は張り上げないまでも静かな驚きが混じっているようだ。

「身内専用に作られたエレベーターよ」

『貴方のお父さんって、病院関係者なの?』

「関係者ってゆうか、ここは私の家が経営している病院なの」

 蒼音はさっきと同じく声こそ張り上げなかったが、それでも動揺からか低く唸るような声しか出せないでいた。

 見慣れた反応に苦笑いをしながら、再び蒼音を抱いてエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターには各階のボタンは付いておらず、私が開閉ボタンを押すと扉は静かに閉じて上へと私達を運んでいく。

『朱音、どうゆう事なの?』

 乗って数秒後、蒼音の声が静かなエレベーター内に響いた。

「……ここね、元々は私のお爺ちゃんが建てた病院なの」

 私は、静かに語り出そうとした。

 でも、この仕掛けの説明をするお爺ちゃんとお父さんの無邪気な顔が私の思考をかき乱す。

(やっぱりだめだ、思い出の笑顔を忘れられない)

 両腕に力が入る。

 それは、蒼音を抱くためじゃなくて震える自分の両腕を抱くために。

(笑顔を思い浮かべても、お父さんたちは戻ってこない)

 この言葉は呪文だ。

 自分を保つために、自分を騙そうとする悪い呪文。

 でも、自分の脳に言い聞かせても唐突に心の傷は疼き抉られる。

 ここは病院だ、それでも見えない傷は治せない。

 私の心の傷を治す術はなく、一生この傷と付き合っていくしかないのだろうか。

『……ねぇ、朱音』

 すると、いつの間にか私の腕から下りていた蒼音が私を見上げている。

 見上げる瞳に映るのは下唇を噛み俯いた私、それを私が見ている。

『貴方に、何があったの?』

 その声色は、今までで一番優しかった。

 私も、自分語りをする為にここに来た。

 でも喋ろうとすると体が震える、あの時見た地獄が私の喉から水分を奪う。

『駄目よ、貴方には説明する義務がある』

 蒼音はそう言い放った。

 でも、鋭い声なのにその口調には心を傷つける鋭さはなかった。

『貴方は死のうとする私を助けた、なら私には何故助けられたのか知る権利がある』

「……」

『貴方は私が生きる事から逃げているといった、その通りよ』

「……」

『でも、貴方は過去を清算した気になっているわ』

 そんな事はないと、言い切れ無い自分が腹立たしい。

『私は神様じゃないわ、貴方に優しくする義理も懺悔を聞いた位で貴方の過去を清算できるとも思ってない』

 蒼音の声は段々と熱を帯びてくる、それは私を包むように広がっていく。

『でも、相棒(パートナー)の事は知りたいじゃない』|《》

 そして、私は確かにその言葉を聞いた。

 息を呑み、蒼音の瞳を覗き込んだ。

『と、とにかく!』

 自分の言葉に照れてしまったのか、視線を反らしてしまった蒼音。

 真面目な話をしているのだけど、猫の姿でその仕草は反則だ。

 何だかときめいてしまって、顔がにやけてしまう。

『分かったんなら、話してちょうだい』

「……分かった、じゃあ私が話したら蒼音の話も聞かせてね」

『……いいわよ』

 会話が終わるのと同時にエレベーターがゆっくりと減速していき、やがて私を乗せた箱は静かに扉が開いた。

 扉の向こうは薄暗く、月明かりに照らされていて辛うじて足元が見えるくらいだけど歩き心地は高級ホテルと間違えてしまいそうな柔らかい絨毯が敷かれている。

 けど、暗くても分かる消毒液の匂いや心電図の音がここが病院だと物語っている。

 私はゆっくりと目の前の部屋に歩を進める。

 暗がりで慎重に歩いているだけじゃなく、現実を見るのが怖くて覚束なくなっている。

 けど、エレベーターから十数歩で私に現実を突きつけた。

 点滴と心電図と月の照明に囲まれて、一人の少女が眠っていた。

 当時は止めていた髪を下され、擦り傷の所には包帯が巻かれていた。

 だけど、それ程重体ではなかったのか人工呼吸器は見当たらずただ静かに眠っているだけのようだ。

『居たわね、貴方』

「うん、見つけた」

 そのベッドに寝かされているのは私、三日月 朱音だった。

 私は備え付けにしては豪華な椅子に腰かけ、蒼音は横たわる私の横顔を覗き込むように座っている。

(毎日鏡で見ているけど、やっぱり見慣れないな)

