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夏の放課後、君の横顔

教室の窓から差し込む夕陽が、黒板に長い影を落としていた。放課後の静けさの中、私——葉山茉莉は一人、席に座り込んでいた。扇風機の回る音だけが、この静寂を心地よく壊していく。


「はぁ…」


思わずため息が漏れる。夏の暑さが、私の思考まで緩くしていく気がした。


窓の外では蝉の声が響き、プール掃除をしているクラスメイトたちの笑い声が聞こえてくる。本当なら私も一緒にいるはずだった。でも、今日は違う。


数学の追試を終えたばかりの私は、赤点回避のために費やした昨晩の徹夜の疲れを、机に突っ伏して癒していた。


「葉山、まだいたのか」


突然の声に、私は慌てて顔を上げた。


「あ、佐々木先輩…」


教室の入り口に立っていたのは、佐々木翔太——学校一の優等生で生徒会長。私とは正反対の存在だった。


「追試、どうだった?」


彼は手に持っていた書類の束を机の上に置きながら、自然に尋ねてきた。


「なんとか、赤点は免れました…たぶん」


私は照れくさそうに髪をかきあげながら答えた。


佐々木先輩は微笑んで、「よかったな」と言った。その言葉に嘘はなく、純粋に他人の幸せを願える人なのだと思う。だからこそ、学校中の人気者なのだろう。


「先輩は、何をしているんですか?こんな時間まで」


先輩は窓際の席に腰掛けながら、「文化祭の準備だよ。企画書の最終チェックをしてたんだ」と答えた。


窓から差し込む夕陽が、先輩の横顔を黄金色に染めていく。私はその姿に、ほんの少しだけ見とれてしまった。


「それにしても暑いな」


先輩はそう言って、制服の第一ボタンを外した。その仕草があまりにも自然で、思わず目が釘付けになる。


「あ、そうだ。葉山、これ飲むか?」


先輩は鞄からペットボトルを取り出し、私に差し出した。


「え、いいんですか?」


「ああ、今朝買ったばかりだけど、まだ冷たいはずだ」


私は恐る恐る受け取った。ほんのりと冷たいペットボトルが、火照った手のひらに心地よかった。


「ありがとうございます」


一口飲むと、レモンの爽やかな風味が喉を潤していく。それは夏の放課後にぴったりの味だった。


「葉山は文化祭、何か出し物するの?」


「いえ、私のクラスは普通に喫茶店なので…特別な役割はないです」


「そうか」


短い返事の後、少しの沈黙が流れた。それは不思議と居心地の悪いものではなかった。


「実は、私、先輩に相談があるんです」


言葉が、自分の意思とは関係なく口から飛び出した。


先輩は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、「どんなこと?」と尋ねた。


「その…どうやったら先輩みたいに、勉強ができるようになりますか?」


先輩は意外そうな顔をした後、クスリと笑った。


「そんなに難しいことじゃないよ。コツさえ掴めば」


「コツ、ですか?」


「うん。よかったら、教えてあげようか?」


私の目が大きく見開かれた。学校一の秀才から直々に勉強を教わるチャンス。こんな幸運があるだろうか。


「ぜひお願いします!」


思わず大きな声を出してしまい、恥ずかしくなって口を手で覆った。先輩はそんな私の反応が面白かったのか、優しく笑った。


その笑顔が、私の胸の奥で何かを揺らした。


――――――――――――――――――――――――


翌日の放課後、約束通り図書室で先輩と待ち合わせた。


「よく来たな、葉山」


窓際の席に座っていた先輩が手を挙げて私に気づかせる。静かな図書室の中で、まるで時間が止まったかのような空気感があった。


「お待たせしました」


私は小声で言いながら、先輩の向かいの席に腰を下ろした。


「まずは、何が苦手なのか教えてくれるかな?」


「全部、です…」


正直に答えると、先輩は少し困ったような顔をした。しかし、すぐに「じゃあ、基礎からやっていこうか」と言って、自分のノートを広げ始めた。


先輩のノートは驚くほど整然としていて、色分けされた文字や図解が見やすく配置されていた。私のグチャグチャなノートとは大違いだ。


「まず、ノートの取り方から変えてみよう」


先輩はそう言って、私に新しいノートの取り方を教えてくれた。重要なポイントを色分けし、関連する情報をまとめる方法。それは私にとって目から鱗だった。


「こうすれば、テスト前の復習も効率よくできるんだ」


先輩の説明は明快で、私でも理解できるものだった。彼の言葉一つ一つに、私は頷きながら聞き入っていた。


「葉山は頭が悪いわけじゃないよ。ただ、勉強の仕方を知らないだけだ」


その言葉に、私はびっくりした。今まで誰も、私にそんなことを言ってくれなかった。いつも「もっと努力しなさい」とか「集中力がないのね」とか言われるだけだった。


「先輩…」


思わず、目頭が熱くなる。先輩は慌てた様子で、「ど、どうした?何か言い過ぎたか?」と尋ねた。


「いえ、嬉しくて…。初めて、私のことをそんな風に言ってくれた人がいて」


先輩は少し照れたような表情を見せて、「当たり前のことを言っただけだよ」と答えた。


その後、私たちは数学の基礎問題に取り組み始めた。不思議なことに、先輩に教わると、今まで理解できなかった公式や解き方が少しずつ分かるようになっていく。


「そうそう、そんな感じだよ。葉山、できるじゃないか」


先輩の褒め言葉に、胸がじんわりと暖かくなった。


図書室の窓から差し込む夕陽が、先輩の横顔を優しく照らしていく。その姿に見とれていると、先輩と目が合ってしまった。


「どうした?」


「あ、いえ、何でもないです!」


慌てて目を逸らすと、先輩はクスリと笑った。


「今日はこのくらいにしておこうか。また明日、続きをやろう」


「はい!ありがとうございました!」


私は深々と頭を下げた。初めての勉強会は、想像以上に実りあるものだった。


――――――――――――――――――――――――


それから毎日、放課後になると先輩と勉強会をするようになった。最初は図書室だったが、そのうち先輩の「もっと静かな場所がいいな」という提案で、使われていない古い理科室を使うようになった。


「葉山、この問題はどうやって解く?」


先輩は私にチャレンジ問題を出してくれるようになっていた。


「えっと…ここで置き換えて…そして…」


私は必死に考え、解答を導き出そうとする。一週間前の私なら即座に「分かりません」と投げ出していただろう。しかし、今は違う。先輩に教わったコツを思い出しながら、少しずつ解いていく。