 鏡の前で笑顔の練習をする自分を思い浮かべて、自分の寝顔のまま固まった表情は好きになれない。

 その顔は、蒼音を助けた時の私の顔と同じだったからだ。

「私ね、十歳の時に飛行機事故にあったの」

『……』

 私の語りを、蒼音は無言で促した。

「その飛行機事故ね、テロリストが起こしたハイジャック事件だった」

 目の前にいる蒼音が、静かに息を呑んだ。

「狙いは紛争地域に派遣される医療ボランティア団体の支援の妨害で、両親と私と他十人くらいのスタッフも搭乗していた」

 私は、目の前の自分を見つめながら続ける。

「当時はテロ予告なんかもあって家族で行くのは危険って言われていたんだけど、私もお母さんもお父さんだけを危険な所には行かせたくなかった」

 何とか頼み込んで、危なくなったらすぐに帰国するのを条件に特別に乗せてもらった。

「でも、その増員した警備の中にテロリストが紛れ込んでいて自分達もろとも離陸直前の飛行機を墜落させたの」

 リーダーと思われる男の怒声が響いて、怖くて目をつむった。

 その瞬間に走った衝撃と炎の熱さと、両親の匂いをまだ記憶と共に思い出せる。

 そして、次に目を開けた時その光景を見た。

 最初に見たのがお腹から血を流して死んでいる両親で、私の顔を上から覗きながら死んでいた。

 次に、炎の海と瓦礫と私にお菓子をくれたスタッフさんの苦痛に歪んだ死に顔と私以外誰もいない風景が私の脳に焼き付いた。

「そう……私だけが、生かされた」

 あの時は何も考えられなかった。

 何をすればいいのか、何をするべきなのか最適な選択が出来なかった。

 そして、叫んで歩き疲れて前のめりに倒れこんだ。

「死を覚悟したつもりだった、でもどうしてか私は空に手を伸ばした」

 当たり前だけど、死にたくなかったから。

「けど神様は助けてくれなくて、代わりに私の手を取ってくれたのは名前も知らない誰かだった」

 私の手を取ってくれた、その温かさは今でも覚えている。

「スーツを着ていたからきっと派遣スタッフの誰かだったと思うけど、私は直ぐに気を失っちゃったから顔も覚えてない」

 その人が私に適切で完璧な応急処置をしてくれていたらしくて、大した後遺症もなく退院できたのはその人のお陰だよと後で叔父さんに聞かされた。

「私はお礼が言いたくて助けてくれたスタッフを探した、でも公式の発表では生存者は私だけってことになっている」

 その理由は、分からない。

「叔父さんに聞いても、納得のいく答えは聞けなかった」

「その日を境に考えるようになった、神様って何だろう奇跡って何だろうって」

 神様が居て、奇跡を起こせるならどうして両親を助けてくれなかったのか。

 どうして、私だけを生かしたのか。

「答えはまだ出てないけど、私には一つだけはっきり分かることがあった」

 私はもう、自分の為に命を使うことは許されない。

「私がここに居られるのは両親と私を助けてくれた誰かのお陰だ、なら私が惰性で生きる事は許されない」

 私は誰かの為に、何かの為にこの命を使うそう決めた。

『……貴方、狂っているわね』

 沈黙を破って発せられた声色には、今までの怨嗟や呆れといった感情は読み取れない。

 今の彼女の声色は、恐怖とほんの少しだけ憤りのような感情を感じた。

『貴方の両親も、貴方を助けた人も貴方に生きてほしいから助けたんじゃないの?』

 眠る私の顔を見ながら、蒼音は私に向かって言葉を吐き続ける。

『こんな姿にするために、貴方を助けたんじゃないでしょう?』

「分かっている、お母さんと叔父さんにも似たようなことを言われた事があるしね」

『そう……もっと聞かせて、貴方の事を……』


 私は、瞼を閉じて語り聞かせる。



 これは、私の懺悔のお話だ。


「私って子供の頃から、誰かに手を差し伸べるのが当たり前だと思っていたの」

 それは名前も知らないおばあさんが、お父さんにありがとうっていいながら手を握る姿を見たのがきっかけだった。

「どうしてお礼を言っているのかお母さんに聞くとね、あの人は難病を抱えた人でお父さんが手術の執刀医だったの」

 そして、お母さんは私の目を見ながら言うのだ。

 お父さんはね、あの言葉が欲しいから医者を続けているのよってまるで自分の事の様に誇らしげに言う満面の笑みのお母さん。

 よく見れば、お父さんにありがとうって言っていた人も同じ顔で笑っていた。

「その笑顔が、私は好きだった」

 人を助ける父とその人助けを支える母、両親は家族の自慢だった。

「だから私も誰かからありがとうって言われる人間になりたかったし、お母さんみたいな笑顔をもっと見たいと思ったんだ」

 私のこの思いは、何も間違ってはいない。

 でもこの後、私は自分の無力を痛感することになった。

「あれは確か、今ぐらいの時期だった気がする」

 前の日に降った雨の匂いは、今でも覚えている。

 蒼音は何も言わずに瞳を覗き込んでくるのを、私も蒼音の猫目を見ながら語る様に紡いでいく。

「私は近所の川の近くで遊んでいたの、お母さんからは気を付けるように言われていたんだけど雨の日に外で遊べなかったから鬱憤が溜っていたんだ」

 私はお散歩気分で、買ってもらったばかりの長靴を履いて外に出掛けた。

 扉を開けると外は快晴で、太陽に温められた道路から雨の匂いが漂ってきていた。

 あちこちにある水滴が、光を吸って輝いている。

 その光景は子供だった私にとって見慣れた町内が輝いて見えていた。

 そして、家の近くにある大きな橋を渡っている時だった。

 雨だったから川は濁っていて、流れてくる色々なものが濁流になって流れ込んできていた。

「そこに助けを求める赤い首輪をつけた子犬を見つけちゃってさ、わくわくした気持ちは吹き飛んじゃったの」

 でも、この時はまだ冷静に大人を呼びに行こうとした。

 だけど、不意にお父さんの手を握っていた人とお母さんの笑顔が頭の中に浮かぶ。

 漠然と、誰かの役に立ちたいなんて願望をもったままそれを見つけてしまった。

「気づいたら私は、子犬を追いかけていた」

 切なそうに鳴く子犬の声が、私の心に焦りを募らせていくけど、焦れば焦るほど体力は失われていく。

ましてや子供の体力だ、すぐに底が見えてきて肩で息を始めてしまった。

 それでも、あの笑顔が見たかった。

 花のような綺麗な笑顔を見たかった。

 それだけしか頭にはなく、川の状況がいかに危険かも考えないまま私は犬を追いかけた。

「そしたら子犬が運よく岸近くの流木に引っかかってくれて、私は川と岸のギリギリのところで必死に手を伸ばした」

 この手が、笑顔をもたらすと信じて手を伸ばし続けた。

「でも私の手は届かなかった、子犬の弱々しい声は届いていたけど私の手は子犬を掴むことはなかった」

 大きな濁流が来て、子犬は再び流されていき、私の耳は子犬の断末魔を聞いてしまった。

 子犬の断末魔は小さかったのに、その声は私の心を掻きむしった。

 私は、届かなかった手を握り締めて大声で泣いた。

 その声を聞いた大人たちが、私の周りに集まってきたて心配そうに私を覗き込んできた。

 けど、大人たちの表情が見えない私にとっては助けられなかった私を責め来たみたいに思えてしまった。

 そして、騒ぎを聞きつけたお母さんも大人たちをかき分けて駆け付けてくれた。

「お母さんは、私を力いっぱい抱きしめて事情を聴いてきた」

 怖かった。

 お母さんにも責められるんじゃないかって、怯えた。

「でも、私は正直に話した」

『何故?』

「今にして思えば、私は糾弾されたかったんだと思う」

 糾弾された方が助けられなかったことを清算できるような気がしたから。

「でも、お母さんは私を責めなかった」

 そして、お母さんは言った。

「残念だったけど、朱音がそうならなくて良かったわって」

 そうお母さんは言った、涙をいっぱいに溜めて私の顔を見た。

「その顔は、私が見たかった顔じゃなかった」

 私の愚かな選択のせいでお母さんを悲しませてしまった。

「罪悪感を持った私は、もう一度大きな声で泣いた」

 何度もごめんなさいって言った。

 心配させたお母さんに。

 そして、助けられなかった子犬に届くように大きな声で謝り続けた。

 でも、神様はまだ私を許してはいなかったようで。


「私は、花のような笑顔を見られないまま両親を失った」


「お母さんを悲しませたまま、私だけが生かされた」

 あまりにも残酷な現実だったけど、周りの大人たちは私がすんなり受け入れているように見えていたらしく叔父さんは辛かったら頼ってほしいと言ってくれていた。

「確かに、両親を失っても私の生活は変わらなかった」

 お葬式が終わって体調が戻れば、私は両親と暮らした家から変わらず学校に行き友達としゃべり帰って ご飯を食べて眠る生活を今でも続けている。

 周りの人は、私を強いなんて褒めてくれた。

 でも、私は強くなんてなれなかった。

 むしろ、私の大切な何かは壊れたままだ。

「私は過去を受け入れたんじゃなくて、受け入れる心に穴が開いちゃっただけなんだ」

 憎む事も悲しむ事も、受け入れる心が壊れてしまったんだから零れ落ちるのは当たり前だ。

 不思議な気分だった。

 私の事を喋っているのに、他人事みたいに言葉が出てくる。

「それでも、穴の開いた心にも残ったものがあったんだ」

 それが、お母さんのあの笑顔だった。


 そしてその日、私が偽善とゆう心を手に入れた。


「あの日は、顔の横側が熱くなるくらい真っ赤な夕焼けだったよ」

 私は学校の帰り道、すれ違った幸せそうな母親と小さな女の子を横目にいつもの道を誰もいない家に帰るために歩いていた。

 後ろから子供が大好物の夕飯を喜ぶ声が聞こえてきて少しだけ笑みが零れるけど、そんな暖かな気持ちは直ぐに暗い表情に飲み込まれてしまう。

 私の心はお父さん達と一緒に死んでしまったから。

 何があっても、心は動かされることはないって思っていた。

 けど突然の車のクラクションを背中に受けて振り返ると、さっきまで幸せそうだった親子が悲劇の舞台に立っている。

 その後の惨劇は、容易に想像できた。

 母親が女の子に手を伸ばし、女の子も道路に倒れ込みながら必死に母親に手を伸ばしている。

 その女の子の姿は、生き汚く手を伸ばす私を連想させた。

 だから私は手を伸ばした、手を伸ばせたのだ。

「子犬の時とは違う、私の手は確かに届いた」

 女の子は突き飛ばしてしまったけど、私は確かにその子を救う事が出来た。

「代わりに私は手首を折って全治四週間の大けがをしちゃってさ、その時に叔父に思いっ切り頬を叩かれた」

 二度とこんなことをしないでくれと、涙目で訴えられた。

 気弱な叔父さんに怒られたのは、その時が初めてだ。

『当然ね』

「そうだね、その時はごめんなさいと謝ったけど私はもう元には戻れないってわかっていた」

 何故なら、助けた女の子が花のような笑顔を私にくれた。

 お母さんと同じ笑顔を、私にくれたのだ。

「それ以来私は誰かの為にこの命を使い続けた、多分それはこの先も変わらない」

 これが一生変わることのない私の業、語り終えて目を開けた。

 いつの間にか病室に陽の光が差し込もうとしていた。

 備え付けの時計を見れば午前五時になったばかりだった。

 沈黙は、二分くらいだったと思う。

『ありがとう、話してくれて』

「いいよ」

 日が昇り病室が日の光に満たされ、眠る私の横顔が照らされた。

『でも、やっぱり納得は出来ないわ』

「……いいよ」

 やっぱり蒼音とは分かり合えない、それでも蒼音は私の闇に踏み込んできてくれた。

『それじゃ、次は私の番かしらね』

 今度は、私が踏み込む番だ。

 そう思って蒼音の声に耳を傾けた。

 けど、その時――最上階の病室の窓がノックされた。

 蒼音と揃って音のした窓に目を向ける。

 けど、既にノックをした張本人はそこに居なくて代わりに宝の地図みたいなものが室内の窓際に巻かれて置かれていた。

「何だろう、これ……」

 紙は、見た目は古そうなのにしっかりと厚みがあり丈夫だ。

 開くと、年代を感じさせる古紙の臭いが鼻を掠めた。

 そこには、何も書かれていない。

 裏返してみても、日の光に翳してみても透けて何かが見えるわけでもなかった。

「でも、多分これって――」

『朧から、でしょうね』

 蒼音も私の肩に飛び乗って一緒に紙を確認する。

「手紙、かな?」

『何も書かれてないのに手紙っていうのもおかしな話ね』

「でも、これって明らかに私達に送ったものだよね」

『本当に、迷惑な女ね』

 辛辣な言葉だったけど蒼音の愚痴はもっともである。

 きっとこれを送ったのは朧さんなのだろう。

 多分、私達に何かを伝えたいんだと思う。

「でも、確かにこれは困るよね」

 肝心の何を伝えたいのかが分からないとこっちも困ってしまう。

「せめて、誰宛かくらい書いてくれていたら――」

『ちょっと、朱音!』

 蒼音の鋭い声が響く。

 何事かと蒼音の視線を追うと、手に持っていた紙が煙を立て始めていた。

「な、なに⁉」

『手を放しなさい!』

 突然の事に頭が真っ白になっていたけど、蒼音の鋭い声に驚いて紙から手を離した。

『手は大丈夫?』

「うん、火傷はしていないみたい」

 熱くはなかったが、驚いた拍子に手から落としてしまい地面すれすれで舞いながら落ちた。

 紙は灰色の煙と木が爆ぜるみたいな音を立てながら徐々に燃え始める。

 すると、煙が蛇みたいにうねうねとくねりながら宙を動いた。

 そかと思うと、それ等は楽譜のように綺麗な列になって整列した。

「これは、文字?」

 蛇みたいなうねりのあるそれは、綺麗な筆記体で書かれているみたいだ。

『なんて書いてあるか、分かる?』

「……ちょっと待って」

 いきなりの翻訳だったけど、中には知っている単語もあったのでこれが何語なのかは分かった。

「多分、ラテン語だと思う」

『すごいわね、分かるの?』

「でも、翻訳するとなると流石にすぐには出来ないよ」

 どうしたものかと悩んでいると、私の横顔を見た蒼音が訊ねてきた。

『ところで朱音、その目は大丈夫なの?』

「目って、何が?」

 蒼音の突然の質問、蒼音は少し言いづらそうに私に告げる。

『貴方の左目、燃えているわよ』

「どうゆう事⁉」

 本当に言葉の意味が分からず慌てて近くの窓に自分の顔を映した。

「本当だ、燃えている……」

 それは、比喩や誇張じゃなくて本当に左目が燃えているのだ。

 正確には左目が炎で覆われているのだろう、でも不思議と炎自体は熱くはない。

「これも〝神の権能〟の力なんだろうね」

 とりあえず害はなさそうなので、改めて宙に浮いた文字に向き直り文字に向かって意識を集中する。

 すると左目の炎が揺らぎ、それが号令となり宙に浮いた文字が形を変え始め楽譜のように綺麗な等間隔で整列をした。

『貴方、何かした?』

「何もしてないよ、私はただこの手紙を読みたいって思っただけだよ」

 宙にある文字がどんどん姿を変えていき、それが収まった時には私の見知った文字になっていた。


 手紙にはこう書かれていた。



 朱音と蒼音へ


 この手紙を読めているとゆう事は、左目を使いこなせたとゆう事ね。


 これからの指示はこの〝神託の便り(スクロール)〟で行います。|《》


 貴方達はこれから人を救い、人を導いてください。


 それは、天使の大切な役割です。


 朱音、貴方にとっては辛い日々が始まるかもしれないけど貴方ならきっと乗り越えられるわ。


 そして蒼音、終わりを望む貴方だけれどその時まで朱音を支えてあげてね。


 最後に、貴方達に良き未来があらんことを願います。

 


          P・S



 今日、午前八時三十分にその病院の近くのビルで火災が起きます。

 一人でも、多くの命が救われることを祈っています。

 

                          朧より



 手紙を読み終えると、役割を果たした文字たちは炎の残り香と共に消えていった。

『あの女、私達を便利に使いたいだけなんじゃないかしら』

 それが、手紙を読み終えた蒼音の第一声だった。

「そうかもしれないね」

 蒼音は、私の上の空の回答に少し眉を寄せた。

『……何か気になるの?』

「うん、少しね」

『それって、朧がまだ何かを隠していること?』

 私が言うより先に、蒼音が私の考えに触れてくれた。

「考えてもしょうがないのは分かるんだけど、気になちゃって」

 これからの事や、自分たちの事が分からないまま今が進んでいくのをただ見ているしかないこの状況が不安で仕方がない。

 けど、私の苦悩を見つけた蒼音はきっぱりと言った。

『神様の考えなんて、私達が分かるわけないのよ』

「それはそうだけど、蒼音は不安じゃないの?」

『だから、不安がることに意味がないって言っているのよ』

「意味が、ない?」

『私は私の目的のために貴方と協力し合っている、目的以外の事を考える必要はないわ』

「でも、多分私達はとんでもないことに巻き込まれているかもしれないんだよ?」

『だったらあんたは、自分の憎んでいる神様に答えを聞く気なの?』

「それは、嫌だけど……」

『聞く気がないならそんな事で悩むのは止めなさい、結果なんて神様だけが知っていればいいのよ』

 蒼音は私の悩みを一蹴してくれた。

『貴方は目の前の命を救いなさい、それが天使になった貴方のやりたいことでしょう?』

 そうだ、私が迷っている間に救える命を見落としてしまうかも知れない。

 救われた私には、悩んでいる時間さえないのだ。

『それに私は朧を信用なんてしていないわ、嫌いなのよあの女』

 そう言いい終えて、ベッドから下りた蒼音を少しだけ睨んでしまった。

 私は、少し嫌な人間なのかもしれない。

 私は、猫である彼女に嫉妬してしまっている。

「蒼音は、分かりやすいね」

 だから、私の答えも透かし皮肉めいてしまった。

『貴方が分かりにくいだけよ、朱音』

 でも、そんな皮肉も蒼音に笑って返されてしまった。

「……そろそろだね」

 さて、下の方が騒がしくなってきた。

 どうやら、朧さんの指定した時刻のようだ。

 日の差し込んだ病室に目を向ける。

 そして、眠る私に天使の私が声を掛けた。

「行ってきます」


 そして私は、火災現場に向かって歩き出した。


 人々を救うために、神の仕事を肩代わりする為に。







          3


 では次のニュースです 。

 昨日 、午後二十一時頃にN県で大規模な爆発が発生しました。

 被害は男女含め負傷者が六十人以上とゆう大惨事となっております。


 しかし、死者は奇跡的に出ておりません。


 詳しい爆発の原因に関しては現在調査中とのことですが、一週間ほど前(H・N (とむら)|《》) と名乗る人物から総理官邸のPCにテロを匂わせるメールが届いていたとの情報もありますが詳しい事は 分かっておりません。

 また関係者の話では、爆発直後に空を飛ぶ少女を見たなど情報が錯綜しており現場は依然混乱状態だとのことです。

 一部の宗教団体は死者0人のこの出来事を神の起こした偉業として事故現場を巡礼地に指定しようとする運動も見受けられ事態収拾の目途は立っておりません。

 なお重傷者は最寄りにあるクリスマス・パレード総合病院搬送され、夜間の対応にも関わらず多くの医師が対応に当たっていた模様です。

 ここからは、医院長である三日月(みかづき) (ひろし)氏のインタビューです。|《》|《》


 お忙しい中インタビューに応じていただき、ありがとうございます

「大丈夫ですよ、よろしくお願いします」


 画面が切り替わり、病院前でインタビューを受ける身内が映った。

「あっ叔父さんだ」

 久しぶりに見た叔父さんは少し痩せてしまっているようで、少し心配になる。

『貴方の叔父さんって医院長なのね』

 蒼音も画面を覗き込んでくる。

「うん、気弱だけど優しい人だよ」

 元々高身長で華奢な叔父さんなので、目に隈が出来ているせいで病弱な印象を与えてしまう。

『貴方のせいで、余計な気苦労を与えているしね』

 蒼音の容赦のない言葉に苦笑を零してテレビを注視する。

 テレビの中の叔父さんは、眠い目のままインタビューを続けている。

 Q いきなりの対応にも関わらず三分の二以上の医師が対応に当たっていたとの事ですが、それは貴方 の指示だったのですか?

「いいえ、私は出勤できるものだけ対応に当たる様に指示を出しました」

 Q では、今回の対応は個人の意思であったと?

「そうですね、もちろん対応してくれたスタッフにはとても感謝していますしとても正義感の強い医師た ちが多くいる事にとても感激しました」


 Q そう言えば、前医院長であり医院長のお兄さんでもある三日月 真也(しんや)愛純(あすみ) 夫妻もテロで亡くされていましたよね。|《》|《》

「ええ、ですから私も含め余計にここのスタッフ達はテロとゆうものが許せないのでしょう」


 Q では、今回のテロについてどう思われますか?

「私は専門家ではありませんから詳しくは分かりません、ですがテロが許せないとゆう意識と世界が平和であってほしいとゆう人類の共通意識は持っております」


 Q じゃあもしもテロリストがここに来た場合、貴方は治療しますか?

「もちろん最善を尽くします、医療に罪はありませんし私には歴代の医院長から受け継がれてきた言葉があります」


 Q それは何ですか?