「うん、その調子だよ」


先輩の励ましの言葉が、私の自信になっていく。


「あ!分かった気がします!答えは…x=3ですか?」


「正解だよ、葉山!」


思わず嬉しくて小さくガッツポーズをすると、先輩は優しく微笑んだ。その笑顔を見るたびに、私の心はどきどきしてしまう。


「先輩のおかげです」


「いや、葉山が頑張ったからだよ。俺は少し手助けしただけさ」


先輩の言葉に、胸がきゅっと締め付けられるような感覚があった。


「あの、先輩…」


「ん?」


「どうして、私なんかに親切にしてくれるんですか?」


その質問は、ずっと心の中にあったものだった。学校一の人気者が、何故こんな平凡な私に時間を割いてくれるのか。


先輩は少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しい表情に戻った。


「葉山が頑張っている姿を見るのが、なんだか嬉しいんだ」


「え?」


「人が成長する姿を見るのは、教える側にとっても喜びなんだよ」


その言葉は純粋で、嘘がなかった。先輩はそういう人なのだ。誰に対しても分け隔てなく優しい。


そう思うと、少し切なくなった。先輩にとって私は、単なる「教えてあげる相手」の一人なのかもしれない。


「そろそろ時間だ。今日はここまでにしようか」


先輩の言葉で我に返り、私は頷いた。


教室を出て校門まで歩く間、私たちは黙っていた。夕暮れの学校は、不思議と魔法がかかったように美しく見える。


「先輩、ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」


校門で別れる時、私はそう言った。


先輩は「ああ、また明日」と答え、手を振って帰っていった。私はその背中をずっと見送っていた。


この胸の高鳴りは、いったい何なのだろう。


――――――――――――――――――――――――


週末、私は久しぶりに友達の春香と遊ぶ約束をしていた。


「茉莉、最近全然連絡くれないじゃん!何してたの?」


カフェで会った春香は、いつもの調子で私に話しかけてきた。


「ごめんね、ちょっと勉強に集中してて…」


「へぇ〜、茉莉が勉強?珍しいね」


春香の驚いた表情に、少し恥ずかしくなる。


「あのね、実は佐々木先輩に教えてもらってるんだ」


「えっ!?あの佐々木翔太先輩が!?」


春香の声が大きすぎて、周りのお客さんが振り向いてしまった。私は慌てて彼女を静かにさせようとする。


「なんで佐々木先輩が茉莉に?」


「それが…偶然なんだよね」


私は放課後の教室での出来事から、今までの経緯を話した。


「茉莉、それって…」


春香は意味深な表情で私を見つめた。


「それって、何?」


「もしかして、佐々木先輩、茉莉のこと好きなんじゃない?」


「え!?そんなわけないよ!」


思わず声が上ずってしまう。顔が熱くなるのを感じた。


「だって、学校一の人気者が、特定の子だけに勉強を教えるなんて、普通じゃないよ?」


春香の言葉に、心臓が早鐘を打ち始めた。でも、そんなはずない。先輩はただ親切なだけだ。


「先輩は、ただ親切なだけだよ…」


「ふーん、そうかな?」


春香は意味ありげな笑みを浮かべた。


「それよりさ、茉莉は佐々木先輩のこと、どう思ってるの?」


その質問に、私は言葉に詰まった。どう思っているのか。尊敬している。感謝している。でも、それだけじゃない気がする。


「わかんない…」


正直に答えると、春香は「まだ気づいてないんだね」とクスリと笑った。


「春香、どういう意味?」


「自分で気づくまで、内緒♪」


春香のからかいに、私は頬を膨らませた。


その日の会話は、私の心に波紋を広げていった。


――――――――――――――――――――――――


月曜日、いつものように放課後の勉強会が始まった。しかし、春香の言葉が頭から離れず、先輩の顔を見るたびに胸がどきどきしてしまう。