「〝生きろ〟です、この言葉を胸にこれからも我々は医療活動を続けて参ります」



 ありがとうございました。



 以上、インタビューと速報をお届けしました。



 緊迫したニュースが終わり、ペット特集の話題に移り変わったタイミングで私は歩きだした。

 ここは脚気のない商店街の、店内の狭い電気屋さんで目玉商品の大型テレビから流れるお昼の速報を私は蒼音と一緒に眺めていた。

 眺めていることに気付かない電気屋のおじさんは、気持ちよさそうに転寝(うたたね)を続けている。

 歩調は急ぐことなくゆっくりと進んでいるけど、楽をする事に味を占めたのか蒼音は自分の足で歩きたがらない。

 病院のとき以来、私の肩が蒼音はお気に召したようだ。

『巡礼地だってさ、大勢ケガ人が出たっていうのに暢気なものね』

 相変わらず蒼音の言葉には容赦がない。

「仕方ないよ、何かに縋りたいのは誰でも同じなんだからさ」

『意外ね、神様にすがっている宗教家なんて一番嫌いだと思っていたわ』

「何かに縋りたい気持ちは分かるよ、ただ神様に縋りたいって気持ちは分からないだけ」

 姿も見えない何かに自分を預けたって、自分一人が倒れるだけなのに。

『結局、最後に頼れるのは自分だけってことね』

「まぁ私達はその神様に助けられたんだけど」

『助けられたんじゃなくて巻き込まれたのよ、特に私はね』

 辛辣な蒼音の意見を聞き流しながら細く複雑な道をひたすら歩いて行く。

 二十分以上歩いてようやく目的の場所が見えてきたようだ。

 そこは私と蒼音が初めて出会った場所の近くで、蒼音と名付けられたこの猫を知るための場所なのだ

『ところで、本当にいいのね?』

 それは、ここまでに何度も聞いた問だ。

「くどいよ蒼音、私だって相棒の過去は知っておきたいしね」

 私だってこんなじめじめした裏路地なんかに何度も来たくはない。

 でも、ここに来たのは蒼音の心を知るため。

「病院以来何となくうやむやになっていたから、ここでけじめはつけておきたいしね」

 それに、大抵のグロテスクなものは見慣れている。

 そうだ、人間の死体以上にショッキングなものはそうそうない。

「それより、もうじき着くの?」

『ええ、その先の少し開けたところよ』

 蒼音の言葉通り、薄暗い道の先にちょっとした広場が見える。

 そこは、いかにも不良のたまり場といった雰囲気の広場だ。

 地面は柔らかい砂で遊具なんかも見当たらない、本当にちょっとした広場だ。

 けど、こんな家やビルの入り組んだ奥にある広場を流石の不良たちも見つけることは出来なかったようで落書きや荒らされた様子はな。

 誰もいない広場は静かに、私達を迎え入れてくれた。

「本当に、何もないね」

 ビルと家屋に挟まれているせいでここは日の光すらうまく届いていない。

 それでも、私達がそこに足を踏み入れた瞬間に祝福するかのように日の光が入り込んだ。

 街灯もないここにとって、それは確かな道標になる。

「ここに、お母さんが居るの?」

『……』

「蒼音?」

『……』

 呼びかけても反応がない。

 横目で彼女を見ようと、首を動かそうとした時だった。

『母さん?』

 それは、蒼音からは聴いたことない掠れた声だった。

『い、いない……』

「いないって、お母さんが?」

 私の疑問には答えず、肩から飛び降りた蒼音は真っ直ぐに広場の中央に走っていった。

『母さん、何処!?』

 虚空に蒼音の声が響いた。

 けど、それに答える音は聞こえなかった。

「落ち着いて蒼音、本当にお母さんはここに居たんだよね?」

『間違いないわ、それにこんな所にある死体なんて片付けるはずはない』

 確かに、こんな建物が入り組んだ道路下にある広場なんて誰が来るとは思えない。

 けど、現に死体は消えているわけであり誰かが持ち去った可能性は高い。

「この辺に他の動物はいないの?」

 一番高い可能性は、他の野良の動物に死体を持っていかれた事だ。

『近くに野良犬はいるけど、そんなに大型犬じゃないし私達を襲ってきた事なんてないわ』

 そもそも、そんなに獰猛なの野良犬ならまだ子猫の蒼音はここで死んでいたはずだ。

「だとすれば、本当は生きていた?」

『馬鹿言わないで! いくら私だって生死の判断くらいはできるわよ』

「でも死体を運ぶような動物が居ないんじゃ、自分の足で歩いたとしか考えられないよ」

『あり得ない、でも死体が動いたなんてもっとあり得ないわよ』

 それを私達が言うのだろうか。

 神の奇跡で生かされた私達が。

 この世には、奇跡ってゆう呪いが存在している。

「とにかく、近くを探してみよう」

 私の言葉を皮切りに、私達はこの広場を捜索し始めようとした。

 探すとはいっても、それほど大きくないこの広場で探すところは限られる。

 手始めに、蒼音の向かった反対側に向かう。

 いや、向かおうと足を向けた。


 その時、懐かしい匂いが鼻を掠めた。


 それは、お爺ちゃんや両親が死んだときに嫌とゆうほど漂ってきた匂い。

 夏の匂いとゆうほど詩的じゃなく、線香の匂いに近い。

(そうだ、この煤の匂いはあの日の匂いだ)

 初夏の日差しとこの匂いが、目の前の風景を一瞬あの地獄に変える。

 眩暈(フラッシュバック)が起きたのは久しぶりだ。|《》

 そう言えば、匂いは記憶と深くつながっていると本で読んだことがある。

(もしかしたら、これが死の匂いなのかもしれない)

 匂いをたどって視線を、向けた。

 その人は、ゆっくりと建物の影の中から姿を現した。

「君、ちょっといいかい?」

 声の年齢は、齢を重ねた渋みのある声だ。

 見た目も無精ひげを生やしており、頬は痩せこけている。

 けど不思議と年老いた印象は受けないのは、ひょっとしたら見た目よりも若いのかもしれない。

 表情は穏やかで、口調も丁寧だ。

 やっぱり不衛生な見た目のせいで年老いて見えるだけなのだろう。

 でも、私の中の何かが忠告している。

 この人に注意せよ、と。

「君はあの黒猫の飼い主かい?」

 あの黒猫とは多分、蒼音のお母さんの事だと思う。

 そこは理解できる。

 けど、どうしても理解が出来ない事が起きている。

 それこそ、警告の正体だと理解した。

(この人、私が見えているの?)

 あまりに自然に話し掛けられたから、反応が遅れたけれど今の私は幽霊みたいなものだ。

 だから、私を見る事が出来る人は殆どいないはずだ。

 少なくとも、今まで私の姿を見られたのは〝賽の欠片〟を回収するときだけだ。

それ以外で私に話しかける人はいなかった。

「ああ、いきなり声を掛けてすまない」

 私の沈黙を警戒と捉えたその人は、慌てて苦笑いを浮かべる。

「こんな人の来ないところで話し掛けられたら驚くだろうが、大声だけは勘弁してほしい」

 大声を出したところで来る人もいない気がするが、この人の素性が分からない以上はおとなしくしたがった方がいい。

「だ、大丈夫です! 少しだけ驚いてしまっただけです」

 自分でも分かるほど、引き攣った笑顔をしている。

「すまないね、驚かせるつもりはなかったんだ」

 この人もそれを察しているのか、表情から苦笑いが消えない。

「と、ところでどうして私の探しているのが猫だって分かったんですか?」

 私からの話題の提供に少しだけ苦笑いを緩めたその人は、警戒する私を警戒しながら話し始める。

「だって、こんな人気のないところで肩に猫を乗せながら何かを探しているようだったし親猫でも探していたんじゃないかい?」

「そうなんです、私の肩に乗っていた猫の母親なんですが今どこにいるかご存じないですか?」

「それなら、こっちだよ」

 彼は自分が出てきた方を指さした、背後の闇は来た道よりもなお暗い。

 本当に、今が昼間なのかと疑いたくなるほどの暗がりが広がっている。

 だけど、その闇に消えていった背中を追って私もそこに入っていく。

 道すがらはやっぱり暗いけど、光が差し込まないだけのようで視線を上げればそこには太陽の光が覗いているが見える。

「ここだよ」

 前から聞こえた声に、太陽の光に目を向けていた視線を前に向ける。

 それは、一目見たら砂が盛られているようにしか見えない。

 でも、そこに飾られたタンポポの花と木の十字架を見てその下に何が埋まっているのかを本能的に悟る。

 私の沈黙を、動揺と捉えた彼が淡々と続ける。

「僕が見つけた時にはもう死んでいたよ、極度の栄養失調で最後に捕まえたエサを食べる前に力尽きたみたいだ」

 私は彼の声を聞きながら、静かに墓前で手を合わせる。

「ありがとうございました、この子を弔ってくれて」

「いいよ、僕たち生者が死んだものにできる事はこれだけさ」

 そう言うと私の隣に並び、合わせ鏡の様に同じ仕草をした。

 しばらく無音が時を進ませけど、透き通る鈴の音が沈黙を破る。

 蒼音は、ゆっくりと墓の前にやってきた。

 そして、手を合わせられない彼女は静かに目を閉じて死者への黙祷をささげた。

「その猫、黙祷をしていたのか?」

 やはり、この人には蒼音も見えているのだ。

 心中穏やかじゃなかったけど、私達の姿を見られたのは初めてじゃなかった。

 それでも、私の中の警戒心は収まってくれない。

「そういえば、貴方はどうしてこんなところに居るんですか?」

 質問を投げかけた。

 すると、彼は息を呑み空気が張り詰めていく。

「ここって地元の人たちですら近寄ろうとしない場所ですよ、そんな場所で一体何をしているんですか?」

 ああ、私は彼の中に踏み込んだ。

 冷え切った空気が、それを教えてくれる。

 だけど、周りの空気とは裏腹にその人は小さく笑い私の質問に質問で返してきた。

「君は、神様を信じるか?」

「……いると思いますよ、気に食わないですけどね」

 神は確かに居た。

 でも、私は神の事を信じることは出来ない。

「そうか、君は会った事があるんだね」

 そう言ってはやはり、ニヒルに笑う。

「少し、昔話をさせてくれ」

 私は黙った、その沈黙を見て彼は語り出した。

「僕はね、今ではこんな見てくれだけど昔は医者をやっていたんだ」

 確かに、今の風貌は浮浪者と大差ない。

「それなりに腕が良くてね、二十代の頃に紛争地域の海外ボランティアに選ばれたんだ」

 劣悪化の環境での医療活動は、ただでさえ精神を削られる医療活の中でもやりたくない分類になるってお父さんが教えてくれた。

「同期の連中は僕の事を哀れんだものさ、でも僕は嬉しかった」

 でも、この人もお父さんも自ら進んで戦場に飛び込んで人を救おうとしたんだ。

「だって僕の技術で誰かが笑ってくれるんだ、こんなに喜ばしい事はなかった」

 その感情は分かる。

 だって、私はその笑顔を見るために危険を冒しているのだから。

「僕はその時、誰かを救うことに酔っていたんだ」

 その言葉に胸を締め付けられた。

 それは、私の醜いところを覗かれたみたいだったから。

「そして、あの事件が起きた」

「あの事件?」

 心臓が早鐘を打つまま、次の言葉を待っている。

「七年前、この平和な国でハイジャックテロが起こったんだ」


 その言葉に、心臓を掴まれた。


「僕はその時、飛行機に乗っていたんだ」

 七年前の、テロ事件?

「テロリストが自爆テロを起こして墜落する直前、僕は祈ったよ」

 ああ、誰もが祈っただろう。

 助けてほしいと。

「そして、僕は助かった」

 そうだ、私も助かった。

 でも、あの事件の生存者は私だけだったはずなのに。

「焼け野原になった滑走路を歩きながら、僕は他の生存者を探し回った」

 そうか、この人は探してくれていたんだ。


 そして、私を見つけてくれた。


「彼女にはまだ息があった、か細い息遣いだったけど天に手を伸ばして生きようとしていたんだ」


 この人が、私の手を握ってくれたんだ。


「僕はその時できる最高の処置をした、多分もう一度やれと言われても絶対にできないくらい完璧な手際だった」

 顔を伏せている視線は虚空を見つめていた。

 でも、この人の瞳は思い出を見つめている。

「その時僕は、奇跡を起こしたんだと思う」

 いいえ奇跡なんかじゃない、私は貴方に救われたんだ。

「でも、その代償に僕の地獄が始まった」

 私はずっと感謝を伝えたかった。

 なのに彼が呟いた地獄とゆう言葉に、口から出掛かった言葉が息を詰まらせた。

「その後僕は、テログループに捕まってそのままテロの支援を強制させられた」

 言葉を発したいけれど、喉が乾いてきて唾も出てくれなくて息を呑む事しかできない。

「最初にさせられたのは、負傷したテロメンバーの治療だった」

 この人の話に聞き入ってしまったから気付けなかったけど、自分の事を話すこの人の笑顔がだんだん深くなっている。

 この人の感情を読み取ることが出来ない。

 ただ分かることは、この笑顔には騙されてはいけないとゆう事だ。

「そこは土煙と硝煙の匂いが漂う戦地だった、そこで銃を突き付けられながらケガ人の治療をしていき治療の終わったメンバーがまた人を殺すために戦場に出かけるんだ」

 口角が釣り上がり、それ以上行かないのになおも口の端を上げようとしているせいで顔の筋肉が痙攣を始めてしまっている。

 この人は、感情のコントロールが出来ていない。

「そんな地獄が二か月続いたある日に、政府と交渉するためにビデオ撮影に出させられた」

 死んだ目でなお彼は独白を続ける、この人の目に私は写っていないだろう。

「でも、何か月経っても政府が僕を助けに来る様子はなかった」

 彼の視線がどんどん下に向いていき、ついに表情が見えなくなってしまった。

 だけど、俯いていたと思ったら突然視線を空に向けた。

 挙動が読めない恐怖に思わず身をすくませてしまう。

「それどころか僕が居たテログループの本拠地が爆撃された」

 彼の話はどんどん熱を帯びていき、光のない眼で天を仰ぎ見ている。

「そして目の前に――再び焼け野原が広がっていた」

 炎と死が広がる光景を、二度も見せつけられたのだ。

「その地獄を再び見て僕は悟った、僕は見捨てられたんだとね」

 それで、この人の心が壊れてしまったんだ。

 叔父さんが私を助けてくれた人の事を言えなかった訳が今なら分かる。

 私を救ってくれた人を見捨てたなんて話を、私にできるはずはない。

「その爆撃でテログループのリーダー含め大半は死んでしまったが、僕と生き残ったメンバー数人で今後について話し合った」

 そして話の熱が少し収まってきた時に、不意に腰の後ろに手を伸ばした。

「僕は言ったさ、僕を捕虜ではなくメンバーに入れてくれとね」

 そして、一つの黒い塊を私の眉間に突き出してきた。

 それは、洋画とかで悪役がよく持っているもので、一般的に拳銃って言われているものだ。

「僕の医療技術を君たちに提供する、代わりに僕に戦闘技術と爆弾の作り方を教えてくれってね」

 緊張と動揺でうまく反応できない。

「最初は信用してもらえなかった、彼らは僕を利用するために連れてきたのにそんな僕が急に協力を申し出てきたんだからね」

 蒼音も何も言わない。

 猫特有の冷たい視線を私に送るだけだ。

「その時に僕は言った、君たちは自分たちの戦いが聖戦なら君たちと居ればいずれ神様と会えるんだろうとね」

 恐怖で体が動かない。

 何より、私を助けてくれた人に殺されそうになっていることがショックだった。

「それに、僕を地獄に突き落としておいて今更贖罪に逃げる事なんて許さない」

 彼の表情に、猫の墓を作ってくれた面影は残っていない。


 その顔と目に残っているのは、狂気だ。


「僕は神に裁かれる為にここに居る、それだけの為にたくさん人を殺した」

 そう呟いて、引き金にかけた指に力が入る。

 私はそれを、受け入れた。

「許してくれとは言わない、でも僕の顔を見た君を生かしておくわけにはいかない」

「最後に名乗っておくよ、僕の名は(とむら)――昨日の爆破事件の犯人さ」|《》


 そして、引き金が引かれた。


 轟音と共に私の額を鉄の塊が通過していき、漂ってきた血と硝煙の臭いが頭部の内側から鼻を不快にさせる。

 けど、不思議と痛みは感じない。

 よく痛みは傷を見た後にやってくるってゆうけど、傷を目視できないから痛みがやってくるのが遅いかもしれない。

 そんな事は額から血を流しながら考える事じゃない気がするけど、この人がどこかに行かない以上私も動けない。


 空気が張り詰めたまま、針のない時計が時を進ませる。


 今この場で生きているのは、彼の背中を見つめている蒼音だけだ。

『行ったわよ』

 そう、蒼音は短く言った。

 蒼音の言葉を聞き上半身をゆっくりと起こす。

「頭に銃弾を受けた感想はどう?」

「最悪だね、死なないからって二度とごめんよ」

 額から顔にかけて血の筋が伝っていたが、激痛を感じる事はなかった。

『死なないとはいえ、痛くなかったの?』

「少しは痛かったかな……でも痛みを感じる前に傷口は塞がったし、何とかあの人にばれずに済んだね」

 傷の塞がった額をこすりながら、鉄の塊を小さな胸ポケットにしまう。

 それは、私を撃ち抜いた小指の先位の小さな弾丸だ。

『そんな物、持っていたって何の意味もないわよ』

「そんなことないよ」

 これが私の頭蓋をドリルの様に突き進んでいたのかと思うと、ゾッとする。

 でも、これは私が持ってなきゃいけない。

「私が、忘れないために」

 あの人の人生を狂わせた。

 これは、それを忘れないために持ってなきゃいけないんだ。

「それより、あの人を追わなきゃ」

 歩き出した私に並ぶように、蒼音が足元に寄ってきた。

『あの男……私達が見えていたわね』

「そうだね、きっと〝運命の賽〟が関係しているんだと思う」

 この奇跡の結晶には、まだ私の知らない秘密が隠されているのだ。

「でも、今はあの人を止めなきゃいけない」

『けど、追ったところで私達には何もできないわよ』

「あの人は、また人を殺す」

 人の来ない裏路地とはいえ、現代日本で銃を平気で撃つ人がこのまま終わるはずはない。

「弔さんはきっと、もっと人を殺す」

 あの人の手は人を救えるのに、今はその手で多くの命を奪っている。

「そうしてしまったのは、私だ」

 だから、私が止めないといけない。

『どうゆう事?』

「……前さ、ハイジャック事件で私を助けてくれた人がいるって話をしたよね」

 猫の狭い額に僅かに皴が寄った。

『……まさか、あの男が?』

 私は何も答えない。

 蒼音は、その沈黙が答えだと分かってくれたようだ。

『そうだとしても、私達が無力であることに変わりはないわ』

 全てを悟っても、蒼音は私に問いかける。

「それでも私がここで止まることは許されない、奇跡によって捻じ曲げられた命を救わなきゃいけない」

『何か案はあるの?』

「……弔さんが多くの人の命を奪うなら、私はその人たち全てを助ける」

 それだけの事、それは――私がやらなきゃいけないこと。

『本当に、馬鹿な子ね』

 蒼音は、それだけを言うとまっすぐ前を見据えた。

 やがて薄暗い迷路みたいな裏路地に四角く切り取られた出口を見つけた。

 だけど、出口の数メートル手前で示し合わせたわけじゃなかったが私と蒼音の足が同時に止まる。

 どうやら目の前の道路が少し賑わっている気がする。

「どうしたんだろ?」

『知らないわよ、行ってみれば分かるわ』

 警戒しながら表の道路に出た。

 そこはあの時の風景を思い出させる光景だ、人の波があり大きなうねりになっていた。

「珍しい、この辺りってこんなに人はいない筈なんだけど……」

 記憶にあるこの周辺はお母さんと一緒に来た時の、賑わいのない疎らな客の風景だけのはずだった。

 けど、目の前の光景は慌ただしく人の波が動く異様な光景だ。

 はぐれない様に蒼音を肩に乗せて人の波に逆らって歩いていく。

 老若男女の表情や会話から、どうやらこの人波は何かから逃げてきたみたいだ。

 私は周囲の様子を注意深く見ながら進んだ。

 そう意識を張り巡らしていたから、肩が触れそうになるほどすぐ傍を通った三人組を無意識に目が追ってしまった。

「ねぇ朱音ちゃんは大丈夫かな?」

 その三人組は私と同じ制服を着ていた。

「仕方なかよ、病院を信じるしかない」

 その内の一人は、可愛い花の髪留めを揺らしながら気弱に私の名前を口にした。

 一人は気弱な答えに方言と標準語が混ざった力強い回答をし、もう一人は黙ってスマートフォンをいじっている。

 数秒すると、喋っていた二人のスマートフォンが同時になった。

 それを同じ動作で確認した二人の表情は両方とも苦笑いだった。

「あんたの趣味は知っているけど、この距離でスマホのメッセージ機能使うか?」

 力強い声の彼女の言葉を、パーカーを深くかぶってマスクを着けた彼女は俯きながら聞いていた。

 はたから見ればいじめられているように見えるけど、フードの子は見た目を裏切る攻撃的な性格のだ。

 きっとメールの内容は、もの凄い毒舌文なんだろう。

「仕方ないよ、もうすぐライブだもんね」

 気弱な彼女が優しくフォローを入れる。

 その光景とその声達は徐々に遠ざかっていく。

 その風景に足りない自分の後ろ姿を見ながらその背中たちを見送った。

『どうしたの?』

 肩に乗せた蒼音が覗き込んでくる。

 私の気持ちを察してくれたのか声のトーンは、やや穏やかだった。

「今の三人組、私の友達なんだ」

 もう見えなくなった背中を横目に見ていた私に、蒼音が優しく顔を摺り寄せてきた。

 仄かに温かいその感触に、気を許した私の口は静かに語り出した。

 私の生き方は傍から見れば歪な生き方だ。

 それは、私だって分かっている。

 でも、どうしてもあの笑顔をもう一度見たくて人の為に色々な事をやってきた。

 周りの人たちは私の偽善を、感謝するか利用するかあるいは敬遠していたと思う。

 そんな私の業に、笑顔で付き合ってくれた子がいた。

「ボブの髪型が似合う彼女は(かがり) 陽向(ひなた)ちゃん、私の高校で出会った最初の友達だよ」|《》

『じゃあ、頭巾をかぶっていた子は?』

「あの子は霞谷(かすみだに) 悠子(ゆうこ)ちゃんだよ、見た目はおとなしい感じだったけど結構口が悪いんだ」|《》|《》

 メールの文を想像するだけで、少しニヤリとしてしまう。

「でね、私達のまとめ役で元気よく文句を言っていた子が(きよ)(たに) (りん)ちゃんでとっても面倒見のいい人なんだ」|《》|《》|《》

 私はいつの間にか饒舌になっていた。

 まるで、親に作文を聞いてもらう子供みたいだ。