「葉山、集中してないな。どうした?」


先輩の言葉に、はっとする。


「す、すみません!」


「無理しなくていいよ。疲れてるなら、今日は休もうか」


先輩の優しい言葉に、胸が痛くなった。


「先輩…私、先輩に質問があります」


言葉が自然と口から出た。


「なんだ?」


「どうして、先輩は本当に私に勉強を教えてくれるんですか?」


先輩は少し驚いたような顔をした。


「前にも答えたと思うけど…」


「本当の理由が知りたいんです」


私の声が震えていることに、自分でも驚いた。


先輩は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。


「実は…葉山が一人で追試勉強してるの、前から知ってたんだ」


「え?」


「放課後、誰もいない教室で一人で勉強してる姿を何度か見かけたんだ。すごく頑張ってるのに、成績が上がらなくて悔しそうにしてるのを…」


先輩の言葉に、私は息を呑んだ。


「それで、手助けしたいと思ったんだ。でも、きっかけがなくて…あの日、偶然教室であったのは本当だけど、ずっと声をかけるタイミングを探してたんだ」


先輩の告白に、私の目から涙がこぼれ落ちた。


「葉山?どうした?何か言い過ぎたか?」


先輩は慌てて立ち上がり、私の隣に来た。


「違います…嬉しくて…」


私は袖で涙を拭った。


「先輩のおかげで、私、勉強が少し楽しくなってきたんです。今までこんな気持ち、なかった」


先輩は優しく微笑み、私の肩に手を置いた。


「それを聞いて、俺も嬉しいよ」


その瞬間、私は気づいた。この感情が何なのか、はっきりと。


「先輩、私…」


言葉に詰まる。先輩は静かに私の言葉を待っていた。


「私、先輩のことが…好きです」


告白の言葉が、静かな教室に響いた。


先輩の目が大きく見開かれ、そして、優しい笑顔に変わった。


「葉山…俺も、お前のことが好きだ」


その言葉に、私の心は大きく跳ねた。


「でも、勘違いしないでほしい。俺がお前に勉強を教えたのは、好きだからじゃない。お前が頑張ってる姿を見て、力になりたいと思ったからだ」


「はい…」


「そして、教えていくうちに、どんどんお前のことが好きになっていった。素直で、一生懸命で、時々抜けてるところも含めて」


先輩の告白に、私の顔は真っ赤になった。


「だから…これからも、一緒に頑張ろう。勉強も、そして…」


先輩の言葉が途切れ、少し照れたような表情になる。


「そして?」


「俺たちの関係も…よかったら」


私は嬉しさのあまり、小さく頷くことしかできなかった。


夕陽が差し込む教室で、私たちの新しい関係が、そっと芽吹き始めた。


――――――――――――――――――――――――


その後、私と先輩は付き合い始めた。勉強会は続けながらも、時々デートも楽しむようになった。


そして一ヶ月後、ついに中間テストの結果が返ってきた。


「葉山茉莉、78点」


数学の先生が私の名前を呼び、テスト用紙を渡した。クラスメイトたちの驚いた声が聞こえる。いつも30点台だった私が、クラスの平均点を超えたのだから当然だ。


放課後、私は嬉しくて先輩の元へ駆けていった。


「先輩!見てください!」


先輩に飛びつくようにテスト用紙を見せると、先輩は満面の笑みを浮かべた。


「すごいじゃないか、葉山!」


「先輩のおかげです!」


私たちは互いに見つめ合い、笑顔を交わした。


教室の窓から差し込む夕陽が、私たちの姿を黄金色に染めていく。あの日と同じ光景だけど、すべてが違って見える。


夏の終わりに向かう季節の中で、私の人生は新しく、そして美しく変わり始めていた。


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