 そんなはしゃぐ私の話を聞いていた蒼音は瞼を閉じた。

『貴方が友達っていうくらいなんだから、そうなんでしょうね』

 その仕草と声は、子を見守る母親のように穏やかだった。

『さあ、話は終わりよ』

 何かに気付いた蒼音の空気が変わった。

 気付いて周囲を見渡せば、さっきまでのざわめきは少なくなっていた。

「……そうみたいだね」

 顔を上げて人混みが逃げてきた場所を見上げた。

 どうやら、何かの映像が繰り返し流れているようで私は駅前の大きなモニター画面の目の前に足を向ける。

 その映像は三人のピエロの仮面をつけた男性達が、軍隊みたいな立ち方でカメラの方を見ている。


 特に中央で喋っている人には見覚えがある、さっき私を撃ち殺した人に間違いない。



 私は弔。



 昨日起きた爆破事件のリーダーです。


 端的に用件だけ伝えますと、今日の0時丁度にここの一帯を爆破します。


 この放送を冗談だと捉えるのは構いません。


 私達の戦いは聖戦です、この国に裏切ら国に仲間を殺された復讐です。


 神は私達の行いを見ています。


 けど、神が私達を罰しない。


 そう、これは正しい戦いなのですからね。

 だが神よ、もしここに住む民を愛しているなら私を殺しに来い。



 これは神に許された聖戦であり、神に対する挑戦である。


 五分くらいの映像が終わり、再び最初に戻るのを見て私は歩きだした。

『何処に行く気なの?』

 蒼音が振り落とされそうになりながら私耳元で叫んだ。

「この辺りを見渡せる場所に上る、そこから見下ろして人が隠れられそうな場所を見つける」

 簡易的な説明だけをして蒼音を杖にする。

『ちょっと、何を勝手に!』

「文句は後で聞くわ、でも今は静かにして!」

 誰かに見られるとかそんな事を言っている場合じゃない。

 人混みのなくなった道路の中央から風に乗り、空高く体を舞い上がらせる。

 目指すはこの辺りのビルより高い電波塔、あそこからならこの周辺を見渡せるし空を飛べる私なら見つけてすぐに向かう事が出来る。

「絶対に止める」

 気持ちは焦っていたけど、不思議と思考が冷静なことに驚く。

「速く、もっと速く!」

 だけど、焦りで動かした体は思っていた以上に正直である。

 風を切る音が増していき景色を置き去りにしていき、電波塔を登っていく私の背中を夕焼けが焦がしていく。

 時間にして五秒くらいで空に一番近いところに到着した時、空は黄昏の時を告げる紫色に覆われていた。

 けど、いつまでも幻想的な空ばかり見上げているわけにもいかない。

(彼は何処にいる?)

 私は視界で彼を探しながら思考で犯人の思考を推察していく。

(あの放送は恐らく録画だ、なら弔さんは仲間と一緒に行動しているはずだ)

 風が私の髪を大きく揺らす。

 鼓膜には強風と幾つも重なったサイレンの音が届き、事態の深刻さが窺えた。

(昨日の爆破現場を見ている人なら分かる、あの人は本当にやる)

 だけど、放送の内容だけでは範囲までは分からないからなのか周囲をローラー作戦で潜伏先を絞りこもうとしているみたいだ。

(もしかしたら、設置されている爆弾の解除も目的かもしれない)

 でも、人員を掛けることは出来ない私は警察の作戦を利用して絞り込んでいく。

(右の範囲の建物には居ない、正面のビル群にも突入しているけど変化はない)

 思考の結果、私は左側に視線を向ける。

 そこに視線が向いたのは偶然だった。

 ただ、左側にある建物の中で目立つ建物が他になったからそこに視線が向いただけだ。

 その建物がなんであるか見間違えるはずもない。

 そこは、彼の始まりの場所であり私が眠っている場所。

 クリスマス・パレード総合病院の屋上に人影が居た。

「見つけた!」

 ここから病院まではそれなりに距離はあるけど、あの人の予告した時間までにはまだ時間がある。

 むしろ、彼を止めるには今しかない。

『待ちなさい朱音!』

 蒼音の制止は私の耳に届いていた。

 でも、声の抑止だけで私を止められるはずもない。

(私を、彼の元へ連れてって!)

 私の体を舞い上がらせた風は、今までのどの風よりも早く私を運んでくれる。

「私はあの人に助けられた、なら今度は私が助ける番だ」

 救われなきゃいけない人を助けるのが、私の仕事だ。

『…………朧?』

 蒼音の反論が止んだ。

 蒼音の呟きから察するに、どうやら朧さんが話に割り込んできているようだ。

『ちょうどいいわ、朧もこの分からず屋を説得しなさい』

 蒼音が言い終わるとしばらくの間、蒼音が黙り込んでしまった。

 どうやら、朧さんの話を聞いているようだ。

『それが、私達に隠していた事なのね』

 朧さんが何を話しているのか気になってけど、屋上は目の前に迫っている。

 今は、弔さんの事に集中しよう。

『……勝手にしなさい、けど私も好きにさせてもらうわ』

 蒼音は不機嫌なまま会話を閉じた。

 そして私は、あの人と対峙する。

 弔さんは私を見てもあまり驚いていないようだ。

 納得のしたような、諦めたような感情の読めない含み笑いだ。

「朧さんから?」

『……貴方には関係ないわ』

 蒼音との会話を続けながら視線は病院の屋上の人影を睨む。

『私はもう止めない、でもこれだけは忘れないで』

 その声色は今までの説得のどの言葉よりも後ろ髪を引かれた。

『私は、貴方に恨まれても構わない』

 その言葉を最後に蒼音は静かになった。


 私は、何も言わず静かに彼の目の前に降りて行った。







          4


「これは驚いた、生きていたんだね」

 それが私の顔を見て発した最初の言葉、私を見ている彼は優しく微笑んでいる。

「あまり、驚いていませんね」

 反対に私の表情は険しい。

 そう言いつつ、私は杖を彼に向ける。

 私自身もこんなに顔に皴が刻まれる日が来るなんて思いもしなかった。

「う~ん、予感って言えばいいのかな」

 そう言いながら、彼も腰から私の撃ち抜いた銃を取り出す。

「君が、僕を終わらせてくれるのかな?」


 そして、私に向かって躊躇いなく引き金を引いた。


 だが私も、もう撃たれてはやらない。

因果よ、捻じれよ(トゥウィスト)!」|《》

 轟音は私の耳に届いた。

 けど、弾丸は私に届くことはなかった。

 朧さんによれば、天使達にはそれぞれ決められた役割がある。

 例えば聖母マリアに神の子が宿ったと伝えた天使ガブリエルや天使たちの長である大天使ミカエルなど、神話や伝説に伝わる天使達の特性が私達に発現するようだ。

 私に与えられた能力は、対象の決定事項を覆す能力だ。

 杖の先端の時刻は撃たれたとゆう事実に到達する時間であり、私はそれを発射されてない事にした。

「君は、本当に人間じゃないんだね」

 天気を聞くような口調で次々と凶弾を浴びせてくる。

 でも、連射であっても関係ない。

 私の瞳が決定事項を捉えている限り私はそれを次々となかったことに出来る。


 轟音は止まない、まるで今の彼の様に。


 私も彼から目を逸らさない、彼が止まるまでは。

 終わりの見えない禅問答の様な時間が五分ほど過ぎたところで、銃口からの火花が消えた。

 さっきまでの轟音は消え去って代わりに屋上を支配したのは、月夜にふさわしい静寂(しじま)|《》だった。

「まだやりますか?」

 私は静かに語り掛ける。

「勿論と言いたいところだけど、これ以上は無意味なんだろうね」

 彼の口調は変わらない。

 銃口は相変わらずこちらに向いているけど、銃声が止んだおかげでお互いの声がよく聞こえる。

「やっと、私の声が聞こえますね」

 私は、杖を下した。

「まさか、僕がこんなことで諦めるとでも思っているのかい?」

 彼は、引き金に力を籠める。

「いいえ、貴方は誰かが止めるまで止まりません」

 でも、私は構えず彼を見据える。

「君が、僕を殺すのかい?」

「殺しません、私に貴方を殺す資格はない」

「僕は殺すまで止まらない、もう分かっているだろ?」

 彼の言葉に、静かに首を横に振る。

「そんな事はありません、貴方は止まり方を忘れてしまっただけです」

「理性を失った人は人間の皮を被った獣でしかない、害獣は狩られるまで何度でも田畑を踏み荒らすものだからね」

「私に貴方を裁く資格はない、ましてや神に貴方を裁かせない」

「僕に、人の法で裁かれろと?」

 弔さんの瞳が鋭くなる。

 その目が睨んでいるのは私じゃなくて、あの日の焼け焦げた情景の様な気がした。

「貴方は人間だ、なら法で裁かれるべきだ」

「奇跡を起こした僕が、人間のエゴによって人生をめちゃくちゃにされた僕が今更人に裁かれろと?」

「違う」

 そう心が叫んだ時、私の口は心が動かしていた。

「貴方は、奇跡なんて起こしていない」

「何だと?」

「ハイジャック事件で貴方は、一人の女の子を助けた」

「そうだ、あの奇跡の様な応急処置によってあの女の子は救われた」

「いいえ、|私は貴方に救われたんだ《・・・・・・・・・・・》!」|《》

 彼の感情の揺らぎが向けられた銃口に伝わる。

 その動揺を見逃がさず私は積年の思いをぶつける。

「七年前のあの日、貴方は一人の少女を救った」


「その少女は両親とその男の人に命を救われた、決して奇跡に救われたんじゃない」


「その女の子は色々あったけど、今も三人のお陰で生かされている」


「その女の子は救ってくれた男の人にずっと言いたかった事があるんです、今生きていられるのは貴方の意思と優しさのお陰なんですって」


「ありがとうって、貴方のお陰でここに居られるって! お父さんとお母さんの分まで生きられるって! 貴方みたいな誰かの為に命を掛けられる人を目指せるって!」


「だから、私を救ってくれた貴方がこれ以上誰かを傷つけるのは見たくないんです」

 本当はもっと言いたいことがあったはずなのに、うまく言葉にできない。

 言葉の代わりに零れたのは、目からこぼれた一滴の水滴。

「戻りましょう、私が出来る事は何でもしますから」

 多くは語れなかった。

 でも、言葉は多くても思いは伝えられない。

 言葉は少なかったけど、私の言いたいことは伝わったはずだ。

 あとは、私の言葉が彼にどう伝わったかだ。

 彼は……かみしめる様に言葉を発した。

「……僕が助けた君が、医院長の娘さんだったんだね」

 銃口はこちらに向いたまま、弔さんは静かに目を伏せた。

「僕の人生は、無駄じゃなかったんだな」

 ここからじゃ表情は読み取れない。

「弔さん、それを渡してください」

 彼に近づくには今しかない。


 そう思って、一歩踏み出そうとした時――


「来るな!」


 怒声と同時に轟音が響いた。


 銃弾は、私の左の頬を掠めていった。

 彼は銃口からの煙が風にさらわれていくのを見つめ、私は左からの風に交じる鉄錆びの臭いを嗅ぎながら弔さんと視線を絡める。

「まだだよ、僕はまだ諦めてない」

 彼の視線を受け止めながら、私は静かに杖を構える。

「もうすぐ僕の合図で仲間達が爆弾を起爆させる、駅周辺は火の海になるだろうね」

「させませんよ、これ以上貴方に何かをさせるわけにはいかない」

 言葉の強さとは裏腹に、次の手が打てない状況だ。

 彼の心は折れなかった。

(言葉じゃ――彼を止められない!)

 彼は今も容赦なく攻撃を続けている。

 後悔する時間すら与えてくれない。

「君は僕を裁くためにここに居るんだ、神が君を遣わしたんだ」

 時間が数分前に巻き戻ったように同じことを繰り返す。

 轟音が空を裂き、私がそれを静寂に変えていく。

「違います、私は!」

 そして私も、届かない言葉を重ねる事しかできない。

「違わないさ、君はここに導かれたんだ」

 彼は、銃弾と共に私の心に攻撃を仕掛けてくる。

「導きなんて信じません、人間は自分の意志で歩いているんです」

「それを超常の力を使う君が言ったところで、説得力に欠けるね」

 そう言いながら彼は嘲る様に嗤った。

 彼は分かっているんだ。

 これは心の強さを問う戦い。

 心を――信念を折った方が勝ちである。

「君は矛盾だらけだ、君は神を憎んでいるのに君の行動は神の所業そのものだ」

 彼は突きつけた、私の矛盾を。

 気付いてはいた。

 確かに私の行動は、神の紛い物に他ならない。

 そう私は紛い物だ、それこそが神と唯一違う所だ。


 紛い物は、奇跡を起こせない。


「奇跡とゆう魔法は、確かに神の傲慢だ」

 奇跡は一度、神は一度しか救わない。

「それでも、その奇跡に救われた者もいる」

 それは、誰だ?

「それこそ私だ、私の存在こそ神の祝福に他ならない!」

「ち、ちが―」

 銃の連射は止まらない。

(このままじゃ、駄目だ!)

 折られる、そう直感した時――

『ここまでのようね』

 轟音が鳴り響く夜に、綺麗な声が響いた。

「蒼音?」

 今まで黙っていた蒼音が声を上げた事に驚いた。

 だけど、視線を反らしてしまった隙を突かれて銃弾が私を貫いた。

「ぁ――く!」

 受けた衝撃で僅かに自分の体が浮く。

 脂汗が頬を伝うが激痛が襲ってくると身構えたけど、痛みはやってこなかった。

 代わりに生肉を擦り合せるような不愉快な音が響く。

 そして、傷口がなかったように塞がったのだ。

(痛みを感じなくてよかった、まだ立てる)

 体に活を入れて立ち上がろうとした時だった。

『ここからは、私がするわ』

 私が声を上げる前に、彼女は呪文を唱え始めた。

『|管理者の権限を移行開始マスターシフト・オン』|《》

 呪文は、あっとゆう間に私の身体の自由を奪っていく。

 綺麗な声が、私から体の自由を奪おうとする。

「な――何、を」

(まずい、立っていられない)

 そんな事を想っている時には両膝から崩れ落ちてしまう。

 自分の意識で体を動かす事が出来ない、でも不思議と耳は音を拾ってくる。

 止まない銃声の中、綺麗な声が呪文を紡ぐ。

管理者の役割を変更マスターオーダー・チェンジ』|《》

 その呪文が聞こえた瞬間、さっきまで力が入らなかった足に力が漲る。

 ゆっくりと立ち上がる、でもそれは私の意志じゃない。

『|役割を〝死の天使〟に変更チェンジオーダー・ルシフェル』|《》

 最後の呪文の声は、私の口から聞こえた。

 でも、私じゃない声色で弔さんと対峙した。

「やれやれ、諦めが悪いね」

 撃ち尽くした弾倉を変え、再び銃口を私に向ける。

『それはお互い様よ』

 私の口調が変わった事に眉をひそめる弔さんを、私の身体の主導権を奪った蒼音は意に介していないみたいだ。

 肩を回したり、軽くステップで弾んでみたりしている。

「君は、そっちが素なのかい?」

『いいえ、さっきまで喋っていた子とは別よ』

「別だって? じゃあ君は誰なんだい?」

『貴方には、関係のない事よ』

 準備運動を終えた蒼音は風を切りながら杖を構える。

『言っておくけど、私は朱音ほど甘くないわよ』

 蒼音は鋭く言い放った。

 すると、手に持った杖が光に包まれる。

 二秒もかからない、瞬く間にそれは杖から巨大な鎌に姿を変えてしまった。

 装飾は何もなく黒い柄に白銀の刃だけがついているだけだ。

 でも、規格外なのはその大きさだ。

 あの杖が変化したのだから当然ではあるが、身の丈くらいの巨大な鎌は私にある者を連想させてしまう。

「その姿、まるで死神だね」

『そうね』

「なら君は、僕を殺してくれるんだね」

『それが、貴方の望みならね』

 正面に構えた鎌を上段に構える。

 彼は、引き金に力を籠める。

(やめて!)

 体はゆう事を聞いてくれない。

 私の言葉じゃ彼は止められなかった。

 だから、蒼音は代わりに止めようとしているんだ。

 私が負わなきゃいけない業を、蒼音に背負わせる事になってしまう。

(蒼音――止めて)

 そう、私は願った。

『……ごめんね、朱音』

 私の言葉は蒼音に届いた。


 でも、やっぱり蒼音を止めることは出来なかった。


 私の身体が前に傾く、それと同時に前から轟音が響いた。

 私の身体は弾かれるように弔さんに迫り、それを察知した弔さんも次々と銃弾を浴びせてくる。

 銃弾は私の身体を次々と掠めていくけど、弔さんの視線は速すぎる蒼音の速度に反応しきれていない。

「速いね」

 苦々しく、呟く弔さん。

 それを見逃さない蒼音は、さらに体を左右に振り揺さぶりを掛けてくる。

 月明かりを反射させた鎌が、私の動きに合わせて軌跡を描きながら徐々に間合いを詰めていく。

 しかし、間合いを詰めようとすると数歩下がりまた銃を撃つ。

 それを繰り返す。

 時間にすれば数分くらいの攻防、銃声が十数回聞こえた時だった。

「ここまで、か」

 弔さんは、短く呟いた。

 すると銃声が不意に止んだ。

 彼の銃を見れば、銃のスライドするところが映画とかでよく見る状態になっている。

 あれは弾切れの状態だと、私は理解した。

 その隙を見て蒼音が一気に肉薄した。

『そうよ、これで終わりよ』

 弔さんの呟きに蒼音はそう答えた。

 そして、躊躇いなく鎌が彼の体を通過する。

 仰け反るように倒れた弔さん。

 それを静かに見下ろす私達。

 何かを切る感触を私の両手と脳はしっかりと憶えている。

 でも、あんなに大きな鎌で切りつけたのに血はおろか、衣服にも切りつけた痕は残っていなかった。

 私達と彼の戦いの後に残った物は、沈黙だけだった。

「僕、は……死ぬのか?」

『間違いなくね、私の鎌はあらゆるものを断ち切る事が出来るわ』

「あらゆる、もの?」

『死ぬべき者がこの世を迷わない様に私達が断ち切ってあげなきゃいけないのよ、命も未練も業も――罪もね』

「……君達が来る少し前に、仲間から連絡があった」

 唐突に、話が始まった。

「これ以上の罪に耐えられないから、自首をするってね」

 それは、罪人の懺悔。

「巻き込んで悪かった、せめて君の名誉だけは守ってみせるって言って電話を切られた」

 つまり、爆弾の話は嘘だったのだ。

「人間は本当に傲慢な生き物さ、罪は消えても自責は消えてくれないってゆうのにね」

 生きる意味を奪われた彼は裁かれたかったのだ。

「ありがとう、これで僕はようやく許される」

『礼はいいわ、貴方は私の出来なかった事をしてくれた』

「でき、無かった事?」

 蒼音は彼を看取るために顔を覗き込み、弔さんも今にも落ちをそうな瞼を懸命に開けながらこちらを見る。

 その時の、彼の目に映った私の顔を私は忘れないだろう。

『貴方は私の母の墓を建ててくれた、ありがとう』

 私は、彼の瞳に映った私を見た。

 その言葉と共に送られた笑顔は、私の求めていた笑顔だった。

 彼が蒼音の言葉を理解したかは分からないけど、彼は眠るように目を閉じた。


 その顔にも私の見たかった笑顔があった。


「殺してしまった」

 そして、この人は私に殺された。

「なのに――どうして、貴方がその顔をするんですか?」


 どうして、お母さんと同じ顔が出来るんですか。


 自由になった両腕は、硬いコンクリートの床を何度も鳴らした。


 ダン。


 ダン。


 ダン。


 グシャ。


 それは、声に出来ない慟哭の代わりをしてくれているかのようだ。

 やがて、自分の返り血で腕が真っ赤になる。


 それでも、痛みは感じない。


 誰も、私を罰してはくれない。

『気は済んだ?』

 それが、蒼音の第一声だった。

 私は無言でそれに答えた。

 今、私が口を開けばきっと自己嫌悪するほどの罵声を浴びせる事になる。

『貴方の言葉で、この男は止まらなかった』

 彼女は音もなく私の隣に来て、眠る弔さんを見下ろす。

『だから、私が救った』

 違うよ、蒼音は殺したんだ。

 弔さんと同じ、人殺しだ。

『死による救済なんて詭弁を言うつもりはない、でもこれも私達に課せられた使命なのよ』

「人を殺すことが、使命?」

 一体どうゆう事なのか、蒼音の言葉の意味を問いただそうとした時だった。

 私達の背後から差し込んでいた月の光が人の形に切り取られた。

「それは、私から説明するわ」

 背中越しに聞こえた声は、朧さんだった。

 私は、黙る事にした。

 その沈黙を汲み取った朧さんが、静かに語り出す。

「天使は神の力の一部を使って人々を導く事が使命です、そしてその使命の一つに穢れた〝運命の賽〟の回収とゆう役割を請け負っています」

 ソールの固い音を響かせながら、朧さんが歩を進める。

 背中から聞こえる声は徐々に近づいてくる。

「〝運命の賽〟は神の力の結晶、それが生前の罪や憎悪といった穢れを持ってしまうのを防ぐために天使達は穢れた〝運命の賽〟を回収し次の〝運命の賽〟の所有者が生前の(カルマ)|《》を背負わない様にしなければなりません」

 それは神の権能であり、穢れを許す神の慈愛なのだそうだ。

 それこそが、天使の正体だと朧さんは言った。

「この人は、どうなるんですか?」

 朧さんの足音が隣に来たタイミングで、私は口を開く。

 静かな口調で、心を憎悪に燃え上がらせながら。

 この神様には、色々と聞かなきゃいけない事がある。

「罪人の魂は地獄に落ちる、それだけよ」

「ふざけるな!」

 憎悪が口を動かしていく。

「奇跡を起こして人を助けたのに、人に利用されて最後に天使に殺される」

 あまりに――理不尽だ。

「何が奇跡だ、奇跡なんて呪いと一緒だ」

 ついに憎悪は、私を否定した。

 それは私が最も言ってはいけない言葉だ。

「そんなの事言ってはダメ、貴方はご両親の祈りで生かされているのよ」

 朧さんは、私を咎める。

「奇跡は、神々が人々の祈りを受けて作り上げた物なのよ」

 人々の、祈り。

 そう朧さんは言う。

「〝運命の賽〟は祈りに答える、だから奇跡は美しいものなのよ」

「だったら、今すぐ弔さんを生き返させてよ」

 それは、私のここからの祈りだ。

「それを、この男は望んでいないわ」

「朧さんに、何が分かるのよ」

 絞り出した言葉が、力をもって木霊した。

『そうよ、神にだって人の気持ちなんて分からないわ』

 亡骸を見つめながら、蒼音も声を上げる。

「この人の〝運命の賽〟はもう限界だったわ、穢れを溜め込んだ〝運命の賽〟が壊れてしまう前に回収する必要があったの」

 駄目だ、抑えが利かない。

 我慢の限界だ。

「答えて、貴方は一体何を企んでいるの?」

 勢いよく立ち上がり、視線を朧さんの喉元に突きつける。

 事と次第で私はこの神を、殺さなきゃいけなくなる。

「この際、隠している事を全部教えてください」

 彼女は、その視線を受けても態度を変えずその表情には微笑みが見える。

「今は、答えられないわ」

 でも、わたしには分かった。

 彼女は、怒っていた。

 矛先は私じゃない、誰かに向いていた。

「天使は万能じゃない、神の端末でしかない貴方達に出来る事は多くない」

 言葉は紡がれる。

 それは、何処か他人事の様な冷たさだ。

「どうして、そんなに辛そうなんですか?」

 私から段々と黒い感情が口から溢れ始める、氾濫に耐えていた土嚢(どのう)様な理性が黒い濁流によって流される。

「まさか、神様が同情なんて求めているんですか?」

 まさか、救えなかった無力さを嘆いているの?

「同情をするのは神様の専売特許でしょう?」

 奇跡を起こせるくせに、奇跡を人間に与えたくせに。

「そうだ朧さん、救ってくださいよ」

 言葉は冷たく。

「私の恩人を、助けてください」

 視線を、突き刺す。

 朧さんのその綺麗な瞳に、憎悪の刃を。

 朧さんは、静かに首を振った。

「彼は、死ななければならなかった」

 神はいつだって、私の欲している答えを言ってはくれない。

 神はいつだって、私のしてほしい事はしてくれない。

 神に期待はしていなかったはずなのに。


 それでも私は、がっかりした。

 

 その絶望が、私の四肢から力を奪った。

 目から光を、腕のから力を。

 それでも、足だけは何故か動いた。

 もう、この場に居たくない。

「朱音ちゃん、これだけは忘れないで欲しいわ」

 去ろうとする私の背中に神様は言った。

「私は、貴方の味方よ」

 その言葉に嫌悪を抱きながら、風は私を帰る家へと運んで行った。


 


          5


 番組の途中ですが、速報です。


 一昨日の爆破事件及び昨日の爆破予告に関する続報が入ってきました。


 昨日の未明、爆破グーループのリーダーを除くメンバー全員がN県警に自首して来たとの情報が入ってきました。


 メンバーの証言はこれ以上の凶行には耐えられなくなり、自首をしてきたとの事で詳しい証言は現在調査中とのことです。

 また、昨日の犯行が未遂に終わりテロメンバー供述した十か所に警察が突入すると大量の爆薬が設置してありこれが爆発した場合の被害は一昨日の爆破の三倍以上に上ると見られます。

 なお、主犯格の弔容疑者はクリスマス・パレード総合病院の屋上で死亡しているのが病院関係者によって発見されました。

 死因や人物像の詳細については、警察や政府関係者が調査中との事ですが厳重なセキュリティーの敷かれた総合病院に侵入できたことから内部関係者の可能性も出てきており三日月医院長にも話を伺う方針のようです。



 以上、速報でした。



 簡素な部屋に置かれたテレビモニターからは、昨日のニュースが流れていた。

 罪を見せつけられているみたいで、目頭に滲み出てきた何かを拭う事もできないままモニターから目を逸らした。

 朧さんと蒼音とは、昨日の屋上で別れてから会っていない。

 今の私は、合わせる顔を持ち合わせていない。

 自分の気持ちをぶつけて、弔さんにそれを拒絶されて最終的に蒼音に彼を止める役目を任せてしまった。

(私は、子犬を助けられなかったあの時から何も変わっていない)

 力を得ても無力は私に現実を突き付ける。

 無力は私をまだ逃がさない。

(私――は、どうすればいいんだろう)

 気持ちを受け止めてもらえなかった。

 誰かの笑顔を見たい、この想いは間違っていないはずなのに。

『やっぱり、戻っていたのね』

 閉め切っていた部屋に初夏の風と光と共に、綺麗な中性的な声が響いた。

 私は顔を上げないまま、耳を僅かに開いた窓に傾ける。

『いつまでそうしているつもり?』

「……」

『別に慰めるつもりはないから、言いたいことだけ言うわ』

 蒼音は相変わらず淡白だ。

『次の仕事が来たから、先に行っているわね』

 古紙の匂いが足元に落ちた。

 でも、それを見る勇気はない。

 蒼音は、吐き慣れた溜息で私の足元に寄ってきた。

『……貴方は、何を望むの?』

「……私の、望み?」

『貴方の今の生き方は茨の道よ、これからこんなことはいくらでもある』

「……」

『だったら、貴方に何か救いがなければ続けられないわ』

 その問いに、私は力なく答える。

「私にとっての救いはあの笑顔だけ、それが以外の物なんていらない」

 いや、望んじゃいけないんだ。

『なら貴方はあの男を救ったのよ、報酬は貰っているじゃない』

「死ぬ事が、救いになんてなるはずがない」

 死には、何もない。

『いいえ、あの男にも残った物はある』

「ふざけないで! 命は、無くなったら終わりなのよ!」

『いいえ、貴方が残った』

 そうだ、私が残った。


 何もできない私が。


『貴方は罪を許し最後にあの男を笑顔にした、それは紛れもない事実よ』

 そうだ、あの笑顔は私の見たかったものだった。

 だからこそ、生きてあの笑顔を見たかった。

「罪を償って、欲しかった」

『貴方、神様になったつもり?』

「なんで、そうなるの?」

 言葉の意味が分からず、聞き返す。

『救いたいものを全部救える力なんて、私達は持っていない』

 そんなこと分かっている。

「それでも、あの人は私が救わなきゃいけない人だった」

『傲慢ね、まさに神だわ』

「違う!」

『なら救えない命もある、例えそれが死ぬ事でしか救われない人だったとしてもね』

 私は怒り、言葉を重ねようとした時だった。


 窓からブレーキ音、そして車の衝突音が聞こえてきた。



 そして足元にあった古紙が焼ける、それは臭いと共に風に乗って消えた。



『どう? 貴方が助けられるはずだった命が無くなった気分は?』

「……また、何もできなかった」

『違うわよ』

 蒼音は、私の心に言い放った。

『貴方は何もしなかった、それは救えなかった以上の罪よ』

 蒼音は、そう言い切った。

『貴方は立ち止まる事は許されない、そんな事は私が許さない』

 それは、私の願いによって生かされた被害者の言葉だ。

 なら、私は償わなければいけない。

 立ち止まっていても私の罰は、清算されてはくれないのだ。


『立て、三日月(みかづき) 朱音(あかね)!』|《》|《》


 初夏の風と猫の言葉が、私の心に僅かな火を灯した。

 私は窓の外を見た。

 そして、神の祝福の様な晴天に向かって小さく言い放った。

「やってやる」

 そう言いながら空を睨んだ。


 空は何も言わず、日差しを強くするだけだった。



                              FIN

